つくろう、島の未来

2025年12月03日 水曜日

つくろう、島の未来

意志ある未来となりゆきの未来。K島とR島、ふたつの島で生きる人々の暮らしはどこに続いていくのか。離島経済新聞社の取材をもとに構成したフィクションでお届けします。

※この記事は『季刊ritokei』50号(2025年8月発行号)掲載記事です。フリーペーパー版は全国の設置ポイントにてご覧いただけます。

2025年9月 K島

「女の子ですね」

白髪のM医師はそう言いながら、 やさしく目尻を下げた。

「そうか娘か。 そうかそうかぁ」

O太は目尻を下げながら、そうかそうかとつぶやき続ける。妊娠5ヶ月。生まれる前からこの調子なら、 出産後は漁に出るのもしぶりそうだなとA子は笑った。

海抜50メートルくらいの高さだろうか。高台にある診察室の窓からは港が見える。 人6,000人のK島は漁業が盛んで、最盛期には8万人が暮らしていたという。漁港には大漁旗をはためかせた漁船がぎゅうぎゅうで、市場には一面トロ箱が並んでそりゃあ壮観だったんだ。にぎやかなんてもんじゃない。商店街なんかすれ違う人と肩がぶつかるほどだったんだぞと、少し前に死んだO太の祖父は、いつも焼酎片手にうっとりと自慢していた。

今のK島といえば、商店街の9割はシャッターを下ろしている。祖父の昔話をなぞるように、東京育ちのA子は見たことのない―そして今もこれからも見ることはない一景色を想像したものだった。

2025年9月 R島

「男の子ですね」

R島の診療所でU医師がそう告げると、H郎は 「やったあ!」と叫んだ。

まるで島の野球部が本土の試合で逆転ホームランを打ったかのような歓声に、近くにいた看護師がミーアキャットのように揃って振り返る。半径10メートルから集まる祝福の視線を受けながら、K子はやれやれと困ったような顔をつくってよろこびを噛みしめた。

妊娠5ヶ月。7年前に島に移住してきたH郎と結婚して数年が経つ。決して悪意はないのだろうが、近所のおばさんたちに「子どもはまだ?」と聞かれ続けることをプレッシャーに感じていたK子は、「まだ?」と言われることがなくなったことに開放感を感じていた。

本土から定期船で3時間のR島(自治体はP町という)には約2,000人が暮らしている。かつては漁業と採石業が中心で、1950年代までは2万人が暮らしていた。名の知れた島ではないし、これといって目立った観光地でもない。昔の友達にR島に移住したと話すと「どこ?」と聞かれてばかりだった。

それでもK子はR島が気に入っていた。どこかなつかしげな漁村の風景も、おしゃべりな人々も、路地裏であくびをするネコたちも愛らしいのだ。


2025年12月 K島

妊娠8ヶ月にもなると、お腹の命はもにょもにょと動くようになった。 定期健診でM医師に「順調」 と言われてきたからA子は安心していた。

しかしさすがは「子は宝」と呼ばれるK島だ。A子が妊婦であると知れた日からずっと、港に行くにも郵便局に行くにも、「予定日は3月3日だってねえ」「お乳にはパパイヤがいいんだ」「これ持っていきなさい」と、島のおばあたちにつかまっていた。

お腹の中で育つこの命は、おばあたちとは血がつながらない。けれどそんなことは関係ないらしい。K島の人にとって子どもはみんなの宝。新しい島の子が生まれてくる日を指折り数えるおばあたちの笑顔に、この子を待っているのは私たちだけではないんだなとA子は頷いた。

2025年12月 R島

妊娠8ヶ月を迎えたK子は旅支度をはじめていた。出産できる病院はR島にないし、35歳という年齢は高齢出産のリスクもある。P町には妊娠出産にかかる費用をしっかり補助してくれる仕組みがあるので、R島のママたちにとって出産は島外でするものだという感覚が当たり前になっていた。

「まあ、大丈夫でしょう」

初産ながらK子は安心していた。というのも、5年前に出産経験のあるR島のママたちが「出産を待つ間に住める家が欲しいよね」と、クラウドファンディングで資金を募って本土にシェアハウスをつくっていたのだ。K子はそのシェアハウスのことをよく知っていたし、港のそばにあって買い物にも困らないし、H郎や島の友達もしょっちゅう立ち寄ってくれる。 不安よりもわくわくが優っていた。


2026年1月 K島

その日は突然やってきた。「お産ができなくなるらしいよ」そんな噂がK島を駆け巡ったのだ。

「どういうこと?」

動転したA子はO太に尋ねるが、答えを持っていない彼は眉間にしわを寄せることしかできない。K島にお産のできる病院はひとつしかない。翌朝、病院に行くとSという代診の医師がいた。M医師は体調を崩し本土の病院に入院しているそうだ。

「出産はできますか?」

A子が尋ねると、S医師は感情の読み取れない表情で「ここでは難しいですね」 と言った。M医師に診てもらえなくても、代診が来るだろうとなんとなく思っていた。けれどお産のとれる医師は本土でも不足していてK島に来れる医師など存在しないという。A子とO太は愕然とした。

「どうしよう」

大変なのはここからだった。これまでずっと「順調」だったから、 本土の病院にもかかってこなかった。里帰り出産も考えたが、A子の実家はK島から船と飛行機を何度も乗り継ぐ場所にあって、重度の認知症をわずらう祖母の介護で両親ともに余裕はなかった。

たとえこちらにどんな都合があっても、刻一刻とその日は迫ってくる。あちこちの紹介を受けながら、なんとか本土の産院と安いビジネスホテルを確保できた頃には、臨月の1週間前になっていた。

本土まではフェリーで6時間(もしくは高速船で2時間半かけて)。 フェリーの運行会社には臨月をすぎた妊婦は乗船できないルールがあるから、A子は急いで本土に渡り、その日が来るまでしなびたホテルの一室で、ただひたすら待つことになった。

2026年1月 R島

予定日に向けて、K子は本土で暮らしはじめた。シェアハウスの窓からはかすかにR島の影が見える。ここで暮らすのは出産待機の妊婦だけでなく、本土の高校に通う島の子どもたちも暮らしている。船の欠航で島に帰れなくなった人が泊まれる部屋まである。

リビングには、島とつながるオンライン会議システムが置かれていて、空いていれば友達や家族と話すこともできる。「ちゃんと食べてる? 遅刻してない?」シェアハウスから高校に通うC助が、オンライン越しに母からの生存確認を受けている。

C助のママはK子の友達でもある。K子がC助のそばからひょっこり顔を出すと、「あら、いたのー?調子はどうー?」と井戸端オンライン会議に花が咲く。便利な時代である。

高校1年生のC助は、最近はじめて彼女ができたらしい。ママには言わないでよというC助に秘密保持を誓いながら、甘酸っぱい恋愛相談にのる時間をK子はたのしんでいた。


2026年4月 K島

「やっと帰ってこれたね」

3月3日よりも5日遅く生まれた娘・S美とA子は、出産後の定期健診がおわるまで本土で過ごし、2ヶ月ぶりにK島へ戻ってきた。本土まで迎えに来たO太と一緒にフェリーに乗る。フェリー乗り場でも、船内でも、K島に降り立つタラップでもずっと顔見知りの面々が「おめでとう」「よかったなあ」と喜んでくれたことがA子の心を慰めた。

生まれるまでの1ヶ月間と生まれてからの1ヶ月がどれだけ心細かったか、しなびたホテルで天井を見つめる時間がどれだけ孤独だったか、A子は墓場まで語り継ぐ勢いで顔見知りの皆々に語り続けた。

冷静な話、予定外の出費も痛かった。急に島でのお産ができなくなったことをK島が属するT市(ちなみに本土も島も含まれる自治体で市役所は本土側にある)では予見できておらず、年度末で予算が確保できないといわれたきり、出産前後のビジネスホテル代や生活費はすべて自腹になったのだ。

長女誕生の水面下で、数十万の出費が若い夫婦に重くのしかかった。

2026年4月 R島

「おかえりー!」

予定日よりも少し早く生まれた息子・P太郎とK子がR島に帰ってきた。 港の待合所にはふたりの帰島を知った町長が待ち構えていて、にこにこ顔で「ようがんばったな」とK子を気遣い、新たな島民を出迎えてくれた。

K子は保育士で、H郎は観光ガイドを営んでいる。P太郎が半年になるまでは育児休暇をとるつもりだが、K子はなるべく早く職場復帰しようと考えていた。

夫婦共に移住者でもともとR島にゆかりはない。3.11をきっかけに地方移住を考えていた時、離島専門というメディアのSNS投稿が目に留まり、島とつながるオンラインイベントに参加したのをきっかけにR島への移住が決まった。たまたまつながったR島だったが、役場職員も集落の先輩移住者もふたりが早く島になじめるようにと、いろんな情報をくれ、人をつなぎ、ワカメやアワビや大根を食べきれないほどおすそわけしてくれた。

「困った時はお互いさまだから」この島の人たちはいつも、口ぐせのようにそう語る。そんな性分が移住者であるK子にも伝染したのか、 K子も島の人たちが困っているなら一肌脱ごう、保育士不足のR島の役に立とうと、ごく自然に感じていたのだ。


2027年3月 K島

S美は1歳になった。突如、お産ができなくなったK島ではその後、本土での出産にかかる費用が助成されるようになったが、産婦人科がなくなった直後に小児科もなくなってしまい、6ヶ月になったS美が高熱を出した時にはヘリで緊急搬送される事件もあった。

なくなったのは病院だけではない。O太が通っていた小学校は統廃合され、保育士不足から3歳以下の乳幼児を預かる保育所がなくなってしまったのだ。「1歳には保育園に入れたかったのに」事務員の仕事に復帰しようと思っていたA子は、あと2年職場に復帰できないことになった。

O太も不運が続いていた。海水温の変化か、このあたりでは見かけなかった魚が水揚げされるようになっていた。市場で値がつかない魚は二束三文か廃棄されるか。 国際情勢の悪化で燃料費は上がり、それでもなんとか海に出た日に限って、スクリューに大量のゴーストギアが絡まり船は故障修理のために1ヶ月も漁に出られず、 数十万の損害が出てしまった。

漁師仲間の手伝いやらで生活費はぎりぎり稼げたが、こんな状態でS美を養っていけるのだろうかと不安がうずまいていく。「どうすればいいんだか」塩害でさびついた軽トラの窓から湿った風がまとわりつく。O太は頭を抱えてみるが、問題が大きすぎると脳みそは思考停止するらしい。島の栄光時代に建てられ、今はすっかりさびれてしまった小さなパチンコ屋に軽トラを停めて、 パチンコ玉の音と動きに集中することでO太はその問題に蓋をした。

2027年3月 R島

P太郎が1歳になった。K子はP太郎と一緒に保育園に通い、保育士として働いている。「子どもたちが遊べる場所を増やしたい!」H郎はそんなことを熱弁しながら、パパ友や役場職員を巻き込み、自然の遊び場をつくる企画を立てていた。

近頃のR島には海外からの旅行者も増えていた。コロナ禍で来島者が激減した時はH郎も仕事がゼロになり、島中の観光事業者が一様に頭を抱えていた。「持続可能な観光をつくろう!」H郎たちが声をあげた時には、いぶかしげな顔をする人もいたが、 立ち止まっていたら島ごと沈んでしまう。飲食店やホテル、フェリー会社、 役場、病院、学校まで、呼びかけに共感した人々が集まった。

「こんなアイデアはどうかな?」

「うまくいってる地域に話を聞こうよ」

夜な夜な語り合うH郎たちに夜食を差し入れながら、ピンチはチャンスなのかもしれないなとK子は思った。


2028年 4月 K島

この3年でK島の人口は6,000人から5,000人に減ってしまった。乳幼児を預かれる保育所がなく学校も減ったK島は、若い夫婦に選ばれにくく、本土に移る人やUIターンをあきらめる人が増えたのだ。人口が減ったことでバスの本数も減ってしまった。

「診療所にいくのに1日かかる」

免許を返納していた隣のおばあは、車で30分かかる診療所にバスで通っているが、バスの減便で通院が1日がかりになったらしい。暮らしに必要なものがぼろりぼろりと剥がれ落ちていくようだ。

本土からくるT市の職員は、地方創生の専門家を連れてきてワークショップを開いていた。地域おこし協力隊という制度で移住した若者は「K島を盛り上げたい!」と息を巻き、「バスの代わりになる移動手段をつくりたい」といって都会の企業を連れてきていたらしい。けれど、島の長老に反対されたのか最近は姿を見かけなくなった。

この島で起きていることがA子にはよくわからなかった。夕食でそう口にすると、「学校の時もそうだったな」とO太が言った。島内に5校あった小中学校が1つに統廃合されるという時、反対する人たちが有識者を招いて勉強会を開いていた。 その時、O太は特に関心がなく「何かやっているな」と思っていた。

教育 DXというのか、先進的な教育環境をつくろうと提案されていたが、本土側にあるT市の教育委員会は島の事情にもうとくて結局、何も進まず小中学校は統廃合された。これらをなんとなく眺めていたO太はうわさ話程度でしか情報を得られず、A子と同じく「わからない」 まま状況を受け入れるしかなかった。

S美は2歳。廃校になった小学校は家から5分だったが、統廃合された小中学校へは家から30分かけてバスで通うことになる。「仕方ないだろう」自分に言い聞かせるようにO太はつぶやいた。

2028年4月 R島

「できたぞー!」

H郎が両手をあげて手招きする。完成したのはでこぼこの坂道だった。島は自然が豊かだが安全に遊べる場所は多くない。幼児が自然の中で遊べるフィールドとして発案されたのがでこぼこの坂道だった。

「きゃー!」

「わはははは」

2歳になったP太郎が坂道をごろごろ転がりはじめた。でんぐり返しをするパンダのようなP太郎をみて大人たちが笑う。坂道は子どもでいっぱいになり、 皆が転がりながら笑い合っていた。

「何もないから創造できるんだ」

H郎と一緒に坂道をつくった漁師のJ太が鼻高々に語った。

3年前、R島では大問題が発生した。少子化で島の子どもが減ったR島では15年前から島外の子どもを受け入れる離島留学をはじめていたが、子どもを預ける親御さんとの里親の価値観の違いから、訴訟寸前のトラブルが勃発したのだ。

内容はこうだ。R島では子どもは集落の皆で育てるという価値観が根強いため、里親も里子を集落の中でのびのび育つよう放任していた。もちろん安全面には気を配っていたし、寝食も欠かしたことはない。

けれど小6の留学生が実親に「いつも里親にほっとかれている」と漏らしたことが火種となり、実親が怒鳴り込んできたのだ。役場も学校も教育委員会も連日のように対策を話し合い、なんとか収束に向かった。

「子どもにとって一番良い環境とはなにか」この事件をきっかけに島の大人たちは問いはじめ、島外の専門家を招いて魅力的な子育て環境をつくる勉強会を開くようになった。H郎やJ太によるでこぼこの坂道も、この話し合いの輪から生まれたものだった。


K島・R島共に社会変化が進行する2030年(後編)に続く >>





     

特集記事 目次

島々が向かう意志ある未来となりゆきの未来

国内417離島に暮らす人は100万人弱。それぞれが住人の生活空間であり、訪れる人に癒しや学びを与える場であり、国にとっては世界6位という広大な面積を誇る「日本の海」を平和的に維持するための拠点でもあります。

一方、島々では人口減少が進み、インフラの維持や気候変動などの課題が急増しています。2025年は、隠岐諸島や奄美群島の主要航路で減便が発表され、医師、保育士、 公務員など暮らしを支える人材の不足も深刻化しています。

いま、私たちは考えるべき岐路に立っています。このまま流れに身をゆだねていくのか。それとも、「こんな未来をつくりたい」という意志を持ち歩んでいくのか。本特集では、未来に向けた 人々の「意志」 を共有します。

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