つくろう、島の未来

2022年07月06日 水曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第24回は、28の島々からなる塩飽諸島(しわくしょとう)の中心・本島(ほんじま|香川県)へ。瀬戸大橋開通(1988年)に合わせて開業し、やがて姿を消したホテルと島の歩みを振り返ります。

アイランダーホテル本島(1999年10月撮影)

瀬戸大橋が縦断する塩飽諸島の中心地本島を、1999年の秋に初めて訪れた時、港の真ん前にそびえる高層ビルに目を奪われた。アイランダーホテル本島だった。

都会の繁華街ならば高層とはいえない高さ(今回の調査で8階建てだったと判明)だが、観光性の少ない小島にあっては、燦然とそびえているように見えたものだった。建物はまだ新しく、すぐ目の前に見える瀬戸大橋開通(1988年)に合わせて開業したのだろう。しかし、開通後10年以上が過ぎ、瀬戸大橋がもたらした熱狂はとうに冷め、本島の新しいランドマークは残念ながら休業になっていた。とはいうものの、復活する可能性はあるのだろうか。難しいだろうな、そう思ったものだった。

瀬戸大橋の観光的な新鮮味が薄れてきただけではなく、バブルの崩壊や阪神淡路大震災といった特殊な要因も追い打ちをかけ、白亜の塔は休業に追い込まれたらしい。そんな状況の宿だったので、あえて写真も撮らなかった。

そして、気がついた時には、アイランダーホテル本島は影も形も無くなっていた。休業中だった宿はいつの間にか廃業して、さらに解体撤去されて更地だけが残った。

写真中央あたりにアイランダーホテルが建っていたと思われる(2018年3月撮影)

同じ塩飽諸島の小与島(こよしま|香川県)に残る、瀬戸大橋観光のお客を当て込んでつくられた高級リゾートホテルアクア小与島を見た時に、ふと思った。そういえば、アイランダーホテル本島はどんな建物だったのだろう。小島には不似合いな高層ホテルという印象は残っていても、具体的なイメージはおぼろ。

一度気になりだすと、どんな姿だったのか知りたくなった。今時なので、安直にグーグルにお伺いを立てたところ、あら不思議。「アイランダーホテル本島・画像」で検索しても、更地になった跡地や名前が似た他の宿の写真はたくさん現れるが、ホテル自体の写真は全く出てこない。

グーグルに教えてもらったのは、廃墟と化していたホテルが映画『世界の中心で愛を叫ぶ』のロケ地になったこと。ロケ地巡礼で夢島(本島)を訪ねたが、もう廃墟は取り払われ更地になっていた、という書き込みもあった。

ググれば何でも分かるように思っている人も多い世の中で、少なくとも20年前まで建っていた存在感あるホテルの写真が、全くないなんて。グーグルはよく参考にさせてもらっているが、それほど信じていないので、逆に意欲が湧いた。探してやろうじゃないか。

手元にある写真のどこかに、きっと写り込んでいるに違いない。また、いつの間にか消えてしまったホテルの歴史も知りたくなった。

まず、ホテルの写真だ。見つけました、自分で撮った本島関連のものの中で。一番ハッキリしているのが、2000年5月に再訪して撮影した、本島泊港に停泊中のフェリーと一緒に写り込んでいるもの。記憶通り港のすぐ前で、絶好の立地だった。

港の真ん前にそびえるアイランダーホテル(左端)(2000年5月撮影)

初めて訪れた1999年の写真でも、白く輝く建物が光っていた。フェリーの船上から泊港周辺を撮ったものと、南隣の牛島(うしじま|香川県) から遠望したもので、休業中とは思えないたたずまいでしっかり自己主張している。

牛島からアイランダーホテル本島を遠望する(1999年10月撮影)

手がかりを求めて、国土地理院の航空写真地図も検索してみた。ホテルの前身となる国民宿舎らしき建物が写った写真(1980年9月撮影)はあったが、ホテルの建物が存在したであろう期間の写真を見つけることはできなかった。

中央入江の上に国民宿舎らしき建物とプールが見える(1980年9月撮影)出典:国土地理院 

もしかしたら、グーグルの中に眠る写真にもアイランダーホテル本島が写っているものがあるのかもしれないが、それは探しようもない。
逆に自分の写真が投稿されることで、在りし日のアイランダーホテル本島が歴史の闇から表舞台へ戻ってくるのかもしれない。

歴史も調べてみるもので、意外な会社が経営していたと分かった。本島と同じ丸亀に本社がある四国化成工業という化学工業メーカーだった。社史である『四国化成五十年史』から、関連する箇所を引用しつつ紹介しよう。専門外でありながら、ずいぶん前から観光事業には興味があったらしい。1997年10月発行の同史は、年表だけならネット上でも閲覧することができる。

当社の観光事業の拠点となっている本島の用地は、(略)塩田跡地を1964年12月に取得したもので、瀬戸内海国立公園の中心に位置し、いずれ観光地として脚光を浴びることを期待していた。(略)瀬戸内の鮮魚料理を目玉にした旅館とレジャー施設の運営を行っていたが、84年4月には新たに設立した塩飽総業に旅館経営を移管した。

78年に着工が決まった瀬戸大橋が10年の歳月を経て開通が近づくにつれ、社内でもレジャー事業拡充への機運が高まり、(略)86年に塩飽総業が運営している「塩飽本島荘」の更新、および(略)土地造成が始まり、87年4月には新たな宿泊棟・宴会棟を3棟増設した。さらに、夏期シーズンに向けてプールやテニスコートを新設、リゾートホテルとしての機能を備えていった。

翌88年7月には丸亀市から譲り受けていた「国民宿舎本島」を全面改装し、名称も「本島アイランドイン」としてオープン、88年4月に開通した瀬戸大橋の観光客を受け入れた。

瀬戸大橋の観光ブームは予想どおりの盛況でスタートし、サービスエリアの集客状況には目を見張るものがあった。(略)当時の本島の収容能力は、塩飽本島荘が18室88人、本島アイランドインが21室89人であったが、この規模では団体ツアーの受け入れは難しいとの旅行業者の指摘もあった。

90年4月には塩飽本島荘に8階建て客室30室150人収容で展望大浴場や会議室・中小宴会場を増築してオープン、施設名称も「アイランダーホテル本島」に変更し、本格的なリゾートホテルとして生まれ変わった。

ホテル事業の業績も伸び悩みとなり、(略)93年10月と94年1月に減増資を実施して再建を開始した。(略)料理の充実などを進め、今日に至っている。

同史の発刊は、1997年なのでまだ休業には至ってなかった。

『宿泊情報 西日本 1997年度版』(JTBのMOOK)によれば、「建物は8階建てで、54室(和室40、フォーベッドルーム7、その他7、全室バストイレ付)、開業は1987年4月。特長として、瀬戸大橋の眺望が自慢。四季楽しめるスポーツアイランド、8階に大展望風呂あり、水軍料理・車エビ会席」とある。

また、『シマダス』(1998年版/公益財団法人 日本離島センター)には、1998年3月から休館中の記載があり、五十年史が発刊された翌年、営業努力の甲斐もなく休業になったことが分かった。

アイランダーホテル本島付属テニスコートの名残か(2011年4月撮影)

今回のアイランダーホテル本島に関する調査報告は、これでおしまい。
果てのない栄枯盛衰は世の習い。重要伝統的建造物群保存地区 笠島(かさしま)や伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の掛け軸発見と公開、瀬戸内芸術祭の催行など、また本島に光が当たりつつある。今後どうなっていくのか、多分誰にも分からないだろう。だから、面白い。

あったはずのホテルの記憶を紐解き、写した覚えのない写真を探し、歴史を手繰っていると、思いがけぬ旅路をたどったような充足感を味わうことができた。


【本島概要】
●所在地
香川県丸亀市
●人口
268人(2022年3月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治23年 町村制施行に伴い那珂郡本嶋村となる
明治32年 多度郡との合併により仲多度郡となる
昭和29年 仲多度郡本島村から丸亀市へ編入

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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