つくろう、島の未来

2024年04月27日 土曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。

第43回は、東京の南に火山島が連なる伊豆諸島(いずしょとう|東京都)の三宅島(みやけじま|東京都)へ。

1983年に発生した噴火により干上がった新澪池(しんみょういけ)のかつての姿に思いを馳せ、噴火と再生を繰り返す島の姿を見つめた旅の記憶。1975年頃から2023年秋にかけて撮影された、数々の写真と共にお届けします。

溶岩に覆われてしまった阿古集落。右奥の建物は学校跡(2007年4月撮影)

黒々とした溶岩は緑に占領され

最初にお断りしておきたいのは、三宅島で頻発する噴火や地殻変動を好ましいと思っているわけではありません。ただ、人知ではどうしようもない大自然の営みをどのように受け入れ、付き合っていくか。それを考えるために、人間にとってさえわずかな時間でダイナミックな動きを見せる三宅島の側面を、少しだけ振り返ってみたいと思います。

折しも正月早々、能登半島および北越地方が震災に襲われ、今も多くの人々が大変な思いをされています。亡くなられた方のご冥福とともに、被災された方々の早期の復興を祈ります。(著者より)

最初に三宅島を訪れたのは、1975年頃だった。たまたま知人から三宅島行の往復乗船券を4枚もらい、大学の同級生たちと遊びに行ったのだ。三宅島より友人たちと遊ぶのがメインだったので、風景に関する記憶はほとんど残っていない。

三池浜(みいけはま)の北にある溶岩流でできたサタドー岬や、昭和37年の噴火で一夜にして出現した三七山(さんしちやま)、昭和15年の噴火で溶岩が海を埋めて生じた赤場暁(あかばきょう)など、火山由来の名所は巡った覚えがある。最初は雄大な風景に驚いていたが、すぐに慣れたのか写真は撮っていない。その付近で撮ったと思われるのは、友人たちとの記念写真だけ。

1983年の噴火で大半が溶岩に飲み込まれてしまった阿古(あこ)集落も、やはり撮っていない。風光明媚な土地で、ありふれた集落景観の写真など、ふつうは撮らないだろう。三本嶽(さんぼんだけ・大野原島)を背景に、友人たちと記念撮影しているので、阿古集落へ行ったことは間違いないが、やはり記憶にない。

在りし日の新澪池(1975年頃撮影)

そんな中で鮮明に覚えており、写真も残っているのが、大路池(たいろいけ)と新澪池だ。とりわけ、断崖絶壁と深い緑の森に抱かれ、人を容易に寄せ付けない新澪池のたたずまいに魅せられた。大好きな摩周湖の魅力を、火山島の一点に凝縮させているように感じられ、しばらく見入った。友人たちに促され渋々後にしたが、もうしばらく眺めていたかったほど。

大路池は一番深いところでも10メートル足らず。一方、新澪池の最深部は三十数メートルに及ぶ。水面を見て深さが分かるわけではないが、新澪池は底知れぬ雰囲気を纏(まと)っていた。また、底の方で外海とつながっているため、緩やかな干満があり、さらに七色に変化するともいわれていた。

それから10年足らずで、お気に入りの新澪池が忽然と消え去るとは、想像すらできなかった。揺るぎなき大地と呼んでみても、実際は大いに揺れることはしばしばだし、火を噴くことも珍しくない。と分かっていても、まさか三宅島一番のお気に入りだった神秘的な新澪池がこんな簡単に消えるとは。

新澪池と御蔵島(みくらしま|東京都)(右奥)(1975年頃撮影)

新澪池は1763年の噴火によって生じた火口湖で、わすか220年という湖沼としてはとても短い一生を終えたことになる。地学的な時間軸は、短くても人間の何百倍だと思っていたが、220年で消えることもあるのか。それも、水蒸気爆発で一瞬にして。その時、南側の海岸には新鼻新山(にっぱなしんざん)というスコリア丘が生まれている。

新澪池が消えた後、なかなか跡地を訪ねる機会がなかった。三宅島まで行っても、他の用があり足を延ばせないことが続いた。2007年になって、やっと変わり果てた新澪池と対面する機会を得た。

07年に撮影した新澪池跡。左下の枯れ草色が新澪池があった場所(2007年4月撮影)

さらに、2023年、久しぶりに訪ねてみると、跡地の上の斜面を覆っていた黒々とした溶岩は、16年間でほとんど緑と化していた。いずれ、一帯は緑に占領され、新澪池の名残も単なる緑の窪地となってしまうのだろうか。

新澪池跡。2007年に同じ角度から撮った写真に比べ゙ると周辺の緑が増えている(2023年10月撮影)

阿古集落について、少し補足しておこう。2007年に訪ねた時、阿古集落に家が立ち並んでいた時代の写真が道端に掲示されていて、それを手掛かりに在りし日をしのんだ。こんなに大きな集落が、ほとんど真っ黒な溶岩原になってしまったのか。

当時は、まだ見渡す限りの溶岩原だったが、2014年には溶岩原の上を歩くことができる「火山体験遊歩道」ができていた。また、一面死の世界に見えた溶岩原にも少しずつ植物が進入し、生命を感じさせる空間に変容しつつあった。

阿古集落跡を訪ねると、溶岩原を縫う火山体験遊歩道が゙できていた(2014年1月撮影)

全島民が避難を余儀なくされた2000年の噴火では、雄山(おやま)火山山頂に巨大なカルデラが生まれた。成田から南へ向かう機上から、何回か巨大なカルデラを眺めたことはあったが、1万メートル近い上空からなので今一つ迫力が実感できない。

機会があれば、間近で拝みたいと思っていたところ、昨年10月「雄山火山体験入山775」という防災学習の一環として入山するグループに同行することを、三宅村に許可された。安全管理を十分にしなければいけないので、まだ不定期に催行される程度で、参加の条件もかなり厳しい。

なおかつ、一番眺望が開けるであろうカルデラの縁までは行くこともできなかった。しかし、崖っぷちはいつ崩れても不思議ではない。最近できたばかりの雄大なカルデラをなんとか覗き、活火山の息吹を感じることができただけで満足だった。

雄山火山のカルデラ(2023年10月撮影)

【三宅島概要】
●所在地
東京都三宅村
●人口
2,270人(2023年9月 住民基本台帳人口)
●行政区分
大正12年 島嶼町村制施行により、神着村・伊豆村・伊ヶ谷村・阿古村・坪田村が発足
昭和21年 伊ヶ谷村・伊豆村・神着村が合併し三宅村となる
昭和31年 三宅村・阿古村・坪田村の合併により改めて三宅村が発足


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離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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