つくろう、島の未来

2024年07月24日 水曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。

第46回は、鹿児島県の南に7つの有人島と5つの無人島が連なるトカラ列島の一つ、諏訪之瀬島へ。

1970年代にリゾート開発のため島に整備され、その後村に無償譲渡されヘリポートとして利用されていた飛行場に、2022年鹿児島空港(鹿児島県霧島市)との航空便が就航。諏訪之瀬島と周囲の島々を高速船で結び、トカラ列島の住民の新たな足が誕生するまでの道のりを、写真と共に振り返ります。

ヤマハの諏訪之瀬島飛行場(1975年10月撮影)

トカラ列島の定期航空路存続を願って

初めて諏訪之瀬島を訪れたのは、1975年10月だったので、半世紀近く前になる。当時は西岸の元浦(もとうら)港が主要港だったが、その時は整備が始まったはじまったばかりの東岸にある切石(きりいし)港から上陸した。風向きの関係だったのだろう。

港といっても、本船が接岸できるような代物ではない。人や物資は、すべて艀(はしけ)によって運ばなくてはならない時代。元浦港に置いてあった肝心の艀は、島の南端を回りわざわざ切石まで回航したという。

半年前までは艀作業すらできず、切石から上陸する時はサンゴ礁の縁に降り立ち岸辺まで歩くしかなかった。サンゴ礁を爆破して澪(みお:船の水路)をつく作り、なんとか艀が出入りできるようになったのだ。

御岳中腹から一望する諏訪之瀬島飛行場。左端の切石では築港工事が進んでいた(1975年10月撮影)

ヤマハが、諏訪之瀬島に高級リゾートを建設中で、並行して飛行場もつく作ったという。8月に完成したばかりだという飛行場を見に行くと、できたての高速道路のよう。

集落の中の道はほとんどが踏み跡で、港からの主要道も砂利舗装がいいところ。そこに、最新鋭の高速道路(滑走路)が降臨していて、時空間が交錯しているような奇妙な戸惑いを感じたものだった。

ヤマハの私設飛行場は8月に完成したばかりだった(1975年10月撮影)

飛行機で楽々と島に降り立つリゾート客もいる一方、島人たちはいつやってくるか分からない不定期な定期船(矛盾した存在だった)に生活のすべてを頼っていた。

真夜中でも夜明けでも、定期船(本船)が来て鋭い汽笛を鳴らせば、島人たちはこぞって港へ向かう。青年団の男たちは、危険を顧みず艀を海へ下ろし、本船へ向かう。

そしてまず駆け込むのは、船の小さな売店だった。切れていた煙草を買い、その場で煙を深く吸い込む中年男もいれば、甘い饅頭(まんじゅう)を3つ4つ立て続けに頬張る若者もいた。島のささやかな雑貨店にないもの、品切れになっていた嗜好品を一瞬むさぼり、それからおもむろに通船作業に取りかかるのだった。

十島村立平島小中学校諏訪之瀬島分校(1975年10月撮影)

飛行場やリゾート施設建設に必要な資材も、すべて艀で渡さなくてはならない。大量の物資を陸揚げする時は、どれだけ時間がかかるのか誰にも分からなかった。海が荒れだしたら、通船作業は中止となる。そうやって、船はどんどん遅れていく。

実際、1977年に艀が転覆し、老練な島人が亡くなっている。それほど厳しい環境の島に、高級リゾートができたのだ。

元浦港。2年後、ここで゙艀作業に失敗、1人が亡くなった
(1975年11月撮影)

島の中心に口を開いた活火山御岳の中腹まで登ると、緑に埋もれ自然と一体化している集落に対して、西側に開けたリゾート地と大地を剥ぎ取ってつくられた飛行場は、異界へ続く装置のようにも見えた。

それから1年足らず後に、緑溢れる集落が豪雨に伴う大規模な土石流に襲われ5人も亡くなるとは、誰が想像できただろう。

元浦港に祀られていた恵比寿(1975年11月撮影)

定期船が直接接岸できるようになり、危険な艀作業から諏訪之瀬島が解放されたのは、1983年3月になってからだった。そして、同じころヤマハは撤退して、飛行場は長い眠りに就く。

1997年、ヤマハから十島村へ移管されたのち、急患搬送のヘリポート代わりに使われるようになった。たまに金持ちの趣味人が自分のヘリコプターや小型機で島伝いに遊びに来て、時には、学校の子どもたちを乗せて、空から諏訪之瀬島を見せてくれたこともあったという。小型機が離発着できるよう維持をしているという話も聞いていた。

さらにそれから12年経ち、ほんの一瞬だけ諏訪之瀬島飛行場が注目されたことがあった。世界的イベントのサブ会場になったのだ。今世紀最長の皆既日蝕の観測地点である悪石島のすぐ隣ということで、世界的に注目の的となった。しかし、悪天候で日蝕自体の観測すらできず、曇天で暗かった空がしばらく真っ暗になっただけ。それで、世紀の大イベントは終わりだった。

諏訪之瀬島では飛行場跡(当時)が今世紀最長の皆既日蝕観測場となった(2009年7月22日撮影)

2022年9月22日、十島村のサイトに「航空便運航開始のお知らせ」が載った。

なんと! 令和4年10月4日(火)から、航空便の運航が開始されるというではないか。

そういえば、何年か前に飛行場の有効利用を検討していると耳にしたことはあるが、島々の遊覧飛行に利用するくらいだろうと思っていたら、まさかの定期航空路が開設だったとは。

運賃は、片道6万円! バーゲンチケットを探せば、片道分で成田―鹿児島を2、3往復できてしまう。ちなみに、村民向けの運賃は、10,800と記されていた。鹿児島から2等船室を使った場合(7,140円)よりは高いが、指定寝台(11,140円)よりも安い。これなら、手が出る。片道1時間30分で、定員は3名。

6万円は個人的には高いが、天気に恵まれさえすれば、十分に元が取れる。溝辺(みぞべ)の鹿児島空港を飛び立ち、錦江湾(きんこうわん)の新島(しんじま)、桜島から始まりはじまり、開聞岳(かいもんだけ)、佐多岬(さたみさき)、竹島硫黄島種子島馬毛島屋久島。トカラに入れば、口之島、中之島と、次々に現れるスペクタクルを想像するだけで、わくわく胸が躍った。

諏訪之瀬島の飛行場は、正式には場外離着陸場(2024年4月撮影)

同年11月、セスナ機から飛び降りるつもりで、鹿児島―諏訪之瀬島便を予約した。しかし、運賃を先払いする段になって、もし東京からの接続便が遅れた場合どうなるのか不安になり確認すると、払い捨てだという。

LCCはもちろん、ANAやJALとも遅延に関する協定はしていないというので仕方ない。ということは、前日鹿児島に泊まった方が安全だろう。そんなことを考えるうちに、沸き上がった想いは落ち着いてしまい、まだ搭乗登場は果たしていない。でも、必ず乗るつもり!

しかし、これでは諏訪之瀬島の人にしか役立たないではないか。その疑問は、『広報としま260号』(2022.12)に挟まれていたチラシを見て晴れた。事前予約で、十島村の高速観光船「ななしま2」を、事前予約で各島へのアクセス便として運航してくれるという。もちろん、割安な運賃で。これなら、他の島から苦情は出ないだろう。

元浦港の恵比須は今も残るが、右腕が欠けてしまった(2024年4月撮影)

初めての搭乗者となったHHさんは、『広報としま』のインタビューにこう答えている。

――元々離島などを巡ることが好きで、諏訪之瀬島も9年ほど前に訪れている。飛行機も好きなので、一度訪れた時に滑走路を歩いた。そのため、ニュースで運航開始を知った時に乗ろうと決意した。

Hさん、今回は純粋に搭乗が目的だったようで、とんぼ返りしたという。往復で、12万円か……。溜息が出る。島人以外で搭乗するのは、主に裕福な趣味人だから、果たして定着するのか。

無責任に危ぶんでいたところ、2024年2月28日から、これまでの火・金曜日に加え水曜日の1往復が追加され、週3往復体制となった。予想外に村民の利用者が多く、航空会社から増便の要請があったという。

村人に案内してもらった諏訪之瀬島空港ターミナル(2024年4月撮影)

青ヶ島のヘリコプター便は定着して、移動手段の主流となった。そこまではいかないだろうが、トカラの定期航空路がうまく活用され続けることを願うばかりだ。

どれだけ素晴らしいスペクタクルを堪能できるか想像するだけで、身震いしそうだ。鹿児島―トカラ(諏訪之瀬島)フライトは、日本を代表する観光資源になるに違いない。そのための受け入れ態勢整備はまだ先だが。

早くレポートできる日が来るよう、努力しなくては。


【諏訪之瀬島概要】
●所在地
鹿児島県 十島村
●人口
84人(2023年12月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治41年 町村制の施行により大島郡十島村となる
昭和21年 南西諸島の行政分離により米国施政権下に入る
昭和27年 日本復帰
昭和48年 鹿児島郡十島村となる


     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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