つくろう、島の未来

2024年12月09日 月曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第34回は、沖縄本島北部の今帰仁村(なきじんそん)から橋で渡れる離島・古宇利島(こうりじま|沖縄県)へ。2005年に架橋された古宇利大橋を渡り、変わりゆく島の姿を感じながら集落を歩きます。

古宇利集落と停泊中のフェリー(1992年10月撮影)

異質なものがモザイクのように共生する島

コロナ第2波が落ち着いた2020年7月末、本部半島の運天港から伊平屋島(いへやじま|沖縄県)を目指して出航した。居心地がいい後部デッキでくつろいでいると、懐かしい古宇利島の姿が迫ってくる。古宇利大橋架橋(2005年)の翌年に訪れたキリだなと眺めていると、何かが違う、全然違う。架橋直後と比べ、島は大きく変貌していた。

右手一番手前が民宿しらさ、その上の高台に学校の体育館と校舎が(1992年10月撮影)
架橋直後の古宇利島。右上に学校と体育館が見える(2006年4月撮影)

橋が架かって20年近く過ぎ、最近古宇利の注目度が高まっていると聞いていたが、ここまで表情が変わったとは。島の輪郭線こそほぼ同じだが、新しい建物がたくさんできている。それも統一感はなく、それぞれ自由気ままに建っている。

学校跡地(右上)で建設中のリゾート施設は完成間近だった(2020年7月撮影)

際立っていたのは、学校があった場所で進む大規模な建築工事と、大橋の突き当りにそびえる巨大なタワーだが、細部まで観察すると変化は至る所に及んでいる。あの建物は、宿だろうか、おしゃれカフェか、あるいは別荘か、はたまた島人の新築か、などと想像を巡らすうちに、船は古宇利の西側へ回り込んだ。

古宇利島の西から北へかけては、灯台くらいしかなかったのに、民家とは思えぬ大きな建物がいくつもできていた。こぢんまりしたリゾートホテルか、一棟貸しの宿か。

灯台(左奥)の近くにも大きな建物か(2020年07月撮影)

その時、遠からず現状を確認しに行こうと誓ったものの、引いては返すコロナの波はなかなか収まらず、やっと古宇利の地を踏んだのは、2023年3月だった。

古宇利大橋完成後、2010年には本部半島と屋我地島(やがじしま|沖縄県)を結ぶワルミ大橋も開通。古宇利島は、すっかり便利な離島となった。ただし、自家用車で移動できればの話。

今回も早朝成田を発ち、那覇空港11時30分発のやんばる急行バスで本部半島へ向かったが、今帰仁村役場前13時40分の古宇利島行きバスには、タッチの差で乗れないと分かった。次は17時40分発で、それが最終便。午前中も1便あるだけだから、古宇利島と本島をつなぐバスは、1日3便しかないことになる。

350人ほどが住む島なのに、これでいいのか。観光客の大半はレンタカーだろうし、公共交通利用観光客の不便は置くとしても、運転免許を持たない高齢のオバァたちは、困っているに違いない。

今帰仁役場周辺で4時間近く待ちたくないので、名護から路線バスで屋我地島の終点の運天原まで行き、そこから歩くことにした。古宇利までの道のりは、4キロほど。久しぶりに、古宇利大橋をのんびり歩いて渡るのも悪くない。

完成直後の古宇利大橋と古宇利島。橋の突き当りには、ほとんど建物がない(2006年4月撮影)
大橋の突き当りにはオーシャンタワーをはじめ、建物が増えた(2023年3月撮影)

バスの終点周辺は低く黒い雲に覆われ、激しい通り雨があったばかりらしく、歩道のあちこちに水溜りができていた。古宇利大橋が見えるところまでくると、突き当りの高台にそびえる古宇利オーシャンタワーが目に飛び込んできた。あそこなら、古宇利島周辺の美しい海と大橋を、安心してゆっくりと眺めることができる。

橋の手前には、レストランや宿らしき建物が、2つ、3つ建っていた。しかし、対岸のように密ではない。屋我地島にもリゾート施設が増えているかもしれないが、古宇利ほどではなさそうだ。

古宇利大橋南詰展望所には、悪天候の夕方にしては車がたくさん止まり、ビーチに降りて写真を撮る人たちもいた。日が射していれば、まばゆい光景が広がるのに残念。

徐々に近づいてくる古宇利島や、屋我地島北端の国立療養所沖縄愛楽園とその前に連なる奇岩群が気にかかり、車を避けつつ橋の上を右へ左へ行ったり来たり。

海岸線中央右の赤い壁の民宿しらさと背後の学校跡地に建つロワジール テラス&ヴィラズ 古宇利(2023年3月撮影)

2年半前建設中だった小中学校跡地はいかにもリゾートらしくなり、2階建ての校舎と青い屋根の体育館はラグジュアリーな建物に生まれ変わっている。

橋を渡り終えると、生活感が急に密になった。観光客相手のカフェや軽食の店、マリンスポーツ店の向こうに、沖縄独特の亀甲墓や破風墓、そして建築中の建物が見え、不思議なカオスを感じさせる。港の方へ向かうと、「古宇利島の駅ソラハシ」という看板が見えた。その一角にあるバス停には「古宇利島物産センター」の文字が。一応ここが、1日3便しかないバスの起点らしい。

架橋直後の民宿しらさ(2006年4月撮影)

海岸に沿って1、2分歩くと、前回も泊まった老舗の民宿しらさがあった。
橋が架かる前は、フェリーから下船するとすぐ前に見えたものだった。建物の塗装は変わっていたが、場所は港の真ん前のまま。「うにどん」という幟がはためいている。宿というより、今は古宇利名物うに丼を出す食堂として有名らしい。

夕食に並んだアジケー(シャコガイ)の味噌汁を啜りながら、女将の話を聞いた。
「宿は、たくさんできたよ。でも、知っているのはロワジールとララくらい。あとは分らんさ、宿かどうかも。仕事で忙しいし。昔からの民宿は、もううちだけよ」
学校の跡地にできたリゾートホテルが、ロワジールだった。

在りし日の古宇利島小中学校(1992年10月撮影)

翌朝、2階客室のテラスで朝日を拝んでから、混沌とした集落を散策した。オシャレなリゾートと美しいサンゴ礁だけ求める人の目には入らないかもしれないが、謎だらけの集落彷徨は実に楽しかった。

たたずまいのよい島人の住宅、こぢんまりした別荘風の洒落た新築、古民家風の宿らしき建物、荒れ果てた廃屋、妙にこぎれいな空き家、間もなく工事が始まりそうな更地、スイカの苗が植えられた畑、草ぼうぼうの荒地、立入禁止の聖地、きれいな舗装道路と岩だらけのデコボコ道、そして、続々と台地の上へ登っていく軽トラ。

集落を縫う小径は微妙に入り組んで迷路となり、さらに新旧の建物がそれぞれ違った世界を主張していた。空間的な迷路 × 異なる価値観の迷宮、といえばいいか。

ロワジール裏の畑にはスイカの苗が。彼方には大橋が見える(2023年3月撮影)

公共交通の不備については、やはり困っているお年寄りが多いらしい。公共に頼れないので仕方なく、子どもや親せきあるいは近所の人が、通院や買い物の手伝いをしているとか。助け合いの精神が強い沖縄だから、何とかなっているという危うい状況。

沖縄でも指折りの美しい海に囲まれ、なおかつ橋があってそこそこ便利がいい古宇利島は、移住希望者にも人気の場所だという。最近では、島の不動産を扱う会社もあるようだが、相対取引が多く相場はあってないようなもの。架橋前の100倍、いや1,000倍になった土地もあるという話もあるが、いずれも噂の域を出ない。
かつて古宇利島移住を模索したが、島の移住者社会に溶け込むのが難しそうで、諦めたという話を聞いたこともある。

現在島で暮らす人は、観光と無関係の従来の島人、観光関係の仕事をしている島人、島暮らしを楽しみたい移住者、観光客相手の生業(なりわい)をする移住者、リゾート会社の経営者、リゾート施設の従業員といったところか。

もう少し整理すれば、現在の古宇利島は、島人、移住者、リゾート関係者の3者が、モザイクのように入り組み、交じり合っても溶け合わず共生している社会といえそうだ。

宿なのか住居なのか、それとも両方かよく分からない。
いつの間にか移住してきて、気づくといなくなっていた移住者。
休業中なのかと思っていたら、廃業していたお店。

まるで都会のようになった集落で、今も伝統的な行事が続いているという。
現在、古宇利には約40軒の宿と約40軒の飲食店があるという。

今度は、盛夏のウンジャミ祭の頃に訪ねてみたい。恐らく、今回とは全く違った顔を見せてくれるだろう。

港の真ん前に建つ民宿しらさ(左)。右上には体育館の青い屋根、右には古宇利架橋早期実現のスローガン(1992年10月撮影)

【古宇利島概要】
●所在地
沖縄県 国頭郡今帰仁村
●人口
343人(2022年12月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治41年 沖縄県及島嶼町村制の施行により国頭郡今帰仁村の一部となる
昭和21年 南西諸島の行政分離により米国施政権下に入る
昭和47年 本土復帰

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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