「島と唐桑にそり橋架けて、渡りたいぞや只一度」。俚謡にまで唄われ、先祖代々の悲願だった気仙沼大島架橋が実現し、昨年4月7日に開通式が行なわれた。
このコラム執筆の話があったとき、もう離島ではないので資格がないのではと思ったが、架橋前後の島の状況をと云われて合点がいった。橋が架かっても島は島である。宮城県の大島(おおしま)に変りはない。
思えば、長い架橋運動だった。昭和26年、当時の大島村(現在の気仙沼市)が、公的に架橋計画に取り組んでから、実に65年目に架橋が実現した。「命の橋」と切望したわりには永い道のりだった。
渡りたいぞや只一度と、先祖代々一致した願望のはずだった架橋が、昭和42年の県勢発展計画に明記され、いざ実現の可能性が出てくると、島を二分する賛否両論がわき起った。度し難きは人心である。誰が計画から実現までに50年の歳月を要すると予想しただろうか。
ともあれ半世紀を経て「気仙沼大島大橋」が完成した。300メートルたらずの海峡はあまりにも遠かった。しかし、今はもう云うまい。島なるがゆえの、もろもろの問題点は大方解消されたが、本土と一体化して新しい悩みも生じている。それらは当然予想されたことで、一つひとつクリアしていくしかない。
架橋によって、漁業も観光も飛躍的に伸びつつある。これを契機に地元の詩人水上不二が詠んだ「みどりの真珠大島」を、一層発展させなければならないと思っている。(2020年11月発行『季刊ritokei』33号掲載)
水上忠夫(みずかみ・ただお)
1932年宮城県気仙沼市大島生まれ、在住。県立気仙沼高校卒。気仙沼市議会議員、大島漁協組合長等歴任。第7回全国離島青年会議出席。講師に宮本常一、浅野(山階)芳正氏等。全国離島振興推進員連絡委員会会員