つくろう、島の未来

2024年05月19日 日曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第40回は、五島列島の北に浮かぶ野崎島(のざきじま|長崎県)へ。1996年に野崎島を訪れた斎藤さんの27年ぶりの訪問は、島の草分けである野崎集落の深い歴史に刮目し、王位石の信仰に想いを巡らす旅となりました。

野崎港。左上には若宮神社の社殿が(1996年4月撮影)

野崎島の草分け野崎集落と王位石信仰

ちょうど1年前、なかなか渡れぬ縁の薄い島、野崎島について記した。

>>在りし日の島影(29)無人島になる寸前の野崎島を想う【寄稿|島旅作家・斎藤 潤】

昨秋、約4半世紀ぶりに訪ねようとしたら、強力な台風に阻まれ、またしても渡島を断念。実は、今年の5月も別な理由で野崎参りを阻止された。こちらは、野崎島行きに便利なフェリー太古のドッグ入りと重なってしまうという、自分のミス。

そして、この8月、やっと27年ぶりに野崎島への再上陸が叶った。立派なダムが完成して、無人となった島の水は海底送水され、小値賀島(おぢかじま|長崎県)の農地を潤していた。

工事中だった野崎ダム(1996年4月撮影)
水を満々と湛えた野崎ダム。水は海底送水で小値賀島へ運ばれ農業用水などに使用されている(2023年8月撮影)

対外的に大きな変化といえば、「野崎島の集落跡」が2018年世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つとなったこと。要するに、野崎島の集落跡が世界遺産になったのだ。

そのため、野崎港の前にはビジターセンターができていた。ここで入島手続きをして、レクチャーを受けなくてはならない。以前2泊して分かった気分になっている島だが、改めて説明されると、なるほどという話もあった。当日は、たまたま世界遺産登録5周年を記念して撮影班が入っており、それに協力して記念撮影に収まる。

野崎島というと、名工鉄川与助(てつかわ・よすけ)が最初に手掛けたレンガ造りの旧野首天主堂が象徴的存在で、どうしても潜伏(隠れ)キリシタンやカソリックのイメージが強い。野崎なのに、野首。下手をすると、野崎集落と野首集落を混同している人もいるくらいだ。

しかし、今回は野崎島の草分け野崎集落に刮目(かつもく)する島行きとなった。

レクチャーが終わると、係の人が「神官屋敷」へ行ってみないかと誘ってくれた。これから鍵を開けに行くという。これも、世界遺産の構成資産か。

でも、それって沖ノ神嶋神社の24代目神主だった岩坪元成さんの家のことでしょ。区長さんもしていたので、自宅まで公民館使用料を払いに行って、目にしているはずだが、お屋敷という印象はなかった。それでも、集落の一番上に居を構えていた記憶はぼんやりとある。果たして案内された神官屋敷は、集落の高台にあった。

旧神官屋敷。見ているはずなのに、こんなお屋敷があった記憶はないのは何故か(2023年8月撮影)

入口の案内板には、以下のように記されていた。

沖ノ神嶋神社神官屋敷は、明治29年に建立された野崎島を代表する伝統的木造建築物です。建物は大きく2つの特徴があり、一つは江戸時代の武家屋敷造りの特徴である来客専用の玄関口「表玄関」が踏襲されていること。もう一つは、屋敷に併設して、沖ノ神嶋神社を拝む「遥拝所」が設けられていることです。いずれの特徴も、野崎島における神官家が特別な存在であったことを物語っています。

旧神官屋敷の座敷(2023年8月撮影)

内玄関から家の中へ入ると、土間があった。土間から奧へ向かって、アガリグチ、ツギノマ、ザシキという接客の間が続く。ザシキは特別な場所で、来賓のもてなしや神道の祭事の際に使用された。特に神事の場合、ザシキは遥拝所と一体となり、神官屋敷特有の存在だったという。日常的には内玄関だが、来賓は表玄関から招き入れられた。

旧神官屋敷の神祇殿(遥拝所)(2023年8月撮影)

ザシキのすぐ奥に、小さいけれど凝った材を使用した社が建っていた。ここが神祇(じんぎ)殿として作られ、後に沖ノ神嶋神社(おきのこうじまじんじゃ)の遥拝所として使われるようになったお宮らしい。中には鏡や祠堂(しどう)がいくつも祀られている。

そこで、ストンと胸のつかえがとれた。かつて、岩坪神主の家を訪ねたとき、奥さんが語っていた里宮は、ここだったのか。

「野崎島に最後まで残りそうなのは、私たち夫婦です。島を出るのは仕方がないが、神様をどうしようか迷っています。実は、最近足腰の痛みがひどく王位石(おえいし)の下にある御山まで行かず、家のすぐ後ろにある里宮で済ませているんですよ」

里宮は家から少し離れたところにあると思っていたら、棟続きだったのだ。元々江戸時代の神祇信仰による拝み所だったが、明治期に入って沖ノ神嶋神社の拝み所に変容したらしい。信仰の形も精神も、時代とともに変わりゆくのが興味深い。

神祇殿(遥拝所)の神棚(2023年8月撮影)

昔の写真とともにかつての沖ノ神嶋神社についていろいろな案内板があり、思いがけず勉強してしまった。野崎集落は神官の岩坪家を親家として、沖ノ神嶋神社の氏子が暮らす集落だった。隠れキリシタンの集落だった野首や舟森の人たちも、沖ノ神嶋神社の氏子を装って本当の信仰を隠した。野崎集落の起源は、小値賀島近浦にあった神嶋神社が分祀され、沖ノ神嶋神社となった八世紀代まで遡るという。

そんな説明文を読みながら、考えてしまった。それは逆だろう。沖ノ神嶋神社のご神体である凱旋門のように組合された巨大な岩・王位石がまず信仰の対象となり、それを小値賀島から手軽に拝むことができるよう近浦に神嶋神社を設けたのではないか。王位石を間近にしたことがあれば、この説にすぐ同意してくれるに違いない。それほど、王位石は圧倒的な存在感を放っている。

野崎集落から野首へ向かう道にシカ避けのゲートがあった(1996年4月撮影)
意味をなさなくなったシカ避けフェンスとサバンナ。中央奧に廃墓が見えている(2023年8月撮影)

神官屋敷でかなりの時間を過ごしてから、集落の東に広がるサバンナのような草原を歩いた。人間の居住区とシカの領分を区切っていたフェンスが、意味を失い倒れ伏し、芝に埋もれた石臼や大鍋などの日常用品が、オブジェと化していた。

シカからお供えや仏花を守るため漁網で囲われていた墓石も、ほとんどが瓦礫(がれき)と化している。27年前、すでに墓じまい(あるいは改葬)が進んでいたので、その結果だろう。このサバンナ一帯に、大きな秘密が隠されているとは、その時は全く気づかなかった。

墓に供えた花をシカから守る網(1996年4月撮影)
放棄された墓地(2023年8月撮影)

サバンナを駆け回っては木陰で休むシカを眺め、北崎展望所から海の美しい野崎火山火口跡を望み、神官屋敷の脇を下って港まで戻った。ビジターセンターで水を補給し、野首へ向かう。

途中の山肌はハマゴウに覆いつくされ、野首天主堂の向こう側には大きなダム湖が満々と水を湛えていた。その下にあるカソリック墓地は、小道をハマゴウに占領され近寄れない。今年の10月から3年かけて修復工事が行われる野首天主堂を見納め、野崎集落へ戻ってきた。

以前は、シカ避けのゲートが設置されていたあたりで、水の豊かな島なんだと思いながら棚田跡を眺めていると、地元の歴史に詳しい人に話しかけられた。たぶん、撮影関連で来ていた役場の人だったと思う。

江戸時代に整備された棚田の跡(2023年8月撮影)

今は見る影もない棚田の石垣だが、これだけ見事な石組は素人の仕事ではなく、専門の石工がわざわざやってきた組んだ石垣だろう。江戸時代後期、平戸藩が中心となって新田開発、あるいは棚田の整備を行ったに違いないという。神官屋敷の説明文にも、それを予見させる一文があった。

沖ノ神嶋神社は平戸松浦(まつら)家の歴代の当主からの崇敬も篤く、記録では文禄5(1596)年、二十六代目当主鎮信〈(ねのぶ)による神殿の再建や、寛永二(1625)年二十八代目当主隆信による永代八石の寄進が確認できる。

野崎島は決して僻島ではなく、平戸藩内でも存在感が大きかったのだ。

さらに驚くべきことには、サバンナと化している野崎集落の高台では、旧石器時代から近世にわたる遺物がたくさん発掘されているという。

「ぼくが子どものころは、日本に旧石器時代はないというのが学会の定説で、旧石器時代の存在を主張する民間考古学者が、学会の大御所からいじめられていましたよ。その旧石器時代の遺跡が、ここにあるなんて、凄いじゃないですか!」
「そうなんですよ!」

日本と大陸との交易路の途上にあった小値賀町は、実は何が出るか分からぬ遺跡だらけで、なかなか発掘の順番が回ってこないのだとか。

国境離島に注ぎ込む税金の一部を有効利用して、秘められた野崎島の歴史を世に知らしめてくれないだろうか。そんな妄想にかられながら、近々また歩きに来なくてはと思いつつ、野崎島を後にした。


【野崎島概要】
●所在地
長崎県 北松浦郡小値賀町
●人口
1人(2023年6月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治22年 町村制施行に伴い長崎県北松浦郡前方村となる
大正15年 笛吹村・柳村との合併で小値賀村となる
昭和15年 町制施行により小値賀町となる


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離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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