つくろう、島の未来

2022年09月24日 土曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第27回は、鹿児島県西之表市に属する馬毛島(まげしま|鹿児島県)へ。戦前、漁業基地であった島は、戦後に本格的な定住が始まり一時人口500人を数えるも、1980年4月に再び無人化。同年3月に現地を訪れた斎藤さんが、当時の写真から島の歩みを振り返ります。

種子島領主・第8代 清時の長子三郎のものらしき供養塔(1980年3月撮影)

漂い続けてきた島のゆくえ

20年以上前に屋久島へよく行っていた頃、地元の歴史に詳しい古老から興味深い話を聞いたことがある。
「島のある場所から屋久杉を流すと馬毛島に流れ着くので、藩政時代はそれを回収、密売して稼いでいた人間がいたようです」
「ある場所」については具体的に説明してくれて、その時は分かったような気分になったが、よそ者にはピンとこない地名だった。

周辺海域が豊かな漁場で、特にトビウオに恵まれていたため、馬毛島に季節居住者はいたが、もちろんそれは承知の上なので、屋久杉の闇取引は無人の季節を狙ったはずだ。

明治の御代になり、西之表の士族が牛を飼ってみたり、政府の緬羊飼育場になったこともあるが、定住する人はいなかった。太平洋戦争中に軍隊が駐屯したものの、本格的な定住がはじまったのは、1951年から1954年にかけて80世帯が入植してから。サトウキビ、サツマイモ、陸稲(※)などを栽培し、養豚も行ったという。

※「おかぼ」や「りくとう」と呼ばれる畑で栽培されるイネ

子ども連れの家族が多かったのだろう。入植間もない1953年4月、榕城(ようじょう)小学校馬毛島分校が、1955年4月には榕城中学校馬毛島分校も開校。1964年4月榕城小中学校馬毛島分校が独立して、馬毛島小中学校と改称する。

昭和35年の国勢調査で383人を数え、一番多いときは500を超えたといわれる人口も、昭和40年代に入るとマゲシカの食害、表土の流出、干ばつや風害などにより過疎化が進み、昭和50年の国調では155人になってしまった。

同年に馬毛島開発株式会社(のちのタストン・エアポート社)がレジャー開発構想を掲げ、1978年には西之表市が石油国家備蓄基地誘致構想を打ち出した。入植者たちが浮足立つ中で、馬毛島開発の用地買収がはじまり、1980年4月に無人島化した。

馬毛島に到着した西之表からの定期船(1980年3月撮影)

今月いっぱいで定期船の運航も中止になるという1980年3月、辛うじて有人島だった馬毛島を訪ねたことがある。無人島になる前に、馬毛島を歩いておきたかったのだ。

印象に残っているのは、飯場のような建物に掲げられた「馬毛島開発株式会社」と「馬毛島簡易郵便局」という2枚の看板。一般住民が消えれば郵便局もなくなり、開発会社だけが残るのか。

簡易郵便局もあった(1980年3月撮影)

風情のある茅葺きの小屋が立ち並ぶ風景も、妙に懐かしかった。地元ではトッピー小屋と呼ばれる、トビウオの漁期だけ種子島から移り住む漁師たちの仮の住まい。トッピーとはトビウオのことで、馬毛島で塩の強い干物に加工し出荷していた。

トッピー小屋と思われる崩れかけた茅葺きの建物(1980年3月撮影)

最近まで子どもたちの喚声が響いていたに違いない学校も、静まり返っていた。定期船で何人か乗り合わせたが、島内散策中にほとんど人に会うことはなかった。景色はすでに無人島じゃないかと思うほど。

馬毛島小中学校(1980年3月撮影)

1968年12月小中学校校歌制定、1972年4月校章制定、1973年3月学校創立20周年記念祝典。1976年12月には中学校トイレと保健師事務所が完成。順調に発展してきたように見えた学校だったが、無人島化に伴い1980年4月馬毛島小中学校は休校する。最終年度の児童数11名、生徒数1名、教職員数12名。さらに、1996年4月に至り、ついに廃校となった。

無人島になった平らで広い島(青ヶ島の約1.4倍)にはその後、受け入れ先の見つからない施設誘致の話が湧いては消え続けた。

水平線の向こうまで見通すことができるという軍事施設OTH(超水平線)レーダー。

日本版スペースシャトルの着陸場。

どこの原発でも溢れ返っている使用済み核燃料の貯蔵施設や最終処分場。

石油備蓄基地ができるという話もあった(1980年3月撮影)

当時を振り返った記事(朝日新聞、2014年8月8日ウェブ版)を抜粋してみよう。使用済み核燃料関連の記事には、他にも右翼の大物や暴力団関係者が登場する。

鹿児島県の馬毛島(まげしま)は種子島の西12キロにある小さな島だ。旧平和相互銀行の伊坂重昭監査役(当時)が関西電力の内藤千百里にこの島の売却を持ちかけたのは1980年代初めだった。

馬毛島のほぼ全島を買収した平相銀の関連会社は当時、レジャー基地建設を目指したが頓挫し、売却を急いでいた。伊坂は86年に摘発された平相銀の巨額不正融資事件で中心人物として逮捕、有罪となった人だ。

2007年になって、ついに本命が現れた。厚木基地や硫黄島で暫定的に行ってきたFDLP(空母艦載機離着陸訓練)施設の代替候補地として、馬毛島が浮上する。地元では、馬毛島の基地化に反対する声も大きく、反対派とされる市長が当選した。

そんな流れの中で、馬毛島小中学校の跡地はどうなったのか。『馬毛島だより6号』(2021年7月12日発行)には、以下のようにある。

平成30年度から馬毛島体験学習を実施しており、事前に清掃や除草作業等、環境整備を行ったうえで、旧馬毛島小中学校跡地にも立ち寄っています。子どもたちには、今も残る学校の歴史を体感してもらっています。

地元の動きとは裏腹に、国は着々と用地買収を進め、さらに今月になり西之表市が「馬毛島小中学校跡地の売却と島内市道の廃止議案議会に提出」し、賛否両論に二分する地元では大きな議論を巻き起こしている。

これまでずっと漂い続けてきた馬毛島は、一体どこへ流れ着くのだろう。願わくば、地元の多くの人たちから歓迎されるような道を歩んで欲しい。


【馬毛島概要】
●所在地
鹿児島県西之表市
●人口
2人(2022年6月 住民基本台帳人口)

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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