つくろう、島の未来

2024年07月22日 月曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。

第44回は、瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の一つ、斎島(いつきしま|広島県)へ。

斎藤さんと同じ「斎」を冠した島名に心惹かれ、1994年に初めての訪問。その後、2008年、2013と訪問を重ね、2024年1月、約10年ぶりに斎島の島旅へ。その時々の瞬間を切り取った写真と共に、島の人々との思い出を振り返ります。

現役時代の第五同栄丸(1994年6月撮影)

「斎」の名に縁を感じ、島へ

まだ、南西諸島などの外海離島を中心にめぐっていた頃、瀬戸内の島では比較的早い1994年に足を延ばしたのが斎島だった。本土から直接行けない島のまた先の島(二次離島)に漂う、外海離島にも劣らない隔絶感に誘われたのだ。そして、自分の名字の一字「斎」を冠した唯一の島であることも、大きな誘因だった。

斎島へ行くには、まず豊島(とよしま|広島県)へ渡らねばならない。当時、豊島と上蒲刈島(かみかまがりじま|広島県)を結ぶ豊島大橋はすでに完成していたが、本土と上・下蒲刈島をつなぐ安芸灘大橋(あきなだおおはし)の架橋前だったので、船で豊島に渡り、さらに斎島行きの船に乗り継ぐしかなかった。

豊島の港で斎島行きの船を待っていて、空前絶後のへまをやらかした。自分が乗るべき船を見落としてしまったのだ。出港時刻に遅れ乗れなかったことはあるが、乗るべき船を目の前にしながら気づかなかったのは、初めて。あまりにも定期船の出入りが多く、気付かなかった。まだ携帯電話は普及していない時代、飛び込みで豊島の宿を探し、事情を話したところ、予約していた斎島の民宿に電話してくれた。

料理もしっかり用意しているので、これから船で迎えに行ってやるという。渡船料はしっかりとられたが、斎島へ渡れただけで幸運だった。食卓には、クロメバルの煮つけ、タチウオの塩焼き、タチウオの刺身など、この地の漁家らしい大満足の料理が並んだ。

民宿の夕食(1994年6月撮影)

当時は、辛うじて小学校が残っており、女の子が1人だけ通っていた。小学校1年から6年まで、ずっと1人で通い学校を守り続けていたが、訪ねた翌年の1995年3月彼女が中学生になると、斎小学校は廃校になった。小学校跡地に、宿泊研修施設や集会室、診療室、資料室、消防車庫などができる予定と聞いた。その時は、夕方島に着いて1泊し朝に戻ったので、集落内を少し歩いただけだった。

たった一人の小学生が通っていた当時の斎小学校。撮影の翌春(1995年3月)に廃校となった(1994年6月撮影)

次に訪れたのは、2008年になってから。小学校跡に建られたシャレた宿「あびの里」に泊まるため。食事もなかなか充実して、大浴場からは港やその向こうに広がる海が一望できる素敵な宿だった。ただ、宿泊客は夏に集中し、予約が入るたびに料理人が島外からやってくる状況で、経営的にはかなり苦しそう。素敵な場所だが、自家用船でもなければ、ここまでたどり着くのは大変だろう。

経営していた頃のあびの里(2008年10月撮影)

時間に多少余裕があったので、美しい白砂が広がる真名板海岸まで行ってみた。踏み跡の小径ははっきりしていたが、竹薮(やぶ)に侵されそうな気配。

真名板海岸へ続く小径の入口(2008年10月撮影)

浜からは、安居島(あいじま|愛媛県)や忽那諸島(くつなしょとう|愛媛県)の島々、四国本土が間近に見えた。一人で貸し切った浜はとても居心地がよく、時の流れを忘れそうだった。

真名板海岸。水平線上に忽那諸島の島々が浮かぶ(2008年10月撮影)

その後、2013年に訪ねた時は、あびの里はもうやっていなかった。当時自治会長を務めていた移住者のUさんから、島の現況や綱取り問題(※)、イノシシの害などについて聞き、かつて民宿をやっていたオバァちゃんから漁の話などを聞かせてもらった。

※船が接岸するには艫綱(ともづな)をとる人手が必要

乾燥したヒジキをていねいにかき集めるオバァちゃん(2013年1月撮影)

そしてこの1月、ほぼ10年ぶりに斎島へ渡った。その後の変化を見ておきたくもあったが、朝一の用事を豊島で済ませ、昼前後に大崎下島(おおさきしもじま|広島県)の久比(くび)へ移動するには、直行の定期バスを待つより、斎島経由の定期船で行く方が早いという事情もあった。いわば一石二鳥ならぬ、一隻二島だ。

斎島行きを決めた時、斎島にずっと住み続けたいと言っていたUさんの動静を、まずフェイスブックで調べた。あらかじめ連絡しておき、最近の動きを教えてもらおうと思ったからだ。しかし、コロナの期間中に島を去っていた。島で生まれ育ったお年寄りも、島を愛する移住者も、島で人生を全うするのは容易ではない。

斎島での停船時間が、1時間ある。自分の目で、変わりようを見てみよう。そう思いながら豊島の船着き場に行くと、窓口の人と話し込む男性がいた。斎島までの乗船券を買ったところ、話しかけてきた。Uさんの後に自治会長をやっているという、Kさんだった。民宿をやっていた人にしては、若すぎる。息子さんだろうか。

斎島の人口は、5人。もう1人、出たり入ったりしている出身者がいるという。桟橋で待っていると、手押し車に大量の日常品を積んだ、足取りのしっかりしたオバァちゃんがやってきた。Kさんのお母さんだという。

豊島から斎島行きの第八同栄丸に乗船。オバァちゃんと一緒(2024年1月撮影)

島に着くと用があるそうで、Kさんはサッサと行ってしまった。そのおかげで、オバァちゃんの話を聞きながら、のんびりと一緒に歩くことができた。80代後半だというオバァちゃんは、足だけでなく口も達者だった。

「子どもはなかなか島へ戻ってこれないから、心配して年老いた親を連れて帰る。そうすると、散歩も運動もできなくなるから、3年もすると死ぬ」と、オバァちゃん。

よく聞く話で、子どもたちもある程度分かっているのだろうが、かといって自分の現在の暮らしを捨てて島へ戻ってくるのは、極めて難しい。

しっかりした足取りのオバァちゃんだが、最近は豊島まで買い物に行くのが億劫で、行くと買い溜めしてくると笑った。

「マナイタ浜(真名板海岸)には、行けない。昔は耕作のため人がよく通っていたが、今はイノシシばかりで危険だから、行ってはいけない」

残念だが、他の島でも同じような忠告をよく聞くので、従うしかない。自分に万が一のことがあったら、島人たちに多大の迷惑をかけてしまう。

「Uさんは本当によくやってくれたけれど、体を壊してね……」

あびの里の建物は、傷みながらもそのまま残っていた(2024年1月撮影)

斎島は基本的に農業の島だが、自分は上蒲刈島の大浦から斎島の漁家へ嫁いできて、一緒に漁に出ていたという。一瞬、民宿をやっていた女将さんかもと思ったが、次々に話が湧いて出て、確認する間もなく家の中へ入っていった。あとで確認すると、やはりそうだった。次に訪れた時も、元気な姿を見せてくれることを願いつつ、船で久比経由三角島(みかどじま|広島県)へ向かう。

三角島の港に近い廃マリーナに、30年前斎島へ通っていた第五同栄丸のうらぶれた姿があった。急に、激しい時の流れを突き付けられた思いだった。

三角島で野晒しになっていた第五同栄丸(2024年1月撮影)

【斎島概要】
●所在地
広島県呉市
●人口
8人(2023年9月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治22年 市町村制施行により、豊浜村斎島となる
昭和44年 町制施行により、豊浜町斎島となる
平成17年 呉市に編入

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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