つくろう、島の未来

2024年11月21日 木曜日

つくろう、島の未来

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5月の初旬、気仙沼大島への直接支援を考える方々から、
現地調査に入るとの連絡を受け、私、鯨本が同行しました。

被災地の現状や人々の声は、さまざまなメディアから流れています。
情報はメディアの意志に沿って編集されてしまうため、
誰かにとっては、うれしくない表現が用いられてしまうこともあります。

離島経済新聞では、すこしでも被災地の方々のためになるよう、
島で出逢った方に直接聞いたこと、目に映ったもの、そこで感じたことを、
鯨本自身の言葉でまとめていくことにしました。
このカタチでは、個人の感情が入りやすいのですが、
鯨本が被災地で聞いた「忘れないでほしい」という人々の想いを、
すこしでも届けられたらと思います。

#01 気仙沼大島までの道のり

--5月3日、気仙沼大島に向かう車に乗って、現地へ向かいました。

メンバーは、震災支援について離島経済新聞で話をしてくれた、三宅島の穴原くんや伊豆大島の志賀さんをはじめ、伊豆大島にある海洋高校出身で震災以来、支援ボランティアに走りまわってきた細田くんなど、気仙沼大島に対して何かしらの支援を考える6名。

この数週間前に一度、島へ訪れていた細田くんが現地の方に、単一の乾電池、お酒、タバコなどが不足していると聞いていたので、私たちはそういった物資を車に詰め込み、出発しました。
道中、車内では「復興のため、何ができるのだろうか?」という話題が繰り広げらました。一行が被災地に入ることには、この「何ができるのか?」を調査するという目的があったため、議論は朝まで延々と続いていきました。

仙台に入ったあたりから気仙沼まで、窓の外にはあの日以来、テレビで繰り返し流されてきた光景が続きました。
私は被災地に入ることも、気仙沼大島へ訪れることもこれがはじめてでした。個人的な話をすると、私は九州出身で、東北へ行く機会になかなか恵まれなかったため、東北という土地がどういう場所なのか知らないまま、震災後の姿を見ることになりました。

ただ、元の姿を描くことができなくても、そこにあったはずの町と人影が消えた風景を目の前にすると、言葉が見つからず、ただ、ご冥福を祈るしかありませんでした。

この日、雨といわれていた天気予報は外れ、穏やかな春の日和になりました。午前中に気仙沼へ到着した私たちは、島へ渡る前、気仙沼の役場で気仙沼市や島の状況を確認することにしました。
施設の中には、支援物資が積まれ、親族をさがす張り紙と、全国から届いたメッセージが並んでしました。
役場では、気仙沼の災害FMを担当されている産業部商工課の畠山修さんが対応してくれました。

「市内の被害状況は、 エリアによってまったく状況が違うので、一概は言えません。
漁協さんのほうでは、6月にはカツオ漁がはじまるので、 そこをめどに漁協再開を目指しています。ただ、魚とってくればいいという話ではなく、 それには冷蔵設備が必要だったり、氷の供給、加工、流通ルートも必要です。
まずは水揚げからですが、沿岸部は、すべて津波でやられているから、 どうしても、先が長い話になってしまいますね・・・。

三陸沿岸は漁場が豊かな地域です。
気仙沼には日本一のフカヒレがあり、生鮮カツオの水揚げは日本一。 日本有数の漁港があって、だから、水産加工も発達してきました。
しかし今、漁をする船も、養殖場もすべて流され 湾のなかには大量のがれきが沈んでいます。
2~3年は海に期待ができず、 水産加工の技術はあっても、材料がないわけです・・・。」

突然訪れた私たちに対して、畠山さんは、とても静かに、淡々と状況を教えてくれました。
「復興の支援」について、延々と語ってきた私たちでしたが、ここではまだ「復旧」の段階でした。

途中、何かの話のなかで 「曜日感覚がなくて・・・」と畠山さんがつぶやきました。
この日はゴールデンウィークの真っ最中でした。
畠山さんも被災者であるものの、市の職員として、あの日以来、ずっと市民のため復旧に奔走されてきたはず。冷静に語られる言葉から、これまで続いてきた日々の過酷さが伝わってきました。

畠山さんに大事な時間と話をいただいたあと、 私たちは、島へ渡るフェリー乗り場へ向かいました。

気仙沼港には、巨大なフェリーや黒こげになった船が、陸にあがっていました。こわれた港には、数日前に広島県の江田島から寄贈されたというカーフェリーが待っていました。
震災前、島と本土をつないでいたフェリーは、他の船同様にすべて流されてしまったため、このフェリーが寄贈されるまでの間は、「ひまわり」という小さな連絡船が、島と内地をつないでいました。この日、「ひまわり」はお休みとのことで、私たちはフェリーで島へ渡りました。
島までの25分間。 湾には黒こげになり、ひっくりかえった船がいくつも浮かんでいました。そして、海から気仙沼市内を見ると、沿岸部のほとんどが、がれきになっていることが分かりました。

「大島は観光の島でした。 島には、海水浴場100選に選ばれた『小田の浜(こだのはま)』という海水浴場や、『十八鳴浜(くぐなりはま)』という鳴り砂の浜があって、夏場はとても賑わっていました。
『亀山』という夏の間2人乗りのリフトが稼働していて、山頂からは360度パノラマ、すばらしい景色が見えました。
島は、体験学習や修学旅行の誘致に力を入れていて、首都圏や北海道、仙台方面から年間4000人ほどの利用がありました。」

乗船している間、畠山さんが教えてくれた島の話が浮かびました。

     

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