つくろう、島の未来

2024年10月15日 火曜日

つくろう、島の未来

瀬戸内の島々150島を歩き、人と暮らしを描いてきた絵描き・倉掛喜八郎氏の著作『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』より、エピソードを抜粋して掲載する連載企画。
愛媛県松山沖に浮かぶ、今は無人島となってしまった由利島(ゆりじま)で、タコツボ漁とミカン耕作を営みながら戦前から1980年代まで暮らした夫婦を訪ね、穏やかな海を見下ろすミカン山で、漁に出た船の上で、問わず語りに聞いた島の話をお届けします。

左:二神・由利島周辺地図/右:由利島鳥瞰図(クリックで拡大します)

豪勢な船下ろし

漁船の新造「船下ろし」は、漁師が甲斐性を示す晴れ舞台だ。目いっばい見栄を張る。中村さんは並外れた賑やか好き、交際もハデだ。

「あんなぁ、三バイめの勝豊丸はな、そぅら立派じゃったんよぅ。見せちゃろわい」
何事にも控えめなスミエさんが、目を見開いて自慢する。
記念写真を見ると、ツボ組優勝のぼり、大漁旗、勝豊丸と船名を染め抜いたのぼり一、二、三、全部で十二本の旗サオを両舷に飾り、誇らしげにお披露目の勝豊丸。

「おじいさんはどこにおるかわかるかい、ここにおろう。おじいさんの腕盛り、四七のときよぅ。今のおじいさんと違おう。「船下ろし」は昭和三七年三月二四日じゃったんじゃけど、その日はええお日和じゃったんよのぅ。おじいさん」

「おうおう、そうじゃったのう。わしの甥の船大工は、神戸で修行して腕がよかったんで造らせたんよのう。船は全長三〇尺(約八メートル)、胴(横幅)は二メートルから上あったじゃろう。大けかったんで造るのに半年かかったんじゃがい。ふつうの船じゃったら三ヵ月でできるじゃがのう。二〇馬力のディーゼルエンジンをつけて、しめて一〇〇万ぐらいしたじゃろう」

「ほうよなぁ、おじいさん。三津ヘタコ持って行ったら、どないしてこげな大けなの造ったんかぁ言うて、漁師に笑われたり、冷やかされてな。みんな呆れちょったわい。勝豊丸はそんぐらい大けなかったんよな、おじいさん」

「ほうじゃ、ほうじゃ」

「けどなぁ、船が大きいけぇ、タコツボをいっぺんに五〇〇個積めたんで、ツボの能率がグーンと上がったんよなぁ。ツボは船の左側を使うんでよの。ブリッジを真ん中からちょっと右へ寄せて、人が走りやすいように。由利からミカンを持って帰るとき、船の後ろから前の甲板まで一輪車を押して運べるようにしちょんのよぅ。
それになぁ、走るんも速かったんよぅ。三津まで一時間で走ったんよな。よその船をスイスイ抜いて、三津に入れよった船の中で一番速かったわい。なぁ、おじいさん」

「おう、先頭走るんは気持ちええぞ」。
中村さんは進取の精神で時代の先頭を走っていた。

「こん当時の『船下ろし』の餅まきは二斗(約三〇キロ)がふつうじゃったんじゃが、わしゃ、二斗八升(約四二キロ)の餅をよの、勝豊丸と染め抜いた手ぬぐいに包んでまいたんよのう。船大工には祝儀を一〇人扶持と鏡餅をはずんだんよの。祝いは二神と三津から八〇人に膳をしたんじゃがい」

「おじいさんはお酒を一滴も飲めんのによの、『船下ろし』じゃの何じゃらの酒の席では、いっつも一番最後まで座っとれるんじゃけぇ、偉いなぁと思うたわい。そんで、みんなに祝うてもらおうと呼んだんじゃけんのぅ、わしが席を外したんでは客が楽しめんじゃろがい言うてよの。私に三味線の一つも習ろてもかまわんぞ、言うて笑うとったわい」

中村さんはタコの稼ぎ頭、羽振りがよかった。大盤振舞いをして周囲を喜ばせた。

「私ら結婚してから、あっちこっちへよう遊びに行ったんよぅ。おじいさんは仕事は一生懸命、余裕を持ってせぇが口グセ。金を使う、それを励みにタコを取りよったけぇ、ミカンもそういうようにしよったけぇ、楽しむときは思いっきり楽しめたんよのぅ。
おじいさんはよう縁起を担ぎよったわい。大漁の祝いじゃの不漁のゲン直しじゃの言うてよのぅ。甥や姪をよう遊ばせよったわい。何かにつけて気風がええんで、お金を使い過ぎよのぅ」

「おうおう。仕事するだけじゃつまらんが。自分がするだけのことしとったら、金はどう使おうとかまわんじゃろがい」
中村さんは大口開けてカラカラ笑う。

「正月はひと月休んだんよな、長いけぇ、ゆっくりできたわい。椿さん(松山市の椿神社)にお参りして、道後の湯につかるんが習わしよのぅ。椿さん参らんと春がこん、言われちょったんよなぁ、そんで讃岐の金毘羅さんにもお参りしたんよなぁ、おじいさん」

「おう。そうじゃ、椿さんせんとの。それに正月はのう、朝早うに家へ男の子が来ると縁起がええんでの、わしゃ、年玉をはずんでやったんじゃがい」

「なぁ、おじいさん。お花見は梅津寺(松山市)へよのぅ。高浜から一つ松山寄りの駅のとこにあろう、あそこよぅ。
夏は「十七夜」いうて、お管絃さんと三津の港祭りの花火見物よの。お大師さん(五十五番札所・石手寺)にお参りしたり、道後や鷹ノ子温泉にはしょっちゅう行ったわい。うまいもん食べて芝居見物したりよなぁ」

「おう、そうじゃったのう。それにのう、三津の電気館、栄楽館でええ映画しょんぞと聞いたらよの、すーぐに勝豊丸でひとっ走りしたんじゃがい」

「そうじゃったなぁ。三津で何か面白いもんがあると聞いたらな、船を走らせたんよぅ。おじいさんと二人の甥の三バイが揃うて、三津へタコを持って行きよったけぇ、ご飯食べるんも泊まるとこもいつもの所よのぅ」

松山市三津浜は沖合の忽那諸島(中島、睦月島、野忽那島、津和地島、二神島、由利島、釣島)の生活と密接に関わり、島へ行き来の人、生活物資、情報も三津浜を窓口にしている。

お管弦さん–宮島詣

「お管絃さんはなぁ、宮島さんとも言うんじゃけど、『船下ろし』のおかげを受けに厳島神社へ参拝する習わしよぅ。昭和二九年、『十七夜』とも言うんじゃけど、旧暦の七月十七日に、二ハイめの勝豊丸のときは三津のエビこぎ(底引き網)や仲買人、気の合う八人を乗せて行ったんよぅ、おもしろかったわいなぁ、おじいさん」

「おうおう。満ち潮に乗って五、六時間かかるんで、二神を七月十六日の昼に出たんよの。あんときは十五、六パイが一緒に行ったんよの」

「そうじゃったなぁ。知り合いの人が「船下ろし」したらよの、みんなが一緒に行きよったけぇ、大漁旗やのぼりで船飾りをして、船べりを並べてよのぅ。胴の間に(船体の中央)日よけのテントを張り、ゴザを敷いて車座に。そんで道中、漁をしちょる船がおったら魚を買うて、煮炊きして飲めや歌えのドンチャン騒ぎよのぅ。
お管絃さんはあっちこっちの島からようけ来よったけぇ。おじいさんは顔が広かったけぇ、津和地じゃの柱島じゃの、やれどこそこじゃのと、知った人が寄って来てよのぅ。大騒ぎしょったんよの。おじいさん」

「おうおう。そうじゃったのう」

「日暮れ時に宮島へ着くと、ちょうど満潮じゃけぇ、大鳥居をくぐって参拝したんよぅ。そんで船をタンポ(船溜まり)へ繋いで、上がったんよのぅ。参道をゾロゾロ歩いて、夜店を冷やかしたりして遊ぶんよぅ。そんで料理屋の座敷に上がって、まーたドンチャン騒ぎよぅ、サイフが空になるまですんのじゃけぇのぅ。
晩は船で横になって、あくる朝は暗いうちから弥山に登ったんよぅ。昼はまた参道を見歩いて記念写真を撮ったり、芝居小屋を覗いたりして楽しんでよのぅ。そんで日が沈むと、いよいよ管絃祭りよの。松明の火で大鳥居が闇の中に赤うに浮かび上がってなぁ、そぅらきれいなかったわい。なぁ、おじいさん」

「おうおう。神輿とお供の船が大鳥居をくぐってよの。祭りが最高潮になるんじゃが、ようけの船がおるんで大鳥居には近づけんのじゃがい」

「そうよなぁ、おじいさん。行けん行けん。お管絃さんはお名残りつきんかったけどが、十一時頃に宮島を離れたんよのぅ。横目に見ながらよなぁ、二神に戻って来たんはあくる日十八日の夜明けじゃった。
昭和三七年の三バイめ、五三年の四ハイめのお管絃さんは、おじいさんが畑で大ケガしたり、病気で入院したりしたんでなぁ。日帰りしたんよなぁ、おじいさん」

「おうおう。そうじゃったのう。船が速う走るようになったんでよのう」
夫婦はお管絃さんの様子を昨日のことのように語り合った。

     

離島経済新聞 目次

寄稿|『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』

倉掛喜八郎(くらかけ・きはちろう)
兵庫県姫路市生まれ。広告代理店グラフィックデザイナーを経て独立。1980年代に刻々と変貌する瀬戸内の海と人の暮らしを描き留めたいと思い立ち、瀬戸内ルポの旅へ。山陽、四国沿岸、島は有人島無人島合わせて150島を歩く。1995年阪神・淡路大震災に被災し、生活再建のため絵から離れるが、2017年瀬戸内歩きの活動を再スタートさせた。著書に『えほん神戸の港と船』(神戸新聞出版センター 1980年)、『瀬戸内漂白・ポンポン船の旅』(大阪書籍 1986年)、『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』(シーズ・プランニング・星雲社 2020年)。

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