つくろう、島の未来

2021年09月19日 日曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第15回は、瀬戸内海に浮かぶ「ウサギの島」として知られる大久野島(おおくのしま|広島県)へ。2000年の初来島以来、4度にわたり島を訪ねている斎藤さんの視点で、島の過去現在を振り返ります。

ウサギの餌をぶら下げたまま毒ガス貯蔵庫跡に見入る若者たち(2015年5月撮影)

観光で賑わう島が伝える戦争の歴史

瀬戸内の小京都、広島県竹原沖に浮かぶ大久野島を知る人は、どんなイメージを抱いているのだろうか。

世界から注目されるウサギの島。
ちょっとオシャレなリゾートの島。
毒ガス工場があった秘められた場所で、戦争中は地図から消されていた島。
明治中期に建造された芸予要塞のおびただしい廃墟(軍事遺産)が眠る島。
そして、コロナ禍による餌不足で、ウサギが半減した島。

どれも大久野島がもつ一面をとらえていて間違いではないが、ぼくが最初に訪れた時に抱いたイメージは、軍(あるいは日本の近代化)によって翻弄しつくされた島。70ヘクタールほどの狭い土地に、人間は全く異なるイメージの絵を描き、何回も描き直すことを繰り返してきた。

大久野島の歴史を、簡単に振り返っておこう。

1900年より、ロシアのバルチック艦隊の瀬戸内海侵入に備え、大久野島に南部、中部、北部の3砲台群を構築。愛媛県来島(くるしま)海峡の小島(おしま)にも同様の砲台が造られ、両者を合わせて芸予要塞と称した。瀬戸内の中央部まで艦隊が侵入すると想定していたわけで、いかにロシアを恐れていたか分かる。1924年、世界的な軍縮傾向の中で芸予要塞は廃止された。

激烈な誘致合戦の結果、1929年大久野島に東京第二陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所が完成。関係者以外、その正体が毒ガス工場であると知る人はおらず、従業員には厳しい緘口令が敷かれた。非人道的な兵器として国際条約で禁じられていた毒ガスだったが、安上がりで効果が高い兵器として日本軍はひそかに量産を開始。

1950年、瀬戸内海国立公園に編入。1963年、島全体が国民休暇村となり、宿泊・レクリエーション施設が整備された。1988年、世界初の「毒ガス資料館」が開設。

近年はウサギ目当ての観光客が目立つようになり、2014年から入込客が急増し、2017年にはピークを迎え36万人を超えた。

大久野島行きの船を待つ行列(2015年5月撮影)

大久野島を初めて訪れたのは、2000年だった。2月ということもあり、人もほとんどおらず、あちらこちらに点在する廃墟は、内部にも自由に出入りできた。時々、野生化したウサギを見かけかわいいと思ったが、ただそれだけ。なんといっても、他では類を見ない毒ガス工場関連廃墟の存在感と背後に潜む知られざる歴史に圧倒された。

翌2001年に訪れた時は、毒ガス工場に勤務していた岩野清人さんの話を聞く機会があり、広島には2種類の被爆者が存在すると教えられた。世界的にも知られた原爆被爆者と、歴史の闇に埋もれた毒ガス被爆者。広島と大久野島は、直線距離で50キロしか離れていないため、原爆と毒ガス両方の被爆者もいるという。

2001年訪問時に撮影。旧日本軍発電所跡の内部(2001年10月撮影)

一緒に島内を散策しながら聞いた話が忘れられない。
「休暇村本館のあたりが工場の中心で、もっとも毒性が強く『死の露』と呼ばれていたルイサイトもつくられていました。1962年になって宿舎を建築するときに、側溝の隙間から染みこんだと思われる残留ガスで事故が起き、負傷者が出ているほどです」

本館のあたりから、海沿いに北へ進むとグランドやテニスコートがある。
「この辺にも工場があって、発煙筒や緑1号(催涙ガス)を、その先では茶1号(窒息性の青酸ガス)もつくっていました。茶1は、例のサリンとほとんど同じものです」

芸予要塞砲台跡にも毒ガスタンクが置かれていた(2008年10月撮影)

毒ガス工場の安全管理は極めて杜撰(ずさん)で、島全体が悪臭で覆われ、毒ガスの被爆事故も日常茶飯事だった。しかし、より多くの毒ガス被爆者を出したのは、戦後処理の時だった。

「毒ガスについて知識のない人間を動員したので、被害が広がった。そのころ竹原周辺には、痰が絡んで息ができないので、喉に穴を開けガーゼで覆っている人がたくさんいました。毒ガスの被害は、肺結核と症状が似通っているので、当時はなかなか分からなかったんです。処理の終わった1949年頃から、救済を求める運動が起こった。そして、実際に救済が始まったのは1954年から。症状の重い人は、それまでに大半が亡くなっていました」
動員された学徒の救済着手に至っては、1970年代になってからだったという。

2008年訪問時。立入禁止になっていた旧日本軍発電所跡(2008年10月撮影)

そんな重苦しい歴史を抱えた島が、ウサギ目当ての客でにぎわっていると聞き、2015年5月の大型連休中に出かけた。多少混んでいるとは覚悟していたが、餌の入った袋をぶら下げた家族連れやグループ客で長蛇の列。乗船するまで、1時間以上待たされた。

歴史に縛られ続ける必要はないが、毒ガスの後遺症に今も苦しむ人がいるのに、どうしても違和感をぬぐえなかった。それでも、島を巡るうちに気持ちは変わっていった。

手づくり火炎放射器で毒ガスを焼き払った痕跡が残るた毒ガス貯蔵庫跡にたたずんでいると、若者3人組が立ち止まった。
「ウサギの島っていうけど、こっちの方が凄いんじゃね」
「毒ガスだってよっ。恐ろしいよな」
「戦争は、嫌だよな」

ウサギ目当てでも、ここが戦争と平和について考えるキッカケになるなら、いいかもしれない。複雑な思いがよぎったのは、小規模の毒ガス貯蔵庫前で、幼子たちが無邪気にウサギと戯れている姿。

毒ガス貯蔵庫跡の前でウサギと戯れる親子連れ(2015年5月撮影)

毒ガス資料館の前に入館券を求める小さな行列ができていたのには、驚いた。狭い展示室は、人でいっぱい。いつも、人はいなかったのに。館長に聞くと、入館者も最近激増しているという。これもウサギ効果に違いない。

見学者はみんな真剣な表情で見入っている。大久野島産の毒ガスが、日本軍によって遺棄された中国大陸で、現在も時々被害者を出していることも、明記されていた。毒ガスは歴史の彼方に消え去ったわけでなく、現在進行中の生々しい存在なのだ。

ウサギに誘われ大久野島へきて、そんな現実を知ってくれたと思えば、毒ガス工場や戦後処理で大量に発生した毒ガス被爆者たちも、多少報われるのではないか。

見学者で賑わう大久野島毒ガス資料館(2015年5月撮影)

2018年頃は、1,000羽近くまで増えていたウサギは、コロナ禍でどうなったのかと思っていたら、今年3月21日の中国新聞にこんな記事が載った。

「ウサギ島」でウサギ半減、広島県大久野島
島のウサギの生態に詳しい森林総合研究所(茨城県つくば市)非常勤研究員の山田文雄さん(68)は「観光客の餌やりが減ったことで、繁殖力が抑制されたのではないか」とみる。

コロナ禍が落ち着いたら、大久野島にはどんな絵が描かれるのか。廃墟とウサギたちの様子を確認しながら、訪ねてみよう。


【大久野島概要】
●所在地
広島県 竹原市
●人口
11人(2021年3月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治22年 町村制施行に伴い、豊田郡忠海町となる
昭和33年 忠海町・竹原町の合併で竹原市となる

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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