瀬戸内の島々150島を歩き、人と暮らしを描いてきた絵描き・倉掛喜八郎氏の著作『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』より、エピソードを抜粋して掲載する連載企画。
愛媛県松山沖に浮かぶ、今は無人島となってしまった由利島(ゆりじま)で、タコツボ漁とミカン耕作を営みながら戦前から1980年代まで暮らした夫婦を訪ね、穏やかな海を見下ろすミカン山で、漁に出た船の上で、問わず語りに聞いた島の話をお届けします。
左:二神・由利島周辺地図/右:由利島鳥瞰図(クリックで拡大します)
由利の献立
「今日は、おばあさんと食べるもんの話しょうわい。かまわんかい。
食べるもんは戦前も戦後もつい(同じ)よぅ。芋と麦ご飯ぎりよぅ。ウチは七人家族、百姓じゃったけぇ、食事は日に四回じゃったんよぅ。
夜明けから日が暮れて手元が見えんようになるまで畑しよったけぇ。朝は六時に芋と麦ご飯一杯。弁当は一〇時半頃で麦ご飯に菜っ葉の煮つけ。
そんで三時頃に小昼よぅ、ひと休みしょうわい言うてよの、蒸し芋かカンコロ団子。晩は八時か九時頃で、麦ご飯に味噌汁、漬物よのぅ。
冬はなぁ、小麦団子を混ぜたおじや、芋がゆ、麦飯に里芋の煮つけと目刺しよのぅ。けど、たいがい蒸し芋ぎりですませることが多かったんよなぁ。由利は何をこさえてもようできるんでな、畑は一時たりとも遊ばせんかったわい。
味噌も醤油もこさえたけぇのぅ。食べるもんは自給自足よぅ。除虫菊やら玉ネギ、芋もでんぷん用に出荷したんよぅ」
台所の話に男はまったく口をはさめない。スミエさんの一人語りだ。中村さんは壁に背中をもたれかけ、腕組みして目をつぶっている。
「芋はな、一〇、一一月に掘って二、三日陰干しにして、ワラでこさえた収穫物の入れもん(=ホゴ)に入れて、床下の芋ツボか畑に伏せて保存してよのぅ。生芋のある一一月から六月の間は蒸したり、焼いたり、麦といっしょに炊いたりよぅ。
生芋が切れる七、八月は、梅雨の晴れ間に生芋を切って干しておいたカンコロをつなぎにしよったんよぅ。粉にしてお団子にしたりもしたわい。そんで九月の半ばになると新芋を蒸したんよな。
麦は五月に取り入れ、二神へ持って帰って、コギバシで麦こぎ、ムシロに穂を広げて乾燥さして唐棹(からさお)で叩いてバラバラにして、唐箕(とうみ)を使うて実だけ取って、二〇日からひと月ほど乾燥して俵に詰めたり、大きな丸い缶に入れて保存してよの。
裸麦は石粉を入れて台ガラで搗いて、へしゃげてから炊いたんよなぁ。丸麦は石臼に水を入れて、搗いたのを乾燥して二度炊きよぅ、ひっくり返したときに米を入れることもあったわい。麦一升に米二合のご飯じゃったら上等よぅ。赤ん坊にだけ、ひと握りの「握り飯」(米)をしよったわい」
大麦を粉にして砂糖と水を入れてグルグルかき混ぜた、はったい粉は子どものおやつにした。
「魚は贅沢品よぅ。父親は、ランプ灯して箱メガネを覗いてサザエやナマコをヤスで突いて取る「夜イサリ」しよったけどが、取った魚はじぇーんぶ三津の魚市に売りに出したり、呉の海軍工廠へ持って行きよったけぇ。魚はたーんまに自分で取って食べるぐらいのことよのぅ。イワシ網に混じるサバやアジ子をおかずにしたんよぅ」
魚は貴重な現金収入。漁師の家でも口にできたのは、売れ残りや雑魚のはんぱものだけだった。
「けど、由利は磯がええけぇ、海に入ったらいろいろのもんが取れたんよぅ。二月は藻の口開け(解禁)よぅ。百姓総出でホンダワラを刈り取って畑の肥しに。お彼岸を過ぎた三月の終わりから夏にかけて、ワカメ、アオサ、海ソウメン、ヒジキ、テングサ、つぎつぎ口開けよな。
そんで、バフンウニ、赤ウニ、紫ウニよぅ。アサリとトコブシ、瀬戸貝はいつでも取ってかまわんかったけぇのぅ。小粒でまん丸いカキが、磯にビッシリ張りついちょったんでな、一〇月から三月頃まで、よう潮が引く大潮どきに、毎日カキ打ちしたんよのぅ」
カキは業者が買いに来たり、スミエさんも三津へ持って行って小遣い稼ぎをしたと言う。
「アオサ、フノリ、テングサは漁業組合から出荷もしたけどが、由利はお金儲けの道(イリコ)があるけぇ、売る気がない。アルバイトみたいなもんよぅ。どれも家で食べるもんよぅ。山へ行ったら、ツワブキ、イタドリ、ユリ根……、海も山も季節ごとにいろんなもんが取れるけぇ、子どものおやつをこさえたり、保存食にしたり、いろいろに工夫したんよぅ。
イリコは天日干しじゃったけぇ、旨かったんよのな。ダシとおかずに、よう食べたんよぅ。味噌につけるぎりやら、田作りや味醂干しにしたりよのぅ。由利は食べるもん何ちゃ困らんかった言うたことがわかろう。由利ででけなんだんは、米とレンコンぐらいのもんよぅ。
芋、麦、食べるもんあったけぇ、ひとっつもひもじいめはせんかったわい。
へいぜいは粗末なもん食べちょったけどがなぁ。季節の変わりめやら、漁や畑仕事の節目や、月々の「コモンビ」「シキワビ」とも言う祭事が多かったけぇ、そんときは変わりもん(ご馳走)食べたんよぅ。米飯、赤飯、餅、寿司、うどん、それにオハギ、お団子もこさえたんよぅ。餅はふつうの白餅と粟やキビやので一、二俵(一俵は六〇キログラム)ついて長いことあったけぇ、瓶に水を張って寒餅にして保存したんよぅ。
「コモンビ」とは別で、家を建てたり、「船下ろし」(新造船)すっと、大工ふるまい。婚礼、出産、全快祝いやら。そんでお団子こさえて友だちと誘いおうて、お月見したりよのぅ」
食べ物の話は人を幸せな気分にする。中村さんは軽い寝息をたてていた。
やりっこ
瀬戸内の離島には、「相互扶助」助け合いのこころが色濃く残っている。
「二神はなぁ、人にあげたりもろたり「やりっこ」すんのよぅ。
あんなぁ、よその畑にスイカやカボチャ何でもええもん見つけたらよの。畑の持ち主に、あのスイカはうまげによう実ったのぅ。あのカボチャはおいしげなぁ、言うてよの。持ち主の労をねぎろうて褒めるんよのぅ。
ほんなら、「ほうよ、ようなっとろう。おじいさんに食べさせんかい」言うてよの、喜んで分けてくれるんよぅ。
人が喜んでくれるとな、来年も畑の実りが豊かになろぅ。農家は畑のもんを、漁師は魚を配るんよのぅ。みんなあげたりもろたりの「やりっこ」じゃけぇ、何の遠慮もいりゃせんのよぅ。ずっと昔からのしきたりよぅ。
二神の人はなぁ、魚、干物、煮干し、ワカメやヒジキじゃのの海藻、ミカン、野菜じゃの、家でこさえた味噌、ジャム、ウニ、何じゃらかんじゃら季節のもん、それこそいっぱい送りよらい。それが楽しみで、仕事に精を出しちょんのよぅ。二神は人の出入りより、送る荷の方が多いけぇなぁ、おじいさん」
「おうおう。人の喜ぶ顔がうれしいけぇ、すんのよのう。わしゃ、毎年の盆によの、二神全戸にタコを配ってじゃな。冬はミカンを一五〇箱送っとるんよのう。さぁ、三〇年になる人もおるぞ」
「あのなぁ、二神の人は、島ぎりで外へはよう行かんけぇ、デンデン虫じゃ。殻の中に閉じこもっちょる。野忽那(のぐつな)、睦月島(むづきしま)は、百姓もしもって、呉服の行商「島売り」してきたけぇ、金持ちが多いんよぅ」
中島町内の野忽那島、睦月島の夫婦は、伊予絣などの呉服を仕入れて、瀬戸内、九州方面へ船行商した。京都の高級呉服を車で北海道に運んで売る。行った先で店を構えた人もいる、と『中島町誌』にある。
「野忽那、睦月の人は、ワカメじゃのヒジキも松山へ持って行って売るし、金儲けがうまいんよぅ。二神の人はな、日頃食べるもん何ちゃ困っとらんけぇ、何やらも売らんのよな。そんな面倒くさいことせんと、のんびりしちょんのよぅ。その方がよかろぅ」
この日も渡海船長盛丸は、島の産物を満載して三津浜へ向かった。渡海船は朝二神発、三津浜へ一往復。定期船より朝が早いので、通院にも便利だ。三津浜から食料品、プロパンなど生活用品を二神へ運んでくる。定期船よりずっと昔からある買い物も頼める島の便利屋さんである。