つくろう、島の未来

2024年10月15日 火曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶすべての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。第1回は、小宝島(こだからじま|鹿児島県)へ。小さな島々の暮らしを縁の下で支え、今では忘れ去られつつある艀(※)について。

※はしけ。艀船(はしけぶね)の略

無人化の危機を乗り越えた島

自然の手で整えられた庭を切り取り、そっと海に浮かべたような儚(はかな)げな島。 それが、小宝島の第一印象だった。昭和50年の秋ことで、もう45年前になる。
徒歩でも30分ほどで一周できてしまう小島を、その後も数回訪れたが、最初に抱いたイメージは今もそれほど変わっていない。のどかな眺めの中を歩いていると、ふと楽園という言葉が頭の片隅をよぎる。

心躍るネーミングの小さな宝島は、屋久島と奄美大島の間に連なる日本最後の秘境トカラ列島(十島村)の一つで、最南端の有人島宝島のすぐ北に位置する。かつては、宝島の属島という扱いで島子(しまご)と呼ばれ、独立した島とみなされていない時代もあった。

最初に訪れた頃の人口は、24人。島の共同体を存続させることができる、限界すれすれの人数だった。今風にいえば、究極の限界集落。
現在、全国を見渡せば人口一桁の島が、少なからずある。ある意味限界を超えている人口だ。しかし、たとえ一人でも、住み続けることができなくもない。

当時の小宝島と今の一桁島の決定的な違いは、外界と島を結ぶ連絡船が、直接接岸できるかできないか。
島へ船で渡ろうとする時、乗下船時にタラップを利用することが、今では当たり前になっている。小さな船でも、小さいなりにタラップが用意されている。

しかし、これが当然の装備になったのは、平成になってから。
第一次の離島ブーム真っ盛りだった昭和50年当時は、艀を利用する島がまだ多かった。
本土や大きな島の港は整備が進みつつあったが、島の港は接岸するための岸壁がなかったり、浚渫(※)不足で港の水深が足らず船が入れなかったりと、いくつかの理由で艀に頼らざるを得なかった。多くの島人は、不便だが仕方ないことだとも感じていた。

※しゅんせつ。港湾・河川・運河などの水底をさらって土砂などを取り除く土木工事のこと

ほとんど死語となった艀という単語を、ここで初めて目にする人もいるだろう。
本土からやってきた大型の本船と、未整備な島の港を結ぶ小船を指す。基本的には島の方で用意しておき、本船が沖掛り(港の沖で停泊すること)すると、艀に人や荷物を積んで送り込む。また、本船に乗ってきたお客や荷物を受け取って、島まで運ぶ。島と大型船をつなぐ重要な役割をしていた。

島のすぐ前まで船が来ても、悪天候で艀が出せなければ、乗下船できない。また、どうにか艀を出すことができても、乗下船時に人が海に落ちるなど大きな危険が伴った。島にとって、艀は命綱というべき重要な存在だった。

小宝島湯泊港での艀作業(※)。中央の坂の下に港がある(1987年8月撮影)
※通船作業ともいう。トカラでは、艀がなくなった今も荷物の積み下ろし作業を通船作業と呼ぶ

初めて小宝島を訪れた5年前の昭和45年、同じトカラ列島で全国的に注目された「事件」があった。江戸時代からカツオ漁で栄えていた臥蛇島(がじゃじま)が、無人化したのだ。
最後まで残っていた島人たちが去った7月28日の人口は、4世帯16人だった。現在、このくらいの人口規模の島はたくさんあるし、定期船も通っている。

しかし、当時のトカラ列島は、中心島である中之島以外は艀が欠かせなかった。艀を使って、乗客と自分たちの安全を確保しつつ、荷物の積み下ろしを確実に行う艀作業には、屈強な男が最低4人は必要だった。人口減少により、臥蛇島ではそれができなくなったのが、全島移住の最大の理由だった。

次に無人化するのは、小宝島ではないか。
昭和50年当時、トカラではそんな噂がまことしやかに語られていた。
中学校への進学者が1名いたにもかかわらず、昭和54年3月宝島小中学校小宝島分校は廃校になってしまい、中学生は学校へ通うため宝島への移住を強いられた。

後に小宝島の人に聞いたところによれば、その当時人口は十数人まで減少し、村からしばしば移住の勧告があったという。それでも、島人たちは何とか粘り抜いた。
昭和63年になって、小学校が新たに開校し、平成元年には中学校も開校。そして、平成2年4月小宝島港の改修が完了し、ついに村営定期船が接岸できるようになり、日本で最後まで残っていた艀が消滅した。

艀廃止から17年経った2007年、20年ぶりに小宝島を訪ねると、城之前漁港手前の小高い場所に、小舟が2隻打ち捨てられていた。日本で最後まで島人の生活を支えていた、栄誉ある艀「小宝丸」たち。船底からアダンが侵入して、小舟全体が巨大な植木鉢になろうとしている。

胸ふさがれる悲痛な光景を拙著『吐噶喇列島』(光文社新書)という本の中で「せめて一隻だけでも歴史的記念物として保存できないのだろうか」と書いたからかは不明だが、2年後に訪ねるときれいに塗り直され、その功績を讃える案内板も立てられていた。

トカラ列島の中でも、小宝島と平島は港の条件が悪く、ランプウェイ(※)の使用制限など条件付きで出航することが多い。それでも、永遠に艀から解放されないだろうと、誰もが信じていた小宝島で、人が乗下船できるだけで夢のよう。

※船と岸壁とを橋渡しして、自動車を自走させる船が持つ荷役設備

かつては運航予定表はあっても無きがごとしで、いつ現れるか分からず幽霊船と綽名(あだな)されていた連絡船がやってくれば、真夜中でも明け方でも、最優先で港に駆けつけ艀の準備をするのが日常だった。
初めての小宝島から南に下っていく途中に立ち寄った与論島も、昭和50年当時は艀渡しだった。ただし、観光客が殺到して沸騰していた時代だから、艀も一度に100人くらい乗れそうな巨大なものだったが。

最後に、今でも鮮明に覚えている小宝島の船にまつわるエピソードを一つ。
次の便が来るまで1週間ほど小宝島に滞在し、いよいよ船がやってくるはずの日、島人に確認された。

「次は、宝島へ行くのか?」
「そうです」

そうと答えたところ、ぼく1人だけのために、大きな連絡船を一晩沖掛りさせるという。海の状態が悪く艀が出せないので、翌朝まで待たなくてはならないからだった。
当時そう珍しい話ではなかったが、遊びにきた旅人のために、早く宝島へ帰りたい人たち、船酔いから解放されたい他の乗船客を、一晩揺れる船に留め置くわけにはいかない。

即座に謝絶して小宝島にもう1泊し、翌日宝島から上ってきた連絡船で悪石島へ向かった。そして、たまたま訪れた悪石島に、すっかり嵌(はま)ってしまったのだから、行き当たりばったりの島旅は面白い。

小宝島港に接岸中のフェリーとしま2(2018年5月撮影)

【小宝島 概要】
●所在地
鹿児島県鹿児島郡十島村(としまむら)
●人口
64人(2019年12月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治41年 大島郡十島村(じっとうそん)
昭和21年 米国施政権下(北緯30度で上三島と下七島で分離)
昭和27年 本土復帰により、十島村の上三島が三島村、下七島が十島村(としまむら)として発足
昭和48年 大島郡から鹿児島郡へ変更

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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