瀬戸内の島々150島を歩き、人と暮らしを描いてきた絵描き・倉掛喜八郎氏の著作『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』より、エピソードを抜粋して掲載する連載企画。
愛媛県松山沖に浮かぶ、今は無人島となってしまった由利島(ゆりじま)で、タコツボ漁とミカン耕作を営みながら戦前から1980年代まで暮らした夫婦を訪ね、穏やかな海を見下ろすミカン山で、漁に出た船の上で、問わず語りに聞いた島の話をお届けします。
左:二神・由利島周辺地図/右:由利島鳥瞰図(クリックで拡大します)
仏さんおったら上げちゃるぞ
「あのなぁ、船から転落したり、身投げした仏さんが流れ着くこともあるんよぅ。そんなとき、たいがいの人は気味が悪いじゃの汚いじゃの言うて、仏さんを上げるんを嫌がりよったわい。それに警察に届けんならん、事情調べに時間をとられる、何かとめんどくさいんで、なおのこと嫌いよったわい。
じゃけど、私らはそんなこと思わんかったんよぅ。ツボや畑の行き帰り、いっつも海を見回してよの、仏さんがおったら上げちゃるぞ、思うて気をつけとったんよな。周防大島行きのフェリーから身投げしたおばあさんが流れ着いたことがあって、そんときもかわいそうに、寒かったろぅ、冷たかったろぅ、と仏さんに語りかけながら引き上げて、手を合わせたんよなぁ、おじいさん」
「おう、そうじゃったのう」
「けどなぁ、仏さんが上がるんはまだええほうなんよぅ。上がらずじまいのほうが多いんじゃけぇ。ユリの花が咲いちょる頃、磯に潜ってサザエ取りの人。畑にダイダイがある頃、サバ釣っとる最中に高浜のおじいさんがおらんようになって。
一月の寒いとき、高浜のエビ漕ぎが夜漁しちょって、旦那さんが船尾で網のロープに足を取られて海へ転落。ひょいと奥さんが気づいて、ウキやら何でんかんでん浮くものを投げて呼んだんじゃが何ちゃ返ってこんかったんじゃ言うとったわい。一瞬の出来事よのぅ。あくる日からだいぶ長いこと高浜の仲間の漁師が探したんじゃが、とうとう仏さんは上がらずじまいよぅ。
渡海船から落ちたおばあさんは、佐田岬の三机(みつくえ)へ流れ着いたんよのぅ。おじいさん」
「おう、そうじゃ。潮はのう、干満の差が大きいほど流れが速いんよの。由利付近は三メートルからあるけぇ速いんぞ。三机へ流れ着くか、太平洋へ押し流されるんじゃがい」
中村さんはフウーと深いため息をついた。
「人助けやら事故やら言い出したら、切りがないわい。仏さんのこと思うとかわいそうじゃけ、もうこんぐらいにしちょこうわい」
スミエさんが話をやめた。
どこの漁師も死人を粗末に扱わない。我が身もいつそうなるかも知れないのだ。死人が魚を運んできてくれると喧伝されている。
無住島の公衆電話
通い耕作をするようになり、夫婦の元自宅はミカン倉庫に使用されていた。スミエさんは隣の粗末な小屋に駆け寄り、戸を開いて「さぁ、こん中に何があるんじゃろか」と私を手招きする。
中をのぞくと、赤い公衆電話と古びた電話帳、横に数枚の一〇円硬貨が置かれていた。
「この電話ね、昭和三六(一九六一)年、イワシ網の漁業事務所についたんよぅ。そんでみんなが二神に帰ってしもた四一年にうちへ移したんよぅ。この電話はな、ようけの命を拾うとるんよぅ」
スミエさんは受話器を耳に当てて電話が通じていることを確認して、電話帳のほこりをはらい、一〇円硬貨を足した。
「事故におうて、困って上がって来た人の役に立てばええと思うて、一〇円玉を置いちょいたんよぅ。一〇円を持っとらなんだら電話はかけられまい。おじいさんが電話の料金箱のカギを預かっとったけぇ、年にいっぺんか二へん開けて、お金を電電公社の三津浜営業所へ持って行ったんよのぅ。さあ、年に三〇〇〇円ぐらいのときやら、五〇〇円ぐらいのときもあったろうか。
通い耕作するようになっても、電話が通じとるか確かめて、ずっと一〇円玉を絶やさんと置いたんよぅ。おかげで助かりましたと赤電話に張り紙する人、わざわざ礼を言いに来る人、礼状をよこす人、戸口にお金を置いちょる人、ミカンの枝にお金をぶら下げちょる人、花の植木鉢を置いちょった人。さまざまじゃったわい」
昭和三六年は九ちゃんの「上を向いて歩こう」が大ヒット。四一年はフォークソング「バラが咲いた」のメロディーが流れていた。
「由利にはいろんな人が来たんよぅ。こんな寂しい無人島に住んで何がええんじゃい言う人やら、電気もないんじゃ、情報も何もわからんじゃろがい言うて、威張って人を小バカにする人もおったわい。じゃけど由利に上がって来た人らが、よその暮らしのことやら何やらの話をしてくれたんでな、広い世間の動きがわかったんよぅ。
三津のタネ屋はミカン作りの最新情報を持って来てくれたんよ、二神におったら農協からしか入らんのじゃけぇ。天草(熊本県)の船長さん、上関(山口県)の夫婦。豊島の『家船』はな、宇和やら宮崎、大分方面のミカン作りやら暮しの様子をよのぅ。小豆島の親子、大阪天保山の人、名古屋の人……。東京の人は、私は若い頃南米航路の船に乗っていたんですよと言うて、ブラジルやメキシコじゃの珍しい外国の話、東京の話題をよのぅ。
町の人も、キャンプやら釣りやら遊びやらで上がって来たんよぅ。やぁ、ここはノンビリしてええとこじゃ言うて、話をする人もおったけど、町から来た人は何をしに来たんか、何をしちょる人かわからん、うっかりものが言えんかったわい。
浜で煮炊きをした火の後始末をちゃんとせずに帰るんで、困るんよぅ。気がつくんが遅れていたらおおごとじゃ、山火事になっていたかもしれんことが、年に二、三回あったわい。留守をしちょる間に畑で遊んだり、ミカンの食べかすが散乱しとったりよの。ミカン泥棒やら何やらよの。ひと言、声をかけてくれりゃ、なんぼでも食べられるのによのぅ」
自分さえよければいい、人の迷惑を考えない、不届き者はどこにでもいる。
「電話はね。おじいさんが中島町立病院へ入院しちょった昭和六〇(一九八五)年は由利に行けなんだんで、電話が切られたと知ったとき、あの電話で命を拾うた人もいるのに、これで助からん人もおるのでは、命を捨てんならんこともある、悔しいなぁと思うたんよぅ。由利は海藻取り、潜り漁、ミカン作り、年に二、三回命に関わることがおこる。電話はどうしても必要なんよぅ」
スミエさんが心配した由利の公衆電話は、昭和六一(一九八六)年八月、新しく発足したNTT三津浜営業所が、月間使用度数が足らないことを理由に撤去した。しかし、二神の島人は、利用回数じゃない、人の命に関わることだとして、区長を代表者にして、基本利用料金は二神部落と漁業組合が支払うということで、昭和六二(一九八七)年五月にピンク電話に加入した。その後、平成五(一九九三)年、ピンク電話は海底ケーブルが破損したために不通になってしまった。
夫婦は由利に住むのが二人きりになったときから、中村さんが入院するまでの一九年あまり、さらに由利に用事があって寄るだびに、スミエさんは一〇円硬貨を置きつづけて、人知れず尊い命を救ってきた。