つくろう、島の未来

2024年04月25日 木曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第31回は、長崎県に5つある高島の一つで、100年以上もの間「石炭の島」として発展し日本経済の成長を支えた高島(たかしま|長崎県長崎市)へ。高島炭鉱閉山翌々年の1988年と2004年に島を訪れた斎藤さんが、在りし日の思い出を振り返りながら島を歩きます。

41棟1,182戸の鉄筋高層住宅が林立していた緑ヶ丘・山手地区(1988年5月撮影)

モノクロだった風景にどんどん色が差してくる

「残しておけば……、よかった。高島でも」
高島を案内してくれていたQさんが、思い返すようにしみじみと呟いた。高島町が長崎市の一部となる前の年、2004年11月秋晴れの日のことだった。

Qさんの前には、「追懐」と題された案内板が黙然とたたずみ、その向こうには人々が去り建物も完全に撤去された緑ヶ丘地区と山手地区が広がっていた。案内板には、鉄筋コンクリート4階建てアパートが林立していた当時の写真が、プリントされている。写真を見ても、当時を知らない人には想像しがたい光景に違いない。状況が簡潔に記されているので、案内板の文章を引用しよう。

高島は100年以上もの間「石炭の島」として発展し、日本経済の成長を支えてきました。その根底には、多くの炭鉱従事者やその家族の支えがあったことは言うまでもありません。この地区一帯には、41棟1,182戸の鉄筋高層の炭鉱住宅が林立し、多くの方々が生活していました。しかし、1986年(昭和61年)11月27日、高島炭鉱の閉山により、人口は激減し、この一帯は無人地区となりました。その後、環境整備を図るために、平成元年度からこの地区一帯の炭鉱住宅の解体を進め、平成8年度末で全て終了しました。なお、解体された炭鉱住宅跡地には、当時の住宅が解るように住宅名を記した標柱を建てています。
2000.3 製作 高島町

案内板の説明を読んで写真を見るうち、1988年のゴールデンウィークにここで目撃した、炭鉱住宅の群れを思い出していた。閉山から1年半ほど過ぎた時期で、建ち並ぶ高層住宅群は静まり返り、曇天のせいか無人化したアパートたちは、案内板の写真より沈鬱な表情を見せていた。

「この風景が、残っていたら……」
未練がましく愚痴るQさんの頭には、先ほどから話題にしていた同じ高島町に属する軍艦島(端島|はしま)と坂本道徳さんのことがあったに違いない。

仲山の職員社宅と思われる建物群(1988年5月撮影)

前年の2003年3月、坂本さんは「軍艦島を世界遺産にする会」を立ち上げ、同年8月にはNPO法人として登録。2004年3月、日経新聞で報道されて火がついた。マスコミの取材が殺到し、軍艦島クルーズのガイド養成講座まで開かれるほど。軍艦島は知る人ぞ知る島だから、急に注目を集めたのは意外だったが、無人島化してちょうど30年。改めてその存在を問い直される時期が、来ていたのだろう。

当時は、まだ軍艦島に上陸することはできなかった。それでも、長崎や野母崎などから軍艦島を周遊するクルーズが催行されるようになり、2003年の夏以降半年で1万人以上が参加したのではないか、坂本さんはそう推測していた。Qさんが、言った。

「初めは坂本さんたちのやっていることが、ピンとこなかった。しかし、多くの人たちが軍艦島クルーズに参加しているのをみて、これを放っておく手はないと思うようになりました」

しかし、軍艦島のような圧倒的な建物群は、すでに高島から消えていた。だから「残しておけば」という言葉を、思わず漏らしたのだろう。

「それでも、高島には端島(=軍艦島)にないものがある。端島によく似た環境に、実際に今も人間が暮らしているということです。端島に上陸することはできない(現在は可能)。上陸できても生活している人はいない。高島を歩いてもらうことによって、人間が暮らしていた時代の端島を想像してもらうことができる。廃墟の端島を補完するのが高島だと思いつつ、現在は無料のボランティアガイドをしています」

漫然と歩いていると何もないように感じられる高島だが、Qさんの解説が加わるとモノクロだった風景にどんどんと色が差してきた。

北渓井坑跡(2004年11月撮影)

Qさんは、本邦最初の洋式竪坑である北渓井坑跡(ほっけいせいこうあと|後に世界遺産の構成資産に登録)や発掘調査中のグラバー別邸跡も案内してくれたが、想像を逞しくさせられたのはかつての繁華街。

「あそこは魚屋、そこは電器屋、向こうは床屋で、え~っとその隣は……」
Qさんは、頭の中に秘めた地図を確かめるように、指差しながら教えてくれる。パチンコ屋、歯医者、時計屋、古本屋、なんでも揃っていた。軍艦島クルーズだけでは決して目にすることのない、そしてQさんが一緒でなければ見えてこなかった古きよき昭和の幻影。

手前右手の斜面に仲山の職員社宅があったのではないか(2022年9月撮影)

商売を継いでいたQさんは諸般の事情で島を去り、残念ながら彼の店もまた閉ざされたと、風の噂で聞いたのは何年後だったか。それから20年近く時が流れた2022年9月、すっかりご無沙汰していた高島を訪れた。いつの間にか、軍艦島ばかりでなく高島の北渓井坑跡まで、世界遺産になっていた。

Qさんに案内してもらったあの穴ボコがと思いながら北渓井坑跡へ行くと、坑口はコンクリートで塞がれ、妙にスッキリとして表情に乏しい広場になっていた。構成資産の保全を第一としているのだから仕方ないが、闇を湛えた穴ボコが口を開けていた方が、往時を想像しやすかったし、存在感も大きかった。貴重なコンニャクレンガが露出していたグラバー別邸跡もきれいに埋め戻され、痕跡はほとんど分からない。

左:北渓井坑跡(2022年9月撮影)/右:南風泊港(2022年9月撮影)

北渓井坑跡やグラバー別邸跡に近い南風泊(はえどまり)港は、コンクリートでがっちり整備され、海岸沿いにバイパスまでできていた。沖に浮かんでいた飛島は、防波堤で高島と結ばれ、バリアフリーの釣り公園まで出現している。

高層炭鉱住宅山手20号跡(2022年9月撮影)

寝酒を買おうとやっと探し当てた、高島唯一の酒屋には看板もなく、店の入口はカラカラと音をたてる引き戸。昭和が結晶した店構えには、シビレタ。

左:光町、二子地区、西浜のボタ山は消えていた/右:高島に唯一残っている酒屋(2022年9月撮影)

「昔は、酒屋だけで10軒以上あったんですが、今やうちだけになってしまいました」
女将が、質問にだけ淡々と答えてくれた。

高島に1泊した翌早朝、追懐の案内板があった場所を訪ねた。旧緑ヶ丘・山手地区には、太古からそうだったように緑の丘が広がっていた。

緑ヶ丘・山手方面を望むと文字通りの緑ヶ丘になっていた(2022年9月撮影)


【高島概要】
●所在地
長崎県 長崎市
●人口
306人(2022年9月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治22年 町村制施行に伴い西臼杵郡高島村となる
昭和23年 町制施行に伴い西臼杵郡高島町となる
昭和30年 高浜村端島を合併
平成17年 合併により長崎市となる

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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