つくろう、島の未来

2022年12月05日 月曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第19回は、7つの有人島と5つの無人島が南北に連なるトカラ列島の平島(たいらじま|鹿児島県)へ。かつて島の暮らしを支えていた、艀(はしけ)の発着していた前之浜の桟橋や港への急坂など、時と共に移り行く風景をご家族の思い出と共に振り返ります。

かつて艀が発着していた前之浜の桟橋を背に立つ母娘(1991年8月撮影)

パラリと現れた写真に宿る島のひととき

撮った記憶ははっきりしているのに、どこにしまい込んだか見つからない写真がある。一度気になりだすと居ても立ってもいられず、あちこち手当たり次第に探すのだが、そういう時に限ってまず見つからない。さすがに諦め、写真の存在を忘れかけた頃、なんだそんなところという場所から、パラリと姿を現す。なぜかそんなことが多い。

母娘3人が写っている冒頭の写真も、そんな1枚だった。最近になって、アルバムに貼られた状態で出てきた。整理したのは間違いなく自分なのだが、恐ろしいことにまったく記憶になかった。

撮影したのは、今から30年ほど前の1991年8月。場所は、トカラ列島の中央に位置する平島の集落から、前之浜港へ下る急坂の途中だ。

その10年程前まで、前之浜は平島の表玄関だった。村営の定期船第3十島丸(だいさんとしままる)が沖がかりして、艀(はしけ)による通船作業(人や荷物の積み下ろし)を行う基地が、前之浜だったということ。集落と住民の命の綱である港を結ぶ道は、当時どんな状態だったのか。

ベストセラーにもなった『日本残酷物語2.忘れられた土地』(宮本常一 監修 他/平凡社/1960年)で、巡回診療班として昭和30年代前半に平島など十島村の島々を巡った鹿児島大学医学部の佐藤幹正氏が、無医島解消に先立つ島の問題点として三つ指摘している。

第一は無線電話装置の設置(定期船が欠航すると島外との連絡が完全に途絶える)、第二は船着場の整備(自然の海岸線しかない島もあった)、そして第三が船着場から集落へ至る道の改修だった。第三については、こう記されている。

なかでも平島の道はもっとも難路である。道の一部には急な斜面をもつ熔岩の露頭などがあって、まるで登山でもするようによじ登らなければならない。しかも汽船はしばしば夜半にやってくる。船がつくとほとんど各戸から一人くらいの割合で老若男女が海岸にくだってゆく。

かすかなカンテラの光をたよりに、重い荷物をかついでこの坂道を上下する村人の苦労は、実地に体験した人でなければとうてい想像することができない。

船上から望む平島、南之浜に港が造られはじめていた(1975年10月撮影)

筆者が初めて平島の前之浜港を目にしたのは、1975年の秋だった。第3十島丸の船上から1時間ばかり通船作業を眺めていたが、実際上陸することはなかったので、集落への道に関する記憶はない。

また、1977年のお盆に悪石島(あくせきじま|鹿児島県)で初めてボゼを拝んだ帰り道、平島でとても印象的な通船作業に遭遇した。平島に10年近く住み、半ば島人となって暮らしながら島の生活を記録し発信していた稲垣尚友さんが、諸事情があって島を去ることになり、引っ越しの荷物を積んだ艀が、別れを惜しむ人たちの声に包まれながら何回も何回も往復したのだ。

一緒に鹿児島へ向かっていた悪石島のAさんが、この光景を見ながらボソッと呟いた。
「ヒッピンしが、出ていく……」

そこには、去るべきものが去ることになった、というニュアンスが含まれているように感じられた。ヒッピンしとは、ヒッピーの衆、ヒッピーたちという意味合いで、トカラ在住の多くの島人たちからは、あまりいい印象をもたれていなかった。話が長くなりすぎるので、ここではヒッピーと呼ばれた若者たちとトカラの関係については触れない。

すでにトカラ関連の本を何冊も上梓していた稲垣尚友さんが島を去る姿は、深く記憶に刻まれたが、前之浜と集落を結ぶ道に関しては、何も覚えていない。恐らく、他の島と比べて特別に大変な道に見えなかったからだろう。

使われなくなった前之浜港。澪が゙はっきり残っている(1987年7月撮影)

佐藤医師が指摘した難路を実際に下ったのは、平島に初上陸した1987年になってから。1980年6月、南之浜港に第3十島丸が接岸するようになり、平島は艀作業から解放されて7年が過ぎていた。

集落と外界をつなぐ主要道は、南之浜へ下る車道になり、前之浜への道は生活道として辛うじて生き延びているようだった。しかし、南之浜への道路と比べれば、登山道以外の何ものでもなかった。

平島は名前に騙されがちだが、山がちな他のトカラの島々に比べれば平らなだけで、周囲には海食崖が連なり、海岸と台地上の集落をつなぐ道はどこも急坂だった。

そして、家族旅行で平島を訪れた1991年、往年の主要道はほぼ消えていた。かつて道だった沢筋はリュウキュウカンザンチクで覆われ、娘たちとジャングル探検気分で下ったものだった。

竹藪を何とか抜け出ると広がったのが、前之浜のサンゴ礁を背景にした冒頭写真の風景だった。ピクニック気分で探索すれば心弾む坂道を白砂の浜まで下り、家族で借り切った海でしばらく水遊びをして、宿で作ってくれた弁当に舌鼓を打ちながらひと休み。

家族で完全貸し切りだ゙った前之浜。右上は、臥蛇島(1991年8月)

下の娘は、トカラ旅の途中に悪石島で5歳の誕生日を迎えた。思い返してみると、ずいぶん贅沢な夏休みだったのかもしれない。

波蝕により老朽化が゙進む前之浜の桟橋(2019年12月)

それから30年近く経た2019年の師走、久しぶりに前之浜を訪ねてみた。艀の時代は島の命脈を保つ道だった急坂は消え果て、道の気配さえなくなっていた。集落から無理やり藪を漕いで海岸へ降りることもできたかもしれないが、崖から転落したりしたら島にどれほど迷惑をかけることか。

車道を南之浜まで下り、海岸線をたどって前之浜まで行きついた。コンクリートの桟橋は健気にも残っていたが、波風に晒され劣化した惨状は覆うべくもない。さらに何十年、あるいは百年が過ぎれば、今立ち尽くしているこの桟橋も、自然の海岸線に帰って行くのだろう。

前之浜へ下る小径は10年で゙竹藪と化していた(1991年8月撮影)

【平島概要】
●所在地
鹿児島県鹿児島郡十島村
●人口
94人(2021年9月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治41年 町村制の施行により大島郡十島村となる
昭和21年 南西諸島の行政分離により米国施政権下に入る
昭和27年 日本復帰
昭和48年 鹿児島郡十島村となる 

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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