山口県周防大島出身の民俗学者 宮本常一氏の著書に導かれて、2013年2月より瀬戸内海の島、屋代島で周防大島町地域おこし協力隊として活動を始めた、島記者 三浦の島歩きコラム。とうとう最終回!
#10 盆に沈む島・沖家室島
[宮本常一撮影(昭和40年8月) / 周防大島文化交流センター所蔵]
周防大島にはかつて7万人が暮らしたと言われていますが、明治以降転出が続き2013年10月1日現在の人口は18,616人になっています。しかし、転出者が多くはあるものの、2011年度は転出者以上の転入者を迎え、近年稀に見る(たぶん初めてではないかと)社会増となりました。これは日本全国の過疎地域におけるひとつの事件(!)ではないでしょうか。
実際、周防大島に暮らしはじめて、定住促進協議会の仕事に関わっていると、周防大島への移住を希望している人や周防大島で住まいを探している人と多く出会います。しかしながら、この家探しがかなり困難なのです。周防大島に空き家はたくさんあるけれど、他人に貸せる家は少ない。大体は「盆と正月に息子が帰って来るけぇ」と言って断られます。体よく断る言い訳だと思っていましたが、昨夏お盆を経験してみたら「本当だ!」ってわかりました。
お昼のスーパーのレジに列が出来る。信号待ちで車が並ぶ。近所に路上駐車が増える。山口ナンバーだけでなく、和泉、福岡、福山、土浦、横浜、岐阜、姫路、大阪など他府県ナンバーの車が目立つ。本当にみんなお盆になると帰って来るんだなと驚かされました。体感的には平時の3倍近い人がいたような気がします。そんな周防大島諸島の中にあって、盆の人口が10倍にもなる島があります。「盆に沈む島」と呼ばれる沖家室島(おきかむろじま)です。
周防大島周辺にある5つの有人離島のひとつでしたが、1983年、沖家室大橋で周防大島本島と結ばれました。30年以上も前、高度経済成長期には「滅びゆく島」としてテレビで扱われたこともあったそうですが、佐野眞一氏に「大往生の島」として紹介されて以降は、その名の通り「長寿の島」「生涯現役の島」として一躍脚光を集めます。島のお年寄りはみなさんお元気で、老人会は常に定員オーバー、80歳を過ぎないと入れてもらえないくらいだそうです。
そんな沖家室島が「盆に沈む島」と呼ばれるようになったのは、すでに明治時代のこと。出稼ぎ漁が盛んで、九州や朝鮮半島、台湾へ漁に出たまま帰らず、住所は沖家室にあってもお盆以外は住んでいないという状況だったようです。
僕自身は生まれも育ちも関東圏の新興住宅地だったので、お盆に帰って来る人というのをあまり見たことがありません。両親と一緒に帰省する長野県でも、こんなに人の多いお盆を経験したことがありませんでした。
お盆に沖家室島に帰って何をするのか?島人にたずねたところ、当たり前ですが墓参りに盆踊り、その場が同窓会になるそうです。
「昔は三日三晩休み休み踊ったんだけど、ある年から警察が来てね。2時以降は踊っちゃいけんとか、12時以降は踊っちゃいけんとか。今じゃ二晩しか踊れんのだから、寂しいよね。踊りに帰って来てるようなもんだから」と話すのは、とある帰省客のおっちゃんfrom大阪。
「休み休みというのがいけん。休むからまた元気になるでしょう。だから3日も続くんです」と話すのは、沖家室唯一のお寺、伯清寺の住職さん。
皮肉っぽくはあるけれど、ちょっとうれしそうな逸話は、沖家室自慢、周防大島自慢のひとつだと思います。
(沖家室のサウンドシステム)
沖家室の盆踊りで一番人気があるのが、大阪に出た人が持ち帰ったといわれている音頭です。「河内音頭」説と「大阪音頭」説とあるのですが、いずれにしても少しずつ変化して伝えられたらしく、さらに沖家室独自のアレンジを施されたオリジナルの踊りになっています。
使われる楽曲も河内音頭とも大阪音頭ともまったく別の歌謡曲に差し替えられ、アップテンポな踊りはまるでフォークダンスのようでもあり、見ているだけでとても楽しい。来年は、あの輪に入ります。参加せずとも見るだけの価値ある盆踊りですので、町内はもちろん、町外からも是非見に来て欲しいです。
(泊清寺の精霊流し)
さて、10本完結ということではじまりました周防大島コラムは今回で終了です。これまでお付き合いいただき、ありがとうございました。昨年2月にスタートした周防大島での暮らしも冬・春・夏・秋、そしてまた冬、とめぐり来る季節を経験しました。早いものですね。盆踊りに秋祭り、そして年が明け、周防大島の暮れと正月を経験しました。
まだまだ伝えたいことはたくさんありますが、これからも僕の島生活は続いていくので、また機会がありましたらお目にかかりましょう。その節はよろしくお願いします。
〈沖家室島データ〉
面積:0.95k㎡/外周:5.0km/人口:151人(97世帯)/高齢者比率:59.6%
※平成25年4月1日現在