つくろう、島の未来

2024年12月11日 水曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第10回は、瀬戸内海に浮かぶ小与島(こよしま|香川県)へ。瀬戸大橋が開通し島々が橋で結ばれた陰で、取り残されるように架橋されなかった小島には、かつて採石業で栄えた面影や短期間で露と消えたリゾート開発の爪痕が残されていました。

与島小中学校に展示されていた、昭和41年6月当時の小与島(上)

夢の懸け橋の陰に、取り残された小島

明治時代から構想だけは語られてきた夢の懸け橋・瀬戸大橋が、1988年に倉敷市と坂出市を結ぶ最初の本四架橋としてついに開通した。大橋の橋脚となった、いずれも坂出市に属する櫃石島(ひついしじま)、岩黒島(いわくろじま)、そして、全国初となった海上の高速道路にパーキングエリアが設けられた与島(よしま)も、船便からようやく解放される日が来たのだ。

しかし、その陰で一つだけ取り残された小島があった。小与島である。開通当時は数百万人の観光客が押し寄せ、瀬戸内海屈指の観光地に躍り出た与島のすぐ東側に寄り添うように浮かぶ、ほぼ全島が丁場(採石場)といっていい小島だ。

公民館に展示されていた小与島北部の写真。撮影年は不明だが、昭和41年よりは新しいと思われる

小与島にわずかに残る高台に登ると、今でも繊細な石器である細石刃が落ちていたりして、有史以前に人が住んでいたことが窺えるが、確認できる定住は明治以降だ。大正時代に採石業が盛んになると、人口が増えていった。

昭和30年には、住民190人を数えたが、学校が開設されることはなかった。子どもは自分たちで櫓船を操って、与島の小中学校へ通っていたという。

瀬戸大橋が開通するまでは、千当丸という連絡船が坂出と瀬居島(せいじま)(埋め立てで四国と陸続き)、与島、小与島、岩黒島、櫃石島の5つの島々と、児島(こじま)(味野港)を結んで運航していたが、大橋の供用開始とともに島々から撤退した。そして、橋と無縁だった小与島だけが取り残された。

当時をよく知る櫃石島の知人に聞いたところ、そう教えてくれた。ただ、『全国フェリー・旅客船ガイド』の1991年下期号で確認してみると、坂出←→児島の定期航路として5便が掲載され、そのうち3便が小与島に寄港することになっていた。そして、就航する船は千当丸ではなく、同じ千当海運に所属するセント・サンゴだと記されていた。

小与島の民宿安部が運航していた渡船(1999年10月撮影)

そんな小与島を初めて訪れたのは、1999年になってからだった。橋が架かる前に一度行っておきたかったが、後の祭り。与島にあった商業施設「瀬戸大橋京阪フィッシャーマンズ・ワーフ」まで路線バスで行き、その前にある与島港から、小与島の民宿安部が1日4便運航していた渡船で、直接渡った覚えがある。

一方、1995年版の『シマダス』では、民宿安部の第8平安丸は、与島北部の与島港から与島南部の浦城港を経て小与島へ運航しているとなっている。世帯数は10で、人口は35人。大橋開通後しばらく残っていた小与島と本土をつなぐ航路は、95年当時は消えて、与島と小与島だけを結ぶ航路が、生活の必要に迫られ新たに開設されたのだろう。

自分の身の回りを見てもそうだが、新たに華々しく登場した記憶は鮮明でも、ひっそりと消えていったもの(この場合、航路とかバス路線)はほとんど記憶に残らない。

99年に訪れた時、民宿安部に泊まりたかったのだが、4人以上ではないと泊められないと断られた。小さな民宿ではよくある話で、1人のために食事から風呂まで用意するのは負担が大きいので、お断りということ。それはそれで理解できるので、無理に頼まなかったが、今になってみると一度小与島に泊まっておきたかったと思う。

どこでもそうだろうが、特に小さな島の場合、昼と夜の雰囲気や景色が大きく異なるのは当たり前。沖縄を代表する観光の島、竹富島(たけとみじま)などは、その最たる例だろう。静まり返った小与島の夜を、味わってみたかった。

初めての小与島はあまり滞在時間もなく、駆け足で島を一巡りし、与島へ戻らざるを得なかった。その時強く印象に残ったのは、丁場(採石場)跡と瀟洒(しょうしゃ)な南欧風のリゾートホテル「アクア小与島」。リゾートは休業中で、再開のメドは全く立っていないということだった。

丁場の地面を掘り込んだ巨大な窪地には水がたまり、大きな池になっていた。その水たまりを、最近では丁場湖と呼ぶ。同じく石の島として知られる北木島(きたぎしま)(お笑いコンビ「千鳥」の大悟の出身地でもある)では、丁場湖を始めとした6つの有形無形の文化財群が日本遺産構成文化財になっている。

小与島の丁場湖には、緋鯉らしき魚影やアイガモがみえた。島人が放ち、餌付けしているそうで、人影を見ると近寄ってくるのがかわいらしい。

ごく短期間しか営業されなかったというリゾートに泊まった人たちにとって、小与島はどんな思い出となっているのだろう。無性に聞いてみたかった。

廃墟と化したアクア小与島の玄関周辺(2008年8月撮影)

次に渡ったのは、9年後の2008年だった。その時は、当時自治会長をしていた平井正雄さんの自家用船で、渡してもらった。前回利用した民宿安部の渡船は、2006年に廃止になっていた。安部さんが不慮の事故により与島港内で亡くなり、それと同時に民宿も航路も消えたのだ。名字が違うので気づかなかったが、民宿の安部さんは安部家に養子で入った平井さんの実弟だと聞いて、複雑な思いに襲われた。

前回は遠目に臨んだだけで謎のまま終わった、廃墟と化したリゾートを平井さんと共に訪ねた。

「当時は、そこの池にヨットを浮かべていたんですよ。あれは、テニスコートです」

全天候対応の立派なテニスコートは、雑草に侵され徐々に大地と同化しつつあるようにみえる。

「ホテルは、4、5年くらい営業していたように思う。オープンしたのは、大橋開通の翌年くらいだったかな。3階の豪華な部屋は、当時一泊7〜8万円という噂でした」

アクア小与島に関しては、瀬戸大橋界隈の人々でも記憶はかなり曖昧で、営業することなく廃業してしまった、と断言した人も何人かいたほど。地元の平井さんの証言で、初めて営業されたことがあったのだと、確証を得ることができた。

アクア小与島の露天風呂跡(2008年8月撮影)

「海辺のあそこにあるのは、露天風呂の跡ですよ。私が請け負ってつくったんです」

確かに、それらしい遺構がある。海岸線ぎりぎりで海と一体感があるのはいいが、少し潮が高くなるとすぐに海水が入ってきてしまうのが難だった。また、露天風呂として維持していくには、大き過ぎたとか。

リゾートホテルから戻った港で、平井さんは在りし日の島の写真を見せてくれた。石を満載したデッキ船とその前を行く櫓漕ぎの伝馬船は、採石業盛んなりし時代が偲ばれ、当時を知らなくても懐かしさが込み上げてくる。

「弟が亡くなってから船がなくなり、小与島は本当の孤島になってしまった。でも、みんな小与島に深い愛着を持っていることだけは、知っておいて欲しい。人口は4人になってしまったけれど、8戸が島に住所を残している。心は、島に残しているんです。だから、4月の梶大明神の春祭りには、坂出だけではなく徳島や大阪からも子どもを連れて出身者が戻ってくる」

これまでに4回小与島へ渡ったが、渡島手段はすべて異なっていた。1回目が、民宿安部の渡船。2回目は、自治会長だった平井正雄さんの自家用船。3回目は、島巡りのためにチャーターしたクルーザー。次回は、春祭りに参加させてもらった4回目の渡島について、詳しく触れたいと思う。


【小与島概要】
●所在地
香川県 坂出市
●人口
8人(2020年12月 住民基本台帳住基人口)
●行政区分
明治23年 町村制施行に伴い、那珂郡与島(小与島を含む)・岩黒島・櫃石島・瀬居島・沙弥島の合併により与島村(よしまそん)発足
明治23年 那珂郡が多度郡と合併し、仲多度郡与島村となる
昭和28年 坂出市と与島村の合併により坂出市に編入

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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