つくろう、島の未来

2024年11月21日 木曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第26回は、長崎県内に4つある黒島のひとつ、五島列島南端に位置する黒島(くろしま|長崎県)へ。1995年9月の初訪問から四半世紀を超え、2021年に黒島へ再訪問を果たし、2度の島旅で撮影された写真から時の流れを振り返ります。

まだカンコロ棚が゙健在だった頃の黒島港(1995年9月撮影)

古い写真がもたらした四半世紀前の黒島との邂逅

出かける前にどこかに眠っているはずだと探したが見つからず、帰ってきてからもう一度当たってみたものの発見できなかった写真が、最近ひょっこり出てきた。
四半世紀ほど前の1995年9月に訪れたきり、気になりながらも再訪できていなかった、五島列島南端に浮かぶ黒島の写真。

同行した友人からもらった記念写真があり、黒島を訪れたのは間違いないのだが、自分で写真を撮った記憶が全く抜け落ちていた。

島人たちと大いに飲み、二日酔いで意識朦朧のまま黒島行を決行したのだろう。自分の行動パターンからして、それでもカメラを持参しているに違いない。しかし、あるはずの写真は行方不明のままだった。

2021年9月、長らく縁遠かった島へ久しぶりに渡ってみようと思い立ったのは、その月末に定期航路が廃止になると知ったから。

黒島の人口がどんどん減り続け、究極の1名になってしまった時、無人島になってしまうのか案じながらも、行く機会を見つけかねていた。定期航路廃止の知らせは、優柔不断な自分に突きつけられた、最後のチャンスに違いない。

四半世紀前も同行してくれた島の友人たちと4人で、9月最後の週に定期船で黒島へ渡った。定期運航しているものの、旅客船ではなく渡船のイメージ。日頃は、海上タクシーとして活躍しているボートだった。

その週に運航を終える定期船で黒島に到着(2021年9月撮影)

2度目(のはず)の黒島は、実に新鮮だった。現地を歩いても蘇ってくる記憶はなく、どれも初めて接する光景だったから。

港に面した大きなゴロタ石に埋め尽くされた急傾斜の海岸に、何かの骨組みらしい柱が残っていた。五島各地で見かける、カンコロ棚の名残りらしい。人がもっと多かった頃は、海岸線にずらりと並んでいたのだろう。そんな風景を見てみたかった。

港近くには朽ちたカンコロ棚が(2021年9月撮影)

黒島唯一の住人になってしまった山中マサ子さんの住まいは、港のすぐ上だった。同行の友人と一緒に、マサ子さんに挨拶をしてから島を巡った。以前は、山の上にも広い畑があり、はっきりとした小径がついていたそうだが、現在ふつうに通行できるのは集落内の小道だけ。残りの生活道は、すべて藪に飲み込まれ、存在したことすら分からない。

鴨神社の拝殿を訪ねて驚いたのは、中に入ると天井や柱、板壁はまだ新しそうな白木の面影を残していたこと。壁に掲げられた「鴨神社拝殿新築寄贈芳名」一覧に、「平成七年七月吉日」と記されていた。1995年7月といえば、前回訪問時の直前ではないか。現在、外側の板壁はくすんだ色になっているが、当時は外壁も白木のまま輝いていたに違いない。目にしたかもしれないが、もちろん記憶はない。

芳名一覧に連なっていた名前は、ざっと百名ほど。その誰もが、わずか四半世紀足らずの間に、故郷の島が無人化に瀕するとは想像もできなかっただろう。
国勢調査によれば、1995年の人口は26。前回から5人減っているが、それでもそれだけの人が住んでいたのだ。そして、歴史ある鴨神社を末永く祀っていこうと、皆で力を合わせ拝殿を造営したのだろう。明日を信じない人たちが、拝殿をわざわざ島に新築するはずがない。

鴨神社。奥にはまだ新しい拝殿がたたずむ(2021年9月撮影)

鴨神社の参道から脇道を進むと、左手の一段高いところに、立派な石碑があった。「富江町立冨江小学校黒島分校/記念碑/平成十年三月三十一日廃校」と刻まれている。台座には、1883(明治16)年の創立から、1998(平成10)年の分校廃止までの沿革が記されていた。

校舎も校門も、蔓延る草々に呑み込まれつつあった。屋根の一部まで落ちている朽ちた校舎に入ると、抜け落ちた廊下を補修するため扉が敷いてある。建物の面影を留められるのはあと数年で、遠からず瓦礫の山と化すだろう。人がいれば利用しようもあるだろうが、現状では望むべくもない。

廃校になった校舎はずいぶん見てきたが、ここまで荒れているのは珍しい。何らかの手を打つ前に、こうなってしまった、ということか。

黒島分校内部(2021年9月撮影)

森の中にたたずむ神社や学校、地蔵堂などを巡ってから、集落の中心に戻ってくると、光に満ちていた。海岸近くの平らな土地に開けた村だから、小島にもかかわらず道が広々として明るいのだろう。整った家並みに、ここで暮らしていた人たちの愛着を感じる。もちろん、山中マサ子さんの存在も大きい。
建物以外に目についたのは、各戸に備わるコンクリートの大きな貯水槽や水瓶。黒島は一度も水道が敷設されることはなく、生活用水すべてを雨水に頼っていた歴史があり、すべて離島苦を偲ばせる生活遺産といえる。島での見聞は、どれもこれも新鮮だった。

昨秋の黒島紀行を雑誌に寄稿してしばらく、今年の6月に膨大なネガの束からひょっこりと昔の黒島が顔をのぞかせた。そして、立ち現れた姿に目を見張った。まるで、新たな発見をしたかのように。
骨組みの一部だけ残っていた海岸には、立派な藁ぶき屋根の小屋が連なっている。カンコロ棚というより、カンコロ小屋だ。記憶になかった風景だが、なぜかとても懐かしい。

岸に建てられていたカンコロ棚(1995年9月撮影)
棚というより小屋と呼びたくなる大きさのカンコロ棚(1995年9月撮影)

鴨神社の写真も、1点だけあった。ただし、長い参道の奥にかろうじて拝殿が写っている程度。解像度はそれほどよくないが、拡大すると白木の建物が光っているように見える。拝殿が完成して2カ月足らずならば、当然そうだ。しかし、近くまでは行かなかったらしい。恐らく、新築の拝殿には気づかなかったのだろう。
昨秋の知見に昔の写真が組み合わさって「新築の拝殿」を発見した、といえるかもしれない。

鴨神社の社殿は新築されたばかり(1995年9月撮影)

分校の校舎も出てきた。同じ教室ではなさそうだが、さすがに床や天井、壁もそのまましっかりと残っている。四半世紀でこれほど変わってしまうと見るべきか。それとも、この程度で留まっていると考えるべきか。

黒島分校の内部(1995年9月撮影)

再発見した前回の写真と、新鮮な思いで撮った今回の写真を並べると、時代の狭間を歩み去る島人たちのひそかな足音が聞こえてきそうだった。

【読者の皆さまへ】
2022年7月30日に山中マサ子さんが亡くなられました。離島経済新聞社一同、心からご冥福をお祈り申し上げます。


【黒島概要】
●所在地
長崎県五島市
●人口
0人(2022年7月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治22年 町村制施行に伴い南松浦郡富江村となる
大正11年 町制施行に伴い富江町となる
平成16年 福江市・岐宿町・三井楽町・玉之浦町・奈留町と合併し、五島市となる

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

関連する記事

ritokei特集