つくろう、島の未来

2021年05月15日 土曜日

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第7回は、地元、八重山列島(やえやまれっとう|沖縄県)では通称「パナリ(八重山方言で“離れ”の意味)」と呼ばれる新城島(あらぐすくじま|沖縄県)へ。島にポカリとできた空き地の背景には、先祖伝来の土地を買い戻した住人たちの強い意志がありました。

営業していたころの「はいむるぶしパナリ」のヴィラ(1998年9月撮影)

ポカリとできた空き地で島の来し方行く末を思う

日本最南端の八重山列島で一番地味な有人島といえば、パナリ(新城島)ではないだろうか。有人島であるにもかかわらず、唯一定期船が通っていないことが、存在感の希薄さと結びついているに違いない。

しかし、訪れようとすると、それほど困難ではない。石垣島(いしがきじま|沖縄県)、西表島(いりおもてじま|沖縄県)、黒島(くろしま|沖縄県)、小浜島(こはまじま|沖縄県)など、周辺の島々からシュノーケリングツアーが出ていて、それに参加すれば容易に渡ることができるからだ。

「パナリ」を漢字で書くと、「離れ」。潮が引けば歩いて往来できる、サンゴ礁でつながった上地(かみじ)と下地(しもじ)という2つの島を総称して、パナリと呼ぶ。

1974年に初めて八重山を訪れた当時、パナリの集落はすでに息も絶え絶えだった。上地からは1938年に、下地から1941年に、対岸の西表島へ大規模な移住が行われ、人口が大きく減少していたからだ。
その後、下地は敗戦を挟んで、1963年廃村になった。1975年の国勢調査によれば、上地の人口は15人。そのまま人口が減って、無人化してもおかしくない状況だ。

旅人が渡るには、西表島の大原から郵便船に便乗させてもらうしかない。あとは、地元の船をチャーターするか。
しかし、パナリはしぶとく生き延び、1998年になって渡る機会が訪れた。リゾート施設の運営を手掛けていた旧・ヤマハリゾートが所有していた小浜島の「はいむるぶし」に泊まった時、幻の島パナリを訪れるツアーがあると知って参加したのだ。

ツアーはプレジャーボートで上地に上陸して島内の主なポイントを歩いて巡り、別館「はいむるぶしパナリ」でランチをとるというもの。パナリは、今も秘祭が伝わる謎深き島であり、波照間島(はてるまじま|沖縄県)に次ぎ、日本で2番目に南に位置する有人島でもある。
そんな秘島パナリへ渡り、小洒落たリゾートで食事ができただけで、その時はなんとなく満足だった。

それから20年。最近立派な公民館もできたらしいと聞き、パナリ島観光のツアーに参加して再び上地を訪れた。西表島の大原で石垣島から高速船で到着したガイドと合流すると、少し待つように言われた。乗船券売り場から戻ったガイドに渡されたのは、「大原→新城」という乗船券。きちんと印刷されナンバリングも施されていた。

こんな航路あったっけ? 乗船券に目が釘付けになっていると、出航時間だから乗船するよう船員に急かされ、慌てて飛び乗った。後日、船会社に確認したところ、新城公民館から要請があった時に限り、上地に寄港するのだという。住人専用の航路だったのだ。

公民館(新城島防災施設)は2014年に完成した(2018年11月撮影)

島内散策で最初に立ち寄ったのは、広々とした上地小中学校跡地に、2014年完成したばかりの立派な公民館(防災施設)だった。ガイドいわく、住民登録されている人口は12人(2018年11月時点)。

公民館の屋上から集落を一望する。見えたのは一部の家だが、すぐに寝泊まりできる家が37軒もあるという。実際歩いてみると、人影はまばらにもかかわらず、生活の気配が濃密に漂っている。廃屋はほとんどなく、手入れの行き届いた家ばかり。

年に4回ある大きな祭り、特に豊年祭(原則として部外者は立入禁止)の時には500人くらいが帰郷して、島は沸騰する。そのために、島の家は常時使えるように維持されているという。

公民館の屋上から眺めた集落(2018年11月撮影)

公民館から、小径をたどって北浜へ向かう。天気がよければ、ここでシュノーケリングなのだが、あいにく目の前のサンゴ礁は季節風で波立ち、中止となった。

途中、聖地イショウ御嶽(うたき)があったが、中に入ることはもちろん、外側の鳥居を撮影することも禁止だ。だから、島人のガイド付きツアーしか上陸できないということか。
標高数メートルしかない景勝地クイヌパナから見晴るかすサンゴ礁の眺めは、20年前と変わっていなかったが、北側を見ると港が大々的に整備されていた。だから、この日も高速船が接岸できたのだが。

景勝地クイヌパナから港を一望(2018年11月撮影)

クイヌパナから下って右へ進むと、何の変哲もない空地がポカリとあった。

「ここが、ヤマハのリゾートがあったところです」

洒落たヴィラはどうなったのか、という質問に対するガイドの答えだった。
見事に、何の痕跡も残っていない。ただ、不自然な空き地があるばかり。島人たちが資金を出し合い、ヴィラの建物を撤去したのだという。その見返りとして、ヤマハ所有の学校跡地が、島へ譲渡されたのだとか。

沖縄が本土に復帰した前後、本土企業が沖縄各地に雪崩れ込み、本島でも宮古でも八重山でも、二束三文で土地を買い漁った。経済的に恵まれなかった当時の島の人たちは、わずかな現金を目の前に積まれ、先祖伝来の土地を売却することもあった。

土地を売るかどうかパナリでも議論になり、将来に不安を感じて手放した人も多かったようだ。しかし、しばらくしてから後悔する人も増え、集落内の土地はほぼ買い戻したという。島の大地主になっていたヤマハも、地元の要望を優先して譲渡してくれたらしい。
沖縄の本土復帰からもうすぐ半世紀を迎えるが、ほとんど話題にも上らないような小島でも、土地の所有権を巡って実に様々な動きや葛藤があったのだ。

島を一巡りしてから、ガイドの家で昼食の弁当が配られた。木陰のテーブルでキンキンに冷えたビールを呷りながら、現在の基準で言えば、人が住める最低限の環境すらなかった時代の話を聞いた。

水も電気も港湾施設もやっと整備された頃には、住民がほとんどいなくなったパナリだが、豊年祭が続く限り島は生き続けるだろう。きれいに整えられた数多の空き家が、パナリの存続へ向けた島人たちの強い意志を物語っている。


【 新城島(上地・下地)概要】
●所在地
沖縄県八重山郡竹富町
●人口
13人(2020年9月 住民基本台帳住基人口)
●行政区分
明治41年 沖縄県及島嶼町村制の施行により八重山郡八重山村の一部となる
大正 3年 八重山村が4村(石垣・大浜・竹富・与那国)に分村され、竹富村として分立
昭和21年 南西諸島の行政分離により米国施政権下に入る
昭和23年 南部琉球(米軍)郡政府の許可により竹富村から竹富町に昇格
昭和47年 本土復帰

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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