つくろう、島の未来

2024年04月19日 金曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第20回は、瀬戸内海に浮かぶ絶海の小島・魚島(うおしま|愛媛県)へ。埋立地にビルが林立する官庁街や、家屋がひしめく集落を歩きながら、圧倒的な存在感を放つ島の歩みに思いを巡らせます。

魚島港周辺が魚島村の中心部(1998年12月撮影)

訪れる人を驚かせる絶海のビル群

数年ほど前、岡山県笠岡諸島(かさおかしょとう)の南端真鍋島(まなべしま|岡山県)から、仲間と船をチャーターして燧灘(ひうちなだ)に乗り出したことがある。燧灘は瀬戸内海中央部を占める空白の海域で、ほとんど島がない。数少ない島の中にあって、存在をひと際主張しているのが魚島だ。

定期航路は、因島(いんのしま|広島県)の土生(はぶ)から上島町の役場がある弓削島(ゆげじま|愛媛県)と高井神島(たかいかみしま|愛媛県)を経て魚島まで、1日4往復ある。かつては、今治(いまばり)との間にも定期航路があったがかなり前に絶え、その他の場所から行くには自家用船を駆使するしかない。面積は、伊豆諸島(いずしょとう)最小の有人島式根島(しきねじま|東京都)の3分の1強に当たる1.36平方キロメートルと、かなり小さい。

そんな絶海の小島が近づいてくると、チャーター船の上から行く手を見守っていた仲間たちが、次々と喚声を上げたり、溜息を漏らしたり。その様子に、1998年に初めて魚島を訪れた時の感動が重なった。

村が消えても以前と変わらぬ魚島港周辺(2017年10月撮影)

行く船を取り囲む島影が重なり合い、水平線が見えることがほとんどない瀬戸内海にあって、燧灘は特別の海域だった。

もうそろそろ魚島ではないかと思いはじめると間もなく、果てしなく続く大海原と大空の間(あわい)から小島が湧き出した。徐々に大きくなっていく陸地には、白く輝くビルが林立している。隔絶された小島に、幻想的ともいえる不思議な光景が繰り広げられ、溜息をつきながらそれを眺めていたのが昨日のことのよう。

港の岸壁に沿うようずらりと並んでいたのは、他のビルを圧倒してそびえる6階建ての魚島村開発センターをはじめとして、魚島診療所、魚島村役場、魚島漁業協同組合、駐在所、郵便局、観光センター、漁協センター、港務所、集会所などなど。ちょっとした官庁街の趣きを呈していた。

それもそのはず、当時は魚島村という独立した自治体で、村の中枢機能は全村で唯一広い平地(すべて戦後の埋立地)があった魚島港周辺に集中していたのだ。そういう意味では、文字通り官庁街だった。

1998年当時、人口はすでに300人を切っていたが、独立した自治体には多くの施設が必要となる。魚島村は、1957年に離島振興法、1970年過疎対策特別措置法の適用を受けることによって、次々と大きな公共事業を実施し、中枢機能の充実を図ってきた。その成果が、魚島村を初めて訪れる人を驚かせる絶海のビル群だった。

魚島を最初に訪ねた6年後の2004年、魚島村は弓削町・岩城村・生名村と合併して上島町の一部となった。1895年の独立以来、100年以上の歴史を誇った村が消えたのだ。

集落前の埋立地に主要施設が立ち並ぶ様子が一目瞭然(2017年10月撮影)

しかし、合併後10年以上過ぎても、魚島港周辺の景観は変わっていなかった。人口は魚島とそう変わらない真鍋島から来た仲間たちは、上陸して港周辺を散策し、改めて小島のビル群に圧倒されているようだった。

市町村合併によって、独立した自治体としてのアイデンティティーを失った村は多い。身近なところで探せば、魚島村と合併した岩城村も生名村も同じ境遇といえる。弓削町でも、異なるところはない。それぞれ独立した町村だった時代のビルが残り、今も利用され続けている。

それにもかかわらず、魚島のような感慨を味わわせてくれる景観はない。今治市や呉市と合併した離島の自治体を思い浮かべても、魚島のような例を見つけることはできない。何が違うのか。

やはり、魚島の地理的な隔絶性が大きいに違いない。弓削島、生名島(いきなじま|愛媛県)、岩城島(いわぎじま|愛媛県)などを思い浮かべると、よそ者の目にはどこがどの島なのか判然としないことが多い。地元の人にとっては大切な自分の島だが、部外者から見ると混じり合って芸予諸島(げいよしょとう)の島の一つ、ということになってしまう。その点、魚島は紛れもなく魚島と認識できる。

魚島郵便局は日本郵政の直営局だ(2016年3月撮影)

また、各自治体の中枢機能も分散していて、魚島のように集中していることは珍しい。魚島村には、魚島の篠塚、井ノ浦、大木および高井神島の浦と4つの集落があったが、昔からの港に面した篠塚に人口が集中し、魚島にはほとんど一集落しかないように感じられるほど家々が建て込んでいる。

海岸通りから直角に入り込むヨコミチは埋立地と対照的な細い路地ばかり(2017年10月撮影)

魚島港周辺の家々を縫って歩くと、路地の細いことに今更ながら驚いた。狭い土地を分け合って、なんとか家を建てた苦労が偲ばれる。昔からの集落と官庁街の間には、朽ちた石垣と塀がたたずんでいた。恐らく、埋め立て前の海岸に面していた時代、北から吹き付ける季節風や高潮を防いでいたのだろう。

集落内に残るかつて海岸線にあった防潮防風用の石垣と塀(2017年10月撮影)

島人によれば、実人口はすでに150人を割っているという。人口だけ見れば、ちょっとしたマンション1棟分で、首都郊外に住む自分が属する小さめの町内会より少ない。

それでも、魚島という場が放つ存在感は、ただならないものがある。それは、一体どこからくるのだろう。

延宝6(1678)年、すでに496人の人口を数え、1947年最大人口1755人を記録した歴史があるからか。あるいは、江戸の文政期から明治初期にかけて、瀬戸内海を代表するタイの好漁場として魚島の名を轟かせたからだろうか。

しかし、ぶらりと訪れた者には関係もなければ、それは知りもしないこと。島人たちが健気に生きていた気配が、集落にしっくりとなじんでいるからか。今も利用され続けている、身の丈に合わなくなってしまったビル群が、何かを訴え続けているからか。それは、分からない。

ただ、魚島が漂わせている圧倒的な存在感は、押しつけがましくなく、静かにすべてを包み込んでくれるようだった。


【魚島概要】
●所在地
愛媛県越智郡上島町
●人口
128人(2021年12月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治12年  村政施行に伴い越智郡魚島村となる
明治22年  町村制施行に伴い越智郡弓削村に編入
明治28年 越智郡魚島村として分立
平成16年 弓削町・生名村・岩城村との合併により越智郡上島町となる

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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