島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第13回は、沖縄県最東端の北大東島(きただいとうじま|沖縄県)へ。燐鉱石(りんこうせき)採掘が基幹産業とされた時代に思いを馳せながら、国の近代化産業遺産や史跡に登録され、新たな命を吹き込まれつつある燐鉱山遺跡を巡ります。
産業遺産として見出された遺跡群
那覇から定期船「だいとう」で、延々十有余時間かけて北大東島へ向かうと、着いたとたんにダブルパンチを食らう。あくまで旅人にとってだが、何とも痛快なワンツーパンチ。飛行機で安直に降り立ってしまうと、決してできない体験だ。
まず、上陸の仕方が尋常ではない。普通ならば、接岸した船からタラップで下船するが、北大東島では船が接岸しない(できない)。荒々しい外海に面した断崖絶壁が連なる海岸しかなく、安全に接岸できる場所がないのだ。ならば、どうするか。
港の岸壁前に船が到着すると、まず島から降ろされたボートが「だいとう」の舫い綱(もやいづな)を受け取り、沖合に設置されたブイ2ヶ所に固定する。その後、港に設置されたボラートに舫い綱を結ぶ。そうすると、岸壁と5メートルほどの隙間を空けたまま船が緩やかに固定される。多少の波が来ても、船体が岸壁にぶつからないという間隔。そのため、少しでも波が荒くなると緩やかな固定作業は困難になるので、那覇からの出航は取りやめになる。
上陸(および荷役)の準備を終えると、陸上のクレーンによって大きな金属製のケージが甲板に降ろされる。下船する人はそのケージに入り、クレーンで宙づりにされ島へ降り立つ。檻に入った動物のように上陸する島は、全国でも南北大東の2島しかない。だから、これを体験したくて、「だいとう」に乗る旅人がいるほど。
そして、主要港の西港(風向き次第で別の2港の場合も)に上陸すると、港のすぐ前にヨーロッパの廃城を思わせる石積みが連なり、呆気にとられる。港は島の表玄関で顔なのに、まず迎えてくれるのが巨大な廃墟群とは。しかし、北大東島の特殊な歴史を振り返れば、謎は解ける。
島では、サトウキビ栽培と並んで燐鉱石採掘が基幹産業だった時代があり、廃墟群は燐鉱山関連の産業遺産なのだ。
リンを豊富に含んだ燐鉱石は、化学肥料などの原料として重用される。さらに、北大東産の燐鉱石はアルミナを大量に含んでいたため、昭和初期アルミニウムの原料として研究されたこともあるが、工業的に生産されるには至らなかった。
燐鉱山は、北大東島の北西部に集中しており、その周辺に住宅や鉱山施設が集まった。西海岸は風下になることが多く築港に適しており、鉱山と隣接した旧西港が積出し港となった。
燐鉱石の採掘は1919年に始まり、1950年まで続けられた。その後、関連施設は放棄され、いつしか廃墟となった。
2001年、筆者が燐鉱山や関連施設取材のため北大東島を訪れた時は、見事に打ち捨てられたままだった。
今回は、それ以来の北大東島。上陸したのは南部の江崎港だが、まず西港へ向かって乗船券を確保する。一応時刻表はあるものの、船の出航時刻は一定ではなく、早目に乗船券を購入しなくてはならない。
港周辺を探索して、隔世の感を深くした。打ち捨てられていた西港周辺の廃墟が、20年間でこれほど変わるものなのか。いや、さらなる激変の予兆を感じたというべきか。
廃墟群をぐるりと見渡せる高台で、淡いベージュの真新しい石碑が燦然と輝いていた。正面には「史跡北大東島燐鉱山遺跡」、左に「令和三年三月吉日建立」、右には「文部科学省」とある。つい最近つくられたばかり。
高台の左手には、巨大な燐鉱石貯蔵庫跡が広がる。手前には燐鉱を積み込むトロッコが出入りしたトンネルが残り、奥には貯蔵庫の外壁が廃城の趣を漂わせて連なる。
以前は、トンネルの上にコンクリートの柱がたくさん残っていたが、大半は崩れ落ち面影はない。また、外壁の石垣の一部も2018年の台風でかなり崩れ、その修復作業が終わったところで、黒ずんだ古い石垣と補修された淡いベージュの石垣の対照が、再評価されつつある廃墟のはじまりを感じさせる。
高台正面の旧港(積荷桟橋)にも、微妙な変化があった。目立ったのは、かつて残されていた木製のクレーンの支柱が、なくなっていたこと。根元には、折れた痕跡が残っていた。積荷桟橋の岸壁は今の港よりも高く、そこから「象の鼻」と呼ばれた漏斗状の積み込み装置で燐鉱石を艀(はしけ)に落とし込み、本船へ運び積み替えていたのだ。
右手にたたずむ赤煉瓦の建造物は、湿った燐鉱を乾燥させるためのドライヤー建屋で、手前に敷き詰められた赤煉瓦は、ドライヤー建屋で使う電気をつくる発電所の跡。
廃墟群は、どれも北大東特産の燐鉱石の貯蔵と荷積みのための施設だった。ひと際目を引かれたのが、石碑より一段高いところに復元された旧東洋製糖(燐鉱山も運営)の出張所。地元で採れるドロマイト(※)を利用した独特の石造建築で、現在は「りんこう館」という交流施設となっていた。
※苦灰石、または苦灰岩。珊瑚などの生物が海底に堆積して石灰石になった後、海水中で変容して生成された生物由来の鉱石。
コミュニティー施設周辺整備事業により、近接する金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)周辺もきれいになり、ドロマイトを使った公衆便所も新設されている。
調べてみると、2001年に訪ねた直後から、風向きが変わり始めたらしい。2002年から沖縄県などの調査が進み、その結果2005年に旧東洋製糖の北大東島出張所が登録文化財となり、燐鉱石貯蔵庫、荷積桟橋、社員浴場跡、大衆浴場、魚市場、社員クラブ(現在、民宿二六荘)なども、2006年から2007年にかけて次々と登録された。また、2007年には経済産業省によって、近代化産業遺産に認定。
北大東村も2013年から、燐鉱山関連文化財の調査に着手。村による調査報告を受けて、文化庁は2017年「北大東島燐鉱山遺跡」を史跡に指定。
史跡指定に際して評価されたのは、文化財オンラインによれば以下の通りだ。
現在も、採掘場、日乾堆積場、トロッコ軌道、ドライヤー建屋、燐鉱石貯蔵庫、積荷桟橋(つみにさんばし)、船揚げ場、火薬庫等、燐鉱石の採掘・乾燥・運搬・貯蔵・積出に至る生産施設が大規模に残る。これほど大規模に燐鉱生産施設が残るのは北大東島のみであり、唯一国内に現存するものとして貴重である。
(出典:文化庁「文化財オンライン」文化遺産データベース)
2018年、沖縄県で初めての重要文化的景観に選定。
2020年、沖縄初の都市景観大賞優秀賞を受賞。
蘇りつつある燐鉱山遺跡は、現在快進撃を続けている。
基本的に現存する遺産はそのまま生かし、また地元産のドロマイトを活用して整備を進めるそうなので、これからどんな風に変貌していくのか、目が離せない。
もう一つ、20年ぶりという時の長さを感じさせられたのが、北大東島漁港が忽然(個人的感覚だが)と出現していたこと。簡素な船着き場すらない全くの切り立つ断崖の海岸線に、眩いばかりの巨大な漁港ができていたのだ。この話については、また機会を改めて紹介したい。
【北大東島概要】
●所在地
沖縄県 島尻郡 北大東村
●人口
542人(2021年3月 住民基本台帳住基人口)
●行政区分
明治29年 沖縄県ノ郡編制ニ関スル件(明治29年勅令第13号)の施行により島尻郡が発足
昭和21年 南西諸島の行政分離により米国施政権下に入る、村制施行により北大東村となる
昭和47年 日本復帰