つくろう、島の未来

2021年12月01日 水曜日

つくろう、島の未来

瀬戸内の島々150島を歩き、人と暮らしを描いてきた絵描き・倉掛喜八郎氏の著作『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』より、エピソードを抜粋して掲載する連載企画。
愛媛県松山沖に浮かぶ、今は無人島となってしまった由利島(ゆりじま)で、タコツボ漁とミカン耕作を営みながら戦前から1980年代まで暮らした夫婦を訪ね、穏やかな海を見下ろすミカン山で、漁に出た船の上で、問わず語りに聞いた島の話をお届けします。

左:二神・由利島周辺地図/右:由利島鳥瞰図(クリックで拡大します)

ミカンを作る

「さあのぅ。ミカン作ってもう四〇年になるんじゃろうか。昭和二九(一九五四)年から開墾したんじゃけんのぅ。初めての収獲は三〇箱(一箱二七キログラム)じゃったけど、去年(昭和五九年)は温州、伊予柑、ネーブルとで一七〇〇箱を収穫したんよぅ。

ミカンは五年ほどで実はなるんじゃけど、木はまだ子どもよな、ええ実をならすんには一四、五年かかるんよぅ。寿命は六〇年ほどじゃけど、その間になんべんも接ぎ木して若返らせて樹勢を強めるんよなぁ。

ミカンの根はダイダイ、ユズ、カラタチなんかがあるんじゃけど、うちはカラタチの台木に温州ミカンの幹を高接ぎして、その先に宮内伊予柑の枝を接いどるんよぅ。温州は二四、五枚の葉っぱで一つの実、伊予柑、ネーブルは八〇枚から一〇〇枚の葉っぱで一つの実をならすんよなぁ。日当りのええ日向と悪い陰地とでは、ちいと枚数が違うんじゃけど、ミカンの実を根で育てる人もおるけど、うちは葉の養分で育てるんよぅ」

昭和三〇年代半ば、それまでミカンの木は一・八メートル間隔で植えられていたものが九〇センチ間隔の密植栽培になり、じゃんじゃん開墾された。ミカンは糖度や酸味がどうのということではなく、品質は二の次、作れば貫なんぼで売れた。「黄色いダイヤ」ともてはやされてブームの兆しがあった。和歌山のミカンと言われだすまで、愛媛のミカンは人気があり、産地は儲かった。

「ミカンはなぁ、作る人の性格や人柄が出るんよぅ。几帳面な人、そうでない人、畑を見とったらわかるけぇ、おもしろいんよぅ。

ミカンは生きものよぅ、一本一本違うんよぅ。枝を切っても強いの弱いの、毎日心を入れて見ちょったらそれがわかるんよぅ。ミカンは人間の子と同じよぅ。そうかそうか言うて、なだめたりすかしたりして、手をかけてやるんよぅ。

たとえば子どもの頭をなでるにしても、その手に愛情がこもっちょるか、単に形だけのもんか、その違いを感じ取るんよのぅ。うちのミカンの木は全部で七〇〇本あるんじゃけど、私はその一本一本と話ができるんよぅ。

カンカン照りのときは暑かろうと声をかけてやり、冷たい風が吹いたら寒かろうと根元に下草を敷いてやり、雪が降ったら冷たかろうと雪下ろしをしてやるんよぅ。

じゃけどなぁ、私の体の具合が悪いときや、天候がもう一つハッキリせんときは、眠いんで由利へ行きとうないことがあるんよなぁ。ほんでもなぁ、ミカンを見んと何か忘れもんしたよな気持ちになったんよの。その日一日落ちつかんのよ。

そんで少々無理して畑へ来て、ミカンのそばに立ったら、気持ちがホッとするんよぅ。なんぼ体がしんどうても、時間がのうても、手をかけてやらんと気がすまんのよぅ。けどなぁ、人間は、干ばつじゃの、台風じゃの、やれ異常気象じゃの、自然の大きな力に逆らうことはでけんのじゃけぇ、してやりとうても、でけんときがあるんよぅ」

昭和四二(一九六七)年、中島町は八〇年ぶりの大干ばつ。夏の三ヵ月一滴の雨も降らず、ミカン農家はそれこそ不眠不休、ワラをもつかむ思いで必死に灌水したが、頼りの貯水池はまたたくまに底をつき、ミカンの葉は見る見るうちにまるまって精彩を失い、枯れ死した。

「うちの由利の畑も同じじゃったんじゃけど、おじいさんの友だちが、勝兄が困っとらい、なんとかしてやろわい言うてよの、友情給水を受けられるようにしてくれたんよぅ。おじいさんは三津へタコの水揚げしたおりや、遊びやらで、ようけ友だちがおったけぇのぅ。勝豊丸を給水船にして三津から毎日一〇トンの水をピストン運転して由利へ運んで、細いゴムホースを畑へ通して灌水したんよぅ。

友情給水のおかげで、ウチの畑のミカンは一本も枯れ死せずにすんだんよなぁ。その年は収穫できんかったんじゃけど、ミカンが炎熱地獄を必死に耐えてくれたんでよの、おじいさんと喜んだんよぅ。よう耐えてくれたんでな、暑かったろぅ、今年はえらいめにおうたけぇ、ゆっくり休んどったらええ、来年ええ実をつけてくれたらええんじゃけんと、ミカンに声をかけたんよぅ。

おじいさんはなぁ、ワラをもつかむというけどが、ワラでは助からんぞ、そばに大木流しとったら助かるぞ、言うて笑うとったわい。

あんなぁ、ミカンは農協がああせえ、こうせえ言うて教えてくれるけぇ、人並みなものは誰でも作れるんじゃけど、ええもん作ろう思うたら難しんよぅ。何年やってもなかなか満足できるもんがでけんのよぅ。

おじいさんはなぁ、ミカンは枝先にならせぇ、ええミカン作るためには春の剪定(実をならす枝を残して、不要なものは切り落とす)と、夏の摘果(育てる実を残して、育ちの悪い小粒の玉は捨てる)が大事じゃ言うとったわい。農協がヤイヤイ言うて指導する前から、もうそうしよった。おじいさんは人の四、五年先を行っちょったわい。

じゃけど、タコはなんぼでも取れるけど、ミカンは難しい言うて、自分の納得のいくように、気のすむようにしちょったわい」

離島経済新聞 目次

寄稿|『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』

倉掛喜八郎(くらかけ・きはちろう)
兵庫県姫路市生まれ。広告代理店グラフィックデザイナーを経て独立。1980年代に刻々と変貌する瀬戸内の海と人の暮らしを描き留めたいと思い立ち、瀬戸内ルポの旅へ。山陽、四国沿岸、島は有人島無人島合わせて150島を歩く。1995年阪神・淡路大震災に被災し、生活再建のため絵から離れるが、2017年瀬戸内歩きの活動を再スタートさせた。著書に『えほん神戸の港と船』(神戸新聞出版センター 1980年)、『瀬戸内漂白・ポンポン船の旅』(大阪書籍 1986年)、『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』(シーズ・プランニング・星雲社 2020年)。

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