つくろう、島の未来

2024年09月15日 日曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。

第47回は、鹿児島県の南に7つの有人島と5つの無人島が連なるトカラ列島の一つ、悪石島へ。今でこそ手軽に入れるようになった島の温泉は、かつては容易に入浴できない秘湯でした。

1975年に斎藤さんが初訪問した際は、藪(やぶ)をこいで山越えし、たどりつくしかなかった天然岩盤浴や海中温泉。やがて温泉地へ至る道が造られ、広場とキャンプ場を備えた公園として整備されるまでの道のりを、折々の写真と共に振り返ります。

湯泊温泉一帯。道も公園も入浴棟もなにもなかった(1987年7月撮影)

温泉列島トカラの秘湯を訪ねて

火山列島であるトカラの島々は、当然温泉列島に違いない。そう思っている人が、多い。そして、その通りである。ただし、手軽に入浴できるようになったのは最近のことなのだ。

初めてトカラを訪ねた1975年当時、温泉が島人に身近な存在だったのは中之島と小宝島だけだった。今では変化に富む温泉の宝庫、秘湯愛好家垂涎(すいぜん)の島として名高い悪石島にも、温泉はなきに等しかった。

島で「医者いらず」と称された温泉は、今は砂蒸し温泉と呼ばれている天然岩盤浴だった。だから、入浴したければスコップと古毛布を持参する必要があった。それも、竹藪(やぶ)の中に続く細い踏み跡を延々とたどり、崖のような急斜面を攀(よ)じ登り、さらに尾根を越え下らなければ行けない場所だった。

至るところから硫気を噴いている大地にスコップでささやかな窪みを作り、そこに古毛布を敷いて横たわる。肩が痛むようであれば、そこをやや深めに掘って温める。そう教えてもらっていた。しかし、山越えに邪魔になるので手ぶらで出かけた。それでも大変な山道で息が上がった。

尾根を越えると一面森の湯泊地区が一望された(1975年11月撮影)

砂蒸し温泉の下の海岸に海中温泉があると聞いて探したが、見つけることはできなかった。湯船などはないので、岩間の湯加減のいい場所を探して浸からなくてはならない。波打ち際に湧く高温の湯と海水が混じり適温になるのだが、その頃合いを見図るのがかなり難しい。

潮が満ち過ぎていれば単なる海水浴になるし、潮が引き過ぎていると熱くて入れない。さらに、波がある程度穏やかでなければならない。湯泊(ゆどまり)の温泉地帯に出かけたものの、最初に訪れた時は難問山積みで、どちらの温泉も楽しむことはできなかった。

湯泊温泉へ続く道(1987年7月撮影)

1987年7月、3回目の悪石島訪問の時、踏み跡すらなかった場所に、湯泊へ続く道がつくられつつあるのを発見した。新道の起点では「昭和六十一年度特定離島活性化対策事業(湯泊線道路整備)」という看板が輝いている。

舗装されつつある湯泊温泉への道。手前までコンクリート舗装が済んでいた(1988年5月撮影)

砂利道だったが湯泊海岸まであっさりと下ることができ、かつて硫気噴く荒れ地だった砂蒸し温泉は、ささやかな小屋掛けがされ、自由に使える古毛布も用意されていた。

公園整備前の砂蒸し温泉(1987年7月撮影)
公園整備前の砂蒸し温泉小屋の内部(1987年7月撮影)

嬉しいことに、新道を下りきった海岸近くで海中温泉を発見。小さな岩を動かして深い窪みを作り、砂蒸し温泉の汗を流すことができた。最初に訪れた時から、12年が経っていた。

やっと入ることができた海中温泉。湯泊温泉公園の手前にある(1987年7月撮影)

翌1988年5月悪石島を訪ねると、湯泊へ下る道は途中までコンクリート舗装が進んでいた。その時は、親しくしていた島人たちと、湯泊温泉公園の上に当たるシャリンバイの森の中の温泉へでかけた。

炭焼き窯の跡にブルーシートを敷いて湯を溜め、浴槽としていたのだ。湯は近くから引いていると聞いたが、湯元は分からす湯量もわずか。それでも、湯を溜めることができる場所はなかったので、画期的な試みだった。島の大地と森に抱かれている温泉は、今思い出してもまた浸りたくなる。

森の中に手づくり温泉浴場ができていた(1988年5月撮影)

『十島村誌・追録版』によれば、1988年から湯泊温泉公園整備事業(1990年周辺事業を残しほぼ完成)が始はじまっているので、その直前だったのだろう。後に、海中温泉の陸側に温泉櫓(やぐら)を設けて掘削し、そこが源泉となった。温泉櫓からは、今も間欠的に湯が噴いている。

右手一帯の森が公園に整備された(1987年7月撮影)

1991年8月に家族揃って悪石島を訪ね、湯泊地区の激変ぶりに驚かされた。

砂蒸し温泉には風通しのいい骨組みと屋根が作られ、その前に広がる森は消えていた。緑に埋め尽くされていた場所は、広場兼キャンプ場となり、さらに温泉入浴棟と東シナ海に沈む夕陽を拝める男女別の露天風呂までできていた。

露天風呂(中央右)の傍らで娘たちの記念撮影(1991年8月撮影)

温泉好きや秘湯マニアに注目されるようになったのは、この頃からだろう。やっと、普通の感覚で温泉入浴ができるようになったのだから。

湯泊温泉入浴棟(1991年8月撮影)

元の地形を大々的に変えて整備された湯泊温泉公園が最も脚光を浴びたのは、1999年7月トカラ七島の人たちが一堂に会した交流会「パラダイスイントカラ in AKUSEKI」の会場となった時だった。

パラダイスイントカラ in AKUSEKIの舞台となった湯泊温泉公園(1999年7月撮影)

各島の名産品や郷土食が並び、新進気鋭の奄美民謡歌手RIKKI(中野律紀)が熱唱し、ついにはボゼ(※)が暗闇を切り裂き登場して大盛り上がり。同じトカラ列島の住人といえども、他の島の人たちはそれぞれ盆行事を行うので、それまでボゼを見た人はほとんどいなかったのだ。

※お盆の最終日にあたる旧暦の7月16日にボゼという来訪神が現れ、悪霊や村人の穢れを払う伝統行事。「悪石島のボゼ」としてユネスコの無形文化遺産に登録されている


【悪石島概要】
●所在地
鹿児島県 十島村
●人口
81人(2023年12月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治41年 町村制の施行により大島郡十島村となる
昭和21年 南西諸島の行政分離により米国施政権下に入る
昭和27年 日本復帰
昭和48年 鹿児島郡十島村となる

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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