つくろう、島の未来

2024年04月25日 木曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第21回は、神の島として知られる大神島(おおがみじま|沖縄県)へ。女性たちが受け継いできた秘祭の行方に思いを馳せ、廃校となった島の小中学校跡地を訪ねました。筆者力作の、大神小中学校の沿革は必見です。

ウプシ(中央右端)と大神小中学校(2005年5月撮影)

祭祀の継承と廃校跡地の行方は

手元に、130ページほどの小冊子がある。タイトルは「ウプシ」で、サブタイトルは「大神島生活誌」。2017年に、大神島自治会が発行した島誌だ。ちなみに、ウプシとは港の前にある大きな岩(大石)のことで、島の象徴的存在でもある。

宮古群島にあって、霊力が高い神の島として知られる大神島で、初めての(そして多分最後の)島誌として注目を集め、初版はアッという間に品切れとなった。

地元の『宮古毎日新聞』で同誌の刊行を知り、すぐに大神島へ問い合わせたところ在庫切れと知ってガッカリ。だが、引き合いが多かったのだろう。増刷する予定だというので、出来次第送ってもらうことにした。

大神小中学校の校舎も見える大神島生活誌『ウプシ』の表紙

しばらくして届いた「ウプシ」を手にして、最初に探したのはウヤガンに関する記述だった。

大神島では、毎年5カ月にもわたるウヤガンという女性のみの祭祀が行われ、これまでほとんど記録されていない秘祭として知られる。一方、対岸の宮古島狩俣や島尻にもウヤガンがあり、テレビ取材や写真撮影、研究者の調査を受け入れたこともあった。

だから大神のウヤガンもある程度想像できるが、一貫して調査や部外者による記録を拒み続け、詳細は不明のまま。

高齢化や後継者不足により、島尻では1997年、狩俣でも2001年を最後に、ウヤガンは中止された。よほど特別な状況変化がない限り、「中止」は遠からず消滅という言葉に置き換えられるだろう。

しかし、大神島のウヤガンはまだ継続されている。女性研究者2、3名がごく一部垣間見ることを許されただけで、部外者はもちろん男性も排除する、謎に包まれた大神島のウヤガンが、「ウプシ」にどの程度記載されているのか。
一読した印象は、外枠は示してもらえたが、中身は曖昧なまま、といったところか。

祭祀を豊かな精神文化の表象ととらえ、人類共通の財産だから記録しておかなくては、という考え方もできる。しかし、祭祀を行ってきた人々が、記録されないまま消えていくことを選ぶならば、それも尊重されるべきなのだろう。ふと、そんなことを思った。

狩俣からウヤガンが消えて、20年。それにもかかわらず、大神島では2021年もウヤガンが行われた。大神島のウヤガンは、旧暦6月から10月まで続く。中心となって伝えているのは今や1人だけなので、2022年はどうなるか分からないが……。

なぜそれを知っているかといえば、一昨年、昨年と続けて大神島へ渡る機会があり、島人に直接確認することができたから。

一昨年まで、2005年を最後に訪れていなかった大神島だが、その後画期的な出来事があった。よそ者を容易に受け付けず、縁者でもいなければ泊まることが不可能だった島に、2013年春、食堂兼民宿がオープンしたのだ。

そんな秘境に、誰でも泊まれる宿ができたのならば、宿が消えないうちすぐに行かなくてはと思ったが、泊まる機会は訪れなかった。

やっと想いが叶ったのが、2020年の秋のこと。

酔い覚めの午前2時頃、トイレに起きたついでに庭へ出ると、黒く沈んだ宮古島(みやこじま|沖縄県)の島影から噴き出すように、天の川が浮かんでいた。ふり仰げば、満天の星。やっと夜を過ごすことができた大神島で、暗く透明な闇に心地よく満たされていくようだった。

大神小中学校が堂々と聳(そび)えていた港の風景(1991年12月撮影)

もうひとつ目に焼き付いたのが、空虚な光景に満たされていた小中学校の跡地。出身者の子どもたちを転校させることによって維持してきたものの、10年以上前ついに廃校になってしまい、その後老朽化の進んだ校舎も取り壊されたとは聞いていたが、やはりどこか荒れ果てた気配がにじむ校門を目にすると、寂しさは抑えようもなかった。

島行きの船に乗る前に港で渡された、9項目からなる「ウカㇺあんたか島(すま)憲章」というパンフレットの文言が、ガランとした学校跡地を前にたたずむうち、忌まわしい叢雲となって脳裏に広がった。

島外への無秩序な土地売却はやめましょう。

観光客には全く無縁の呼びかけで、明らかに島出身者がターゲットだ。

島外への土地売却がきっかけとなり外部の観光資本が入れば島の本質は変化し破壊されていくでしょう。(中略)島の土地を売らない方法を島民、来島者に関わらず今の大神島を守りたいという想いをもつみんなで考え、模索し共に協力していきましょう。

また、島憲章自体の説明には、以下のような一文も含まれていた。

祖先や先人たちが守ってくれたこの島を、今こそ心を一つにし、島の心がお金で買われないよう

港から出港する船を子どもたちが見送ってくれた(2001年10月撮影)

外部の観光資本が食指を動かしそうなまとまった広い私有地といえば、学校跡地しかない。どうやら、学校跡地をめぐってさまざまな思惑が蠢いているらしい。

激増する観光客(特に中国からの格安クルーズ船のお客)に沸き、宮古島から橋が架かった伊良部島(いらぶじま|沖縄県)では、この10年で一部の土地が100倍とも200倍ともいわれるほど高騰したという。宮古群島の土地を求めてのたうつ魔の手が、処女地である大神島を放っておくわけがない。よそ者でも、そんな想像を逞しくできる。

学校跡地を巡る悪夢を思い描くうちに小中学校の歴史が気になり、ウプシをめくって意外の感に打たれた。学校に関する章はなく、医療の校医の項目で数行触れているだけ。

そこで自分の頭を整理するためにつくってみたのが、以下の年表だ。いろいろ妄想できることは多いが、それぞれの想像に任せよう。

なお、昭和8年(1933年)ようやく学校ができるまでは、港も定期船もない中、大変な苦労をして対岸の狩俣へ通っていたという。

【大神小中学校の歩み】
1933年:5月9日、大神島に狩俣尋常高等小学校大神分教場ができる。
1948年:平良北中学校狩俣分校大神分教所ができる。
1949年:狩俣中学校大神分教場となる。
1957年:大神小中学校として独立する。
1959年:小学校53名、中学校14名、計67名。(※1994年作成『大神島略図』より)
1960年:前年のサラ台風で壊滅した校舎の建て替え。新校舎完成と思われる。
1961年:小学校45名、中学校23名、計68名。(※同上、最大在籍者数)
1972年:祖国復帰以降、小中学校在籍者は右肩下がり。(※同上)
1995年:4月から小学校休校。
1996年:4月から中学校休校。
1996年:5月から小学校が再開。(豊見城から4人家族が移住)
1997年:4月から中学校が再開。
2000年:4月から中学生1人、小学生4人。
2003年:4月から中学校休校。
2004年:4月から中学校再開。
2006年:4月から小学校休校。
2007年:4月、創立50周年。
2008年:4月から中学校休校。
2011年:4月、大神島小中学校廃校。同年9月、港の浮桟橋の供用開始。
2011年:11月から、築50年で老朽化が進む校舎の解体工事がはじまる。学校跡地の約1,020坪は、部落有地および民有地(地権者4人)。

※参考資料:大神島略図(1994年11月 宮古島市作成)

大神小中学校が堂々と聳(そび)えていた、かつての島影(1991年12月撮影)
大神小中学校なき島影(2021年7月撮影)

【大神島概要】
●所在地
沖縄県宮古島市
●人口
24人(2021年12月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治41年 沖縄県及島嶼町村制の施行により宮古郡平良村の一部となる
大正13年 町制施行により平良町となる
昭和21年 南西諸島の行政分離により米国施政権下に入る
昭和22年 市制施行により平良市となる
昭和47年 本土復帰
平成17年 下地町、城辺町、上野村、伊良部町との合併により宮古島市となる

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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