つくろう、島の未来

2022年12月02日 金曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第29回は、五島列島の北に浮かぶ野崎島(のざきじま|長崎県)へ。1996年4月、10人ほどが暮らしていた野崎島を訪れた斎藤さんが、かつて島にあった暮らしの営みを写真とともに振り返ります。

野崎島・野崎集落全景(1996年4月撮影)

野崎島で出会った人々、暮らしの営み

赴こうとするたびに、難問が繰り返し降りかかってくる島がある。まるで、お前はここへ来るなとでもいうように。五島列島の北端に浮かぶ野崎島(所属は平戸諸島)が、そんな島だった。

近くの小値賀島(おぢかじま|長崎県)を訪ねたついでに足を延ばしてみようとして、何回か断念したことがあったが、最早その理由すら忘れてしまった。

ついでではなく、本気で野崎島を目指したのは、1994年の秋だった。
10月の第3土曜日、野崎島行きの船を待っていた時のこと、
「ニイさんは野崎島に行くと」
「ええ、公民館に泊めて貰うことになっています」

ぼくは、買い込んだ食料を持ち上げて見せた。話しかけて来た人は、公民館を管理している岩坪区長の奥さんだった。
「何日くらい泊まると」
「今夜一晩だけ」
「明日は船がなかよ。第3日曜日で」

当時は時間に余裕のないサラリーマンだったので、渡島を諦めざる得なかった。だから、2年後の野崎訪島は捲土重来を期していた。

1996年4月の初訪問については後述するが、『在りし日の島影』を連載中の昨年9月、久しぶりに野崎島を歩こうと思い立った。島の現状を確認し、有人時代の島と照らし合わせて報告しようと考えたのだ。

造成中だった野崎ダム(1996年4月撮影)

この四半世紀で島は大きく変わった。実質的には無人島になり、小値賀へ灌漑用水を供給する野崎ダムが完成し、さらに野崎島の集落跡が世界遺産の登録資産となった。なんという激変だろう。

しかし、またもや野崎参りは阻まれた。一帯を台風が直撃して、搭乗予定の長崎便は欠航。豪雨に襲われた野崎島や周辺の島々は惨憺たる有様という情報が入った。またもや、来るなということらしい。そのため、今回は近況報告の写真はなく、辛うじて集落が保たれていた時代の野崎島をふりかえる内容になっている。

旧船森集落の段々畑跡(1996年4月撮影)

1996年4月、野崎島へ初めての訪問を果たすべく船に乗り、しばらくして南北に山々が連なる野崎の南端に差しかかる。急斜面の至る所が階段状になって、山の頂まで達していた。1966年まであった隠れキリシタン集落船森の跡だろう。

赤茶けた山肌の下に、港らしき突堤と疎らな屋根が見えてきた。あれが、野崎集落か。定期船が鋭い汽笛を鳴らしながら、入港する。人影がどこからともなく現れたが、数人だけ。人待ち顔が、区長の奥さんだった。

公民館のカギを渡して、そそくさと立ち去ろうとする。
「どなたか、島の昔について詳しい方を紹介していただけませんか」
「うちのおとうさんがよく知っているけど、今日は神職会議で平戸に行ったとよ」
神嶋神社の岩坪神主は、2泊するぼくと入れ違いに戻るらしい。

さらに2、3の質問をし、今宵のねぐらに向う。
「ニイさん大丈夫?分かったかね」と、近所のオバさんが2人顔をのぞかせた。コンセントは傘付き電球のソケットに潜んでいて、接続すると冷蔵庫が軽い唸り声と共に目を覚ました。

その後、古代祭祀場跡といわれる巨石王位石がある沖ノ神嶋神社まで出かけ、何とかたどりついて無事戻ってきたのだが、長い話になるのでここでは割愛する。自炊の夕食は、磯で採ってきた貝類の塩ゆでと、王位石の側で見つけたキクラゲと持参のモヤシをのせた味噌ラーメンだった。

王位石と沖ノ神嶋神社社殿(1996年4月撮影)

翌朝、港へ行くとオバさんが2人、生簀網を揚げているところだった。
「ニイさん、網ば揚ぐるのを手伝ってくれんと。オバさん達、力なかけん」
知らぬ顔はできない。カメラを置いて加勢する。ロープを思い切り引っ張ると、銀色した光のカケラが一杯詰まった丸い網籠が揚がってきた。桟橋まで引き揚げた網の中で、アジが威勢よく跳ね、3、40匹がこぼれ出た。

こぼれたアジを拾うオバさんたち(1996年4月撮影)

定期船の入港風景を撮っている最中、さっき手伝ったオバさんに呼ばれた。
「これば、食べらすとよか」
20センチばかりのアジが20匹ほどを、公民館の冷蔵庫にしまった。

野首集落の旧野首天主堂(1996年4月撮影)

午前中、旧野首集落の天主堂や建設中のダム、自然学塾村などを見学して港へ戻ってくると、漁網の手入れをしている夫婦がいた。
「何の漁ですか。その網は」
「クロやね。最近は漁が減ったが、サザエが獲れるとよ」

そのうち、台風の脅威の話になっていた。波で防波堤が完全に隠れ、潮で瓦まで駄目になり、家全体が揺れたという。別れ際に、刺身でも壷焼きでもよかと、大きなサザエを3個転がしてくれた。

旧野首集落を占拠するシカたち(1996年4月撮影)
野ざらしになったシカのされこうべ(1996年4月撮影)

午後もまた、シカたちに占領されている旧野首集落周辺を散策し、戻ってから集落の中をゆっくり歩くと、廃屋が目立つ。大半がぼろぼろで、屋根が落ちている家も多い。集落全体から、村を存続しようという意志が窺えなかった。遠からず無人島になるのだろう。

廃墟の風景の中に時々オアシスが現れた。島人が手塩にかけた畑。全体に淡い色彩に覆われた集落にあっては、猛々しいといえるくらいに繁ったジャガイモの葉。太い茎を立ちあげ天空を目指すソラマメ。シカの食害がなければ実り多い土地なのだろう。

区長さん宅で、2泊分2000円の公民館使用料を支払ってから、奥さんに少し話を聞かせてもらった。

現在の区長・岩坪元成さんが24代目の神主なので、数百年は続いている家系ということだ。神嶋神社は周辺の島々でも篤く信仰されていて、9月上旬から中旬にかけ盛大な祭りが行われるらしい。

島の最盛時は、学校の児童生徒だけで200を数えたという。15年前でも50戸はあった。それが、今では10人ばかり。一番若い人が50代半ばで、後は皆60歳以上。この夏に出て行く人もいる。3年後に無人島になっていてもおかしくない。

最後に残りそうなのは、岩坪神主夫妻。島を出るのは仕方がないが、神様をどうしようか迷っている。実は、最近足腰の痛みがひどく王位石の下にある御山まで行かず、家のすぐ後ろにある里宮で済ませているという。

隠れキリシタン集落だった野首や船森の人達は、集団移住せずバラバラに出て行った。岡山県や福岡県の篠栗町に移った人が多く、篠栗には「野崎町」的なものもあるのに、長崎県下に出た人は少ない。

いただいたアジを料理(1996年4月撮影)

2日目の晩餐は、アジの塩焼きと煮付けに刺身、サザエの壷焼きと豪華だった。独りで野崎島の幸を味わい尽くしてから、アジをくれたおばさんの家を訪ねた。名は好子さんと言い、ちょうど玄関の前に網を降ろしているところだった。

「シカ避けの網たい」
目を離すと細い流れ伝いにフェンスの中まで侵入し、荒らし廻るのだという。

すぐにビールと焼酎の瓶が並んだ。
「野崎でも昔はシカは珍しかったと。増えたのは人が減ってからたい」

集落を取り囲むシカよけのフェンス(1996年4月撮影)

シカ談義は、いつか台風の話になった。
「前ん家の屋根が飛んできたと。うちの屋根の上に乗って垂木が折れたすけ、ほげて天井が見えたと。雨も潮もじゃがじゃが漏ってきたと。それは太か台風やった。あれで、島を出らした人も多か」

10年ばかり前に襲った超大型台風が、老いた島人達の永住の意欲まで奪ってしまったらしい。岩坪満さん・好子おばさん夫妻は島への愛着を滲ませながらも、いずれ街で一人前になっている子どもたちのところへ身を寄せることになるだろうと語った。

野首の人々が挙家離島を決意したきっかけはある産褥死だったこと、好子おばさんが大都会の佐世保から嫁いできた当時は野崎も賑やかでそんなに違和感を抱かなかったこと、海や魚や鮑の話、風や潮の話、雲の話。島語りは尽きなかった。

なかなか受け入れてくれなかった野崎島だが、なんとか訪ねることができて本当によかった。好子おばさんと満さんの話に酔いながら、しみじみとそう感じていた。

海岸を埋め尽くしていたイワタイゲキの花(1996年4月撮影)

【野崎島概要】
●所在地
長崎県北松浦郡小値賀町
●人口
1人(2022年9月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治22年 町村制施行に伴い北松浦郡前方村となる
大正15年 笛吹村・柳村との合併により小値賀村となる
昭和15年 町制施行に伴い小値賀町となる

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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