つくろう、島の未来

2024年06月16日 日曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。

第42回は、周防大島諸島(すおうおおしましょとう|山口県)の主島・屋代島(やしろじま|山口県)の北に浮かぶ、前島(まえじま|山口県)へ。

20年前の印象的な出会いを振り返りながら、4世帯6人が暮らす島の行く末に思いを馳せる旅となりました。

※引用部分は全て斎藤潤さんが日本離島センター発行 季刊『しま196号』2003年11月号に寄稿したものです

冬の磯で遊んでいた大下豊水さんと子どもたち(2003年2月撮影)

20年前に出会った面影を追いかけて

ゴールデンウィークの直前、20年ぶりに前島を訪ねた。全国に人が住む前島は6つあるが、今回目指したのは周防大島の北にポツンと浮かぶ前島。人口が一桁になってしまったと聞き、無人化する前に行っておきたいと考えたのだ。

20年前に前島を歩いた時、季刊『しま』(日本離島センター)に以下のような印象を記している。

住民は宝暦元年(1751)ですでに26戸144人、天保5年(1834)には45戸243人を数え、江戸時代から賑わっていたことが窺える。その島が、無人島になろうとしている。まだ、元気で暮らしている島人が20人もいるのに不穏当な言い方かもしれないが、10年後住民の平均年齢は軽く80歳を越える。恐らくある人数を割ったところで、集落としての機能を維持することが困難になり一挙に無人化するだろう。

(日本離島センター発行 季刊『しま196号』2003年11月号64P~71Pより引用 )

しかし、20年過ぎた今も、前島はなんとか無人化を免(まぬが)れていた。
周防大島久賀港から、定期便が1日3便通う。他に客はいないだろうと思っていたが、船室に4人ばかり。

舳先(へさき)には、ライフジャケットを着けた人影が2つ陣取っている。舳先の客は、この海域によく現れるスナメリ目当ての人たち。前島航路はスナメリ遭遇率が高いと、最近注目を浴びているらしい。

イリコに加工するイワシを大量に食べるスナメリは漁師の天敵だが、島から漁師が消え自由に泳げるようになったのだろう。全国的なイルカ人気にあやかって、同類のスナメリ人気も高まっている。定期船として運航する時間と重ならなければ、この船をスナメリ見物船として貸切ることもできるという。

客観的に実人口を把握しているだろうと思い、乗船してすぐ船員に前島に何人住んでいるか確認した。

「5人です」

20分ほどの航海で、前島に到着。スナメリは現れなかった。舳先の2人は、スナメリとの遭遇を期待しすぐに折り返していった。

校庭が草に覆われた久賀小学校前島分校の校庭(2023年4月撮影)

前島で降り立ったのは、島人らしい女性2人と、郵便配達夫と白髪の男性1人。後で聞いたところによると、男性は防府(ほうふ)市から島巡りを目的にやってきたという。

かわいらしい待合所ができたくらいで、港から一望する西集落はあまり変わったように見えない。散策すると、時々人の気配を感じさせる建物がある。新緑の季節で青空も広がっていたからか、無人島化寸前という差し迫った気配は感じられなかった。

集落の坂道をたどり東集落へ越える尾根筋まで登ると、草一面の校庭と久賀小学校前島分校の旧校舎が現れた。1979年から休校していたが、1997年4月に再開され、4年後に閉校してしまった、小さな島の分校。

閉校になって間もない久賀小学校前島分校(2003年2月撮影)

分校から東海岸のほうへ少し下った畑で、初老の男性が農作業をしていた。遠慮しながら話しかけたところ、話好きで島の昔話や身の上話をしてくれた。

現在の実人口は、4世帯6人。一番若い人は60代半ばで、大阪から戻ってきてお母さんと暮らしている女性。

ご本人は75歳で、中学校卒業後大阪で過ごし、最近戻ってきた。大阪にいる時も、島が好きで年に3、4回戻っていた。同級生は7人で、自分の代から久賀の中学校へ船で通学するようになった。また、酒もたばこも大好きで、その掛りが大きいらしい。明日医者に行くので、今日は自制して飲んでいないと笑った。

大下豊水さんの消息を聞くと、島外の牧場から島へ戻り漁師をしていたが、60歳くらいで亡くなったという。大下さんの面影を追いかけて、黄幡(おうはん)神社に詣でた。20年前の2月、大下さんと出会った場所だ。

黄幡神社の御神体である磐座は20年前と変わらず鎮座していた(2023年4月撮影)

参道を下ってゆくと、高さ10mはあろうという巨大な花崗岩が鎮座していた。明らかに巨石信仰の名残だろう。そのご神体の前で、落ち葉を掃き集めている親子がいた。さっき海岸で磯遊びしていたお父さんと少年だった。話しかけると、親子は前島分校最後の小学生とお父さんだという。島へ戻ったものの仕事がなく、また出て行ったのかと思っていたのだが、違っていた。

「仕事は、ここにも充分あったんです」

父親は、熱く語り出した。時々、諦めとも悔しさともつかない表情が浮かべながら。

「牛を飼っちょったんです。前島は、小さいけれど土地もあるし水も豊富にある。水田だった農地が、残っちょる。島のお年寄りは、みんな使こうてかまわんよといってくれよった。農地を牛が通れる道で結んで、放牧できるようしたかった」

だが、国立公園地域だからと待ったがかかった。現状変更に伴う手続きが何十と山のようにあり、乗り越えられなかった。町も県も協力的だったが、国では相手が悪かった。

夢の実現に向け、中学校を出てすぐ農業大学校に通って勉強したし、当座の現金収入を確保するため、漁船を買って漁もした。すべてが、軌道に乗りかけていた。

1人の男とその家族が、過疎と高齢化の大波に真っ向から挑戦し、善戦しながらも伏兵の国立公園に足元を攫われ、島を去らざるを得なかったとは。

もっと詳しい話を聞きたかったが、時間がない。大下豊水さんという名前と、現在は周東町(しゅうとうちょう)にある『高森肉牛ファーム』という牧場で働いている、と聞いて島を後にした。

(日本離島センター発行 季刊『しま196号』2003年11月号64P~71Pより引用 )
前島の牧場の名残(2003年9月撮影)

20年前の9月、再び前島へ渡った。それに先立ち、大下さんの働く牧場を訪ね、彼の半生を聞いた。ここでは、極一部だけ紹介しよう。

生まれ島で頑張る豊水さんは、正月やお盆に戻ってくる後輩たちに、良い刺激を与えた。そして、仕事があれば自分も帰ってきたいという青年が、何人も現れた。

「やがて、法人化して行くのが目的じゃったからね」

牛が増えるにつれ、放牧・多頭化に手がかかりそうになった。そこに、国立公園の現状変更に関する制約が立ち塞がる。

「ユンボを買うて、また夢が近づいた。見たら分かるけれど、なんかどえらいことしちょるの、という装置を作って。島全体がこうなったら素晴らしいもんじゃがのちゅう夢を描いていたわけ。じゃが、そうはいかんかった。造成やっちゃいけんいわれると、細い道のままではトラクターは入れんわけや。多頭化っちゅうのは、全くできんわけ」

陸上の重機以外に、牛や飼料の運搬船、漁船も二隻、それに伝馬船(てんません)が二つあった。牧場と合わせると、大変な投資額だ。

「自分たち家族だけなら、食べられたですよ。でも、それだけじゃ、意味がない。自分が生まれ育った島を、また元のように活気のある島にしたかった。それには、若い仲間が必要やった。一家族だけでは、やっていけんわけで。夢やったのに……」

なぜ、前島牧場化計画は国立公園と激突してしまったのか。

「投書があったんやね。こんな動きがあるって」

豊水さんは、自分がやっていることが法に触れるという意識は、まったくなかった。島人も歓迎していた。しかし、彼の動きを快く思わなかった島人が、いたらしい。誰がどういう意図で投書したかも、見当がついているという。

「しかし、法律は法律じゃ。なんとかせにゃいけんと考えたが、お上相手ではどうにもならんかったわけや。夢やったのに……」

(日本離島センター発行 季刊『しま196号』2003年11月号64P~71Pより引用 )
大下豊水さん。高森肉牛ファームにて(2003年9月撮影)
畜舎は草に埋もれつつあった(2003年9月撮影)
放棄されたまま朽ちつつあった重機(2003年9月撮影)

その後、豊水さんに会う機会はなかった。20年前に目の当たりにした、牧場の廃墟や道端に打ち捨てられた重機類はどうなっているのか。記憶を手繰りそれらしい場所を探したが、ついに見つけることはできなかった。

消えかけた道の手前に、鉄条網が張られたゲートらしきものがあったので、そこが畜舎への入口だったのかもしれない。豊水さんの夢の跡は、跡形さえもなくなっていた。

畜舎や重機はこの周辺だったと思うのだが見つからなかった(2023年4月撮影)

施設に入ったり亡くなる人もいる一方、戻ってくる出身者もいて、まだ数人が暮らしている。近くの海では、スナメリが群れを作って暮らしている。もしかしたら、スナメリや海や釣りの好きな人が、ゲストハウスでも作ってくれるかもしれない。

そんな都合のよい妄想を抱きながら、帰りの定期船に乗った。しばらくすると、操舵室から大声が聞こえた。

「スナメリ!」

前島のほうを振り返ると、2頭のスナメリが波飛沫(しぶき)を上げ追いかけてきた。

帰路の定期船上より前島を望む。一瞬スナメリが見えた(2023年4月撮影)

【前島概要】
●所在地
山口県大島郡周防大島町
●人口
7人(2023年9月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治22年 町村制施行により、屋代村となる
昭和27年 小松町・屋代村が合併し大島町となる
昭和30年 蒲野村・大島町・沖浦村の合併により改めて大島町が発足
平成16年 大島郡の久賀町、大島町、東和町、橘町の4町が合併し、周防大島町となる


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離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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