つくろう、島の未来

2021年10月24日 日曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第11回は、瀬戸内海に浮かぶ小与島(こよしま|香川県)の在りし日を振り返る旅、後編をお届けします。瀬戸大橋が開通し島々が橋で結ばれた陰で架橋されず残された小与島では、わずかな住人と離郷者が集まり、年に一度の春祭りの灯りをともしていました。

小与島の春祭りの神饌(2014年4月撮影)

島の住人と離郷者がともす春祭りの灯り

2008年に小与島に訪れた時、自治会長の平井正雄さんが最後に呟いた言葉が、耳の底に残って離れなかった。

「人は4人になってしまったけれど、8戸が島に住所を残している。心は、島に残しているんです。みんな小与島に深い愛着を持っていることは、知っておいてほしい。だから、4月の梶大明神の春祭りには、坂出だけではなく徳島や大阪からも子どもを連れて出身者が戻ってくる」

翌春、できたら春祭りに参加させてもらいたいと思い、2月も終わろうという月曜日に平井さんへ電話した。
あわよくば、何人かから小与島の昔語りを聞ければという思惑があったのだ。そしてもう一つ、いつ無人島化してもおかしくない小与島の春祭りをよそ者の目で記録しておきたい、そんな思いもあった。
平井さんは電話の向こうで、重たげに口を開いた。

「その件についてどうするかという話し合いを、ちょうど昨日したばかりです」

結論としては、これまでのように大勢呼ぶことができるほど経済的なゆとりがなくなったので、大幅に縮小して神事だけ行うことにした。船を仕立てて坂出から小与島まで参加者を運んでいたのだが、チャーター代が工面できそうにないのだという。

「毎年来てくれる人たちからは、日程の確認がきはじめているのですが……。関係者からは、自治会長からうまく伝えてくれ、と言われて困っている。しかし、縮小することはもう決まったので」

と、言葉を詰まらせた。どうにも間の悪い時に電話してしまったらしい。
子どもたちも含め少なくとも数十人が参加して、相撲大会もやっていた春祭りを、わずか数人で執り行う。まさに祭りではなく、簡素な神事。

「また以前のように賑やかにできるようになったら、連絡しますから……」

「ぜひ連絡をください。楽しみにしています」

そんなやりとりをして、電話は切れた。

小与島は、結果的に瀬戸大橋によって取り残された島だ。
架橋以前は、岡山の児島と坂出の間に航路があり、小与島や橋脚にされた島々を、千当丸という連絡船が繋いでいた。大橋開通で他の島はみな陸続きになったが、小与島だけは孤島として取り残された。(詳しくは、前編を参照)。そのため、対岸の与島中学最後の卒業生となった中野健君は、自ら船を操って小与島から与島へ通ったという。

縮小の先にあるのは、祭りの消滅と無人島化しかないだろうと思い込んでいたら、2014年になり同じ塩飽(しわく)諸島ながら遠く離れた広島(ひろしま|香川県)茂浦の百々手神事を見学に行った際、百々手研究家のHさんから耳寄りな話を聞いた。

「小与島にはまだ3人住んでいて、春祭りもやっています」

島が活気づいてきたというメデタイ話ではないが、一度消えかけた祭りが存続しているというだけで、ささやかな夢を分けてもらったようで嬉しかった。

人々はどんどん島を離れるし、自分の育った島へ行くことすらままならない。根無し草状態に陥った小与島出身者たちが年に一回チャーター船で島へ渡り、一堂に会するのが春祭りなのだ。経費の問題もあり一時、皆が集まるのはやめて少人数で神事だけ行う春祭りにしたが、よくないことが続いたので復活したという。

2014年4月13日坂出駅に到着すると、改札口でHさんが待っていた。2カ月前に知り合い、一時中断された小与島の春祭りが復活していると教えてくれた人だ。一度見たいとHさんを通じて自治会にお願いし、参加できることになったのだ。

チャーター船で小与島に到着(2014年4月撮影)

坂出港では、小与島自治会がチャーターした「第五あさひ」が待っていた。ほとんど人は乗っていなかったが、9時45分頃から急に混雑しはじめ、席がどんどん埋まっていった。50人ほど乗せた船は、10時過ぎ静かに出航した。

終日雨が降り続く予想で、海上にもしとしとと降りやまない。船は与島に寄ったが、乗り込んできたのは2、3人だけ。しばらく待つうちに、与島の駐在さんと白装束の神主さんがやってきて、全員揃ったらしい。

船はすぐに小与島に向かい、5分足らずで到着した。わずかな時間で渡れる海が、陸続きの与島と孤島の小与島を大きく隔てている。みんな、待ちかねたようにわらわらと上陸した。

雨が降っているけれど、子どもたちは誰もが嬉しそう。久々に故郷に上陸できた大人たちの表情も明るい。出迎えてくれたのは、石材業を営んでいる(現在は廃業)自治会長の中野三郎さんと息子の健君。島に住んでいるのは、三郎さんの奥さんを加えた、中野家3人のみ(現在は、中野さんご夫妻のみ)。

主会場の梶大明神境内には幟や日章旗が立ち、遠くからもよく分かった。上陸した人たちはすぐ神社へ行かず、自分の家へ向かい、それぞれの用を済ませるらしい。なにかを持ってくる人もいる。島で暮らせるならば、残りたい人もいるだろう。

梶大明神で春祭りの神事を執り行う(2014年4月撮影)

開放的で広い神社の境内では、子どもたちが雨合羽を着たり傘をさしたりしながら、元気よく遊びまわっている。エノキの大樹の枝からぶらさがるブランコや遊動円木があり、それに群がったり、わけもなく走り回ったりと楽しそう。
子どもたちにとっても、日頃会えない友だちと遊べる、年1回の春の遠足なのだろう。大きな子も小さな子も入り混じって戯れている。

境内に建つ坂出市中央公民館小与島分館では、直会(なおらい)の準備が進んでいた。Hさんに自治会長の中野さんを紹介してもらい、お供えの一升瓶を渡しながら挨拶をする。

小与島の集落風景(2014年4月撮影)

集落周辺を一巡りして戻ると、小さな石造の社殿の前に神事の参列者が十数人整列していた。供え物は、酒、餅、大きなタイ、野菜、スルメ、高野豆腐など。神事が終了すると直会になるのだが、こちらは単なる見学者で縁はない。久しぶりの小与島を散策してみることにして、廃墟リゾートが望めるところまでくると、突然携帯電話が鳴った。Hさんの呼び出しだった。

公民館へ戻ると、つまみと酒があるので一緒に飲もうと誘われた。少し汗をかいていたので、冷たいビールがうまい。つまみは乾きものが中心だったが、やがて神饌(しんせん)のタイが刺身になって回ってきた。添えてある旬のワカメも美味。
集っている人たちは遠い近いはあっても、ほとんどが親戚のようなもので、石材業関連の人が多かった。お開きの時間になって、カサゴの味噌汁とパック入りの鯛めしまでいただいてしまった。

タケノコご飯とカサゴ汁のお相伴に与る(2014年4月撮影)

直会の後は、土俵で相撲大会がはじまった。軍配をもった行司はいるものの、誰かがかわるがわる握っている。適宜土俵に上がった者同士が対戦するのだが、極端な力の差がある場合はどちらかが適当な人に替わるなど、不平等な取り組みにならないよう配慮されているようだった。
年頃の娘さんと小学生男子の対戦もあり、女の子が砂の上に転がされたが、誰も屈託のない表情で、まさに気心の知れた大家族の集まりのよう。

2時20分頃、後片付けがはじまった。子どもたちはまだ相撲に興じていたが、間もなく手伝いはじめる。やがて名残り尽きない別れの時がきた。3時ちょうど、あさひ丸が小与島から出航。見送ってくれた中野さん父子の笑顔は、天気とは正反対で晴れ晴れとしていた。

瀬戸大橋を背景に催された子どもたちの奉納相撲(2014年4月撮影)

日々の移ろいは早いもので、春祭りに参加した翌年の暮れに島巡りのチャーター船で小与島を訪ねたら、石材業をやめた中野三郎さんは漁師になり、息子の健君は街へ出て就職していた。

去年も今年も、コロナ禍のため春祭りは中止になったという。一昨年も催行されなかったそうだから、梶大明神の春祭りが復活するのは難しいかもしれない。しかし、離郷者たちの心の中では、いつまでも温かな思い出として生き続けるに違いない。


【小与島概要】
●所在地
香川県 坂出市
●人口
8人(2020年12月 住民基本台帳住基人口)
●行政区分
明治23年 町村制施行に伴い、那珂郡与島(小与島を含む)・岩黒島・櫃石島・瀬居島・沙弥島の合併により与島村(よしまそん)発足
明治23年 那珂郡が多度郡と合併し、仲多度郡与島村となる
昭和28年 坂出市と与島村の合併により坂出市に編入

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

関連する記事

ritokei特集