つくろう、島の未来

2024年10月03日 木曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第36回は、西表島(いりおもてじま|沖縄県)の北側に位置する鳩間島(はとまじま|沖縄県)へ。広々としたサンゴ礁に囲まれた島へ人や荷物を運んでいた艀(はしけ)、船や港の変遷など、移り変わる島の玄関口の姿に想いを巡らせます。

去り行く定期船を見送る。左海上には小さな艀(1976年10月撮影)

競い合う2隻の高速船、楽園の上を滑る艀

鳩間島の住人すべて、数十人が乗ってもビクともしない立派な浮桟橋にたたずみ、上原行きの船を待っていた。美しく澄み切った海を囲い込むように左右から伸びた長大な防波堤が、鳩間港を形づくっている。10年ほど前に、整備が完了したという。

防波堤の上にかすかに見える外海に、船影が現れた。それも、2隻。競うように、こちらへ向かってくる。まるで夢のような光景に目を奪われながら、かつて鳩間大好きの友人と交わした会話を思い出していた。

「オレが行きはじめた頃、鳩間行きの定期船はなかったよ!」
じゃあ、どうやって渡ったんだと聞いたかどうか忘れたが、彼は定期船はなかったと断言する。だが、あったかなかったの議論にはならず、話題はどんどん他へ流れていった。

高速船が2隻、競うようにやってきた(2021年10月撮影)

鳩間島の動向は、いつもなんとなく気になっていた。もし、定期航路がなくなれば大騒ぎになり、必ず聞こえてきたに違いない。その後も、「定期船はなかった」という一言が、心の奥でくすぶり続けていた。

『竹富町史第六巻・鳩間島』(2015年刊行)が出た時、早速交通関係のページを開いてみた。一部を抜粋してみよう。

1965年、第三住吉丸、70.61トン、月5回運航
1973年、第三住吉丸(二代目)、140.06トン、月16回運航

二代目の第三住吉丸は、初めて鳩間島や西表島へ渡った時にお世話になった船で、懐かしさがこみあげてくる。

白浜港を出港する第三住吉丸(2代目)(1974年10月撮影)

その後、1984~1991年は西表観光海運が運航、1992~1996年は八重山観光フェリーが運航、2007~2011年(多分、原稿が執筆された時点)は八重山観光フェリーと安永観光、石垣ドリーム観光が運航とあり、1997~2006年の10年間は空白となっている。友人が通い始めた時と、空白時期が重なる。

第二鹿島丸が入港してきた。かつて多良間航路に就航していた普天間丸だとか(1985年2月撮影)

2003年版『沖縄・離島情報』(発行 林檎プロモーション)の航路案内ページを見たところ、高速船は運航されていなかった。ただし、貨客船は日曜以外の週6日運航している。要するに、他の離島のように高速船は行かなくなり、貨客船のみが運航する状況だったということらしい。それを、「定期船はなかった」と表現したのだろう。

十数年前まで、貨客船が1日1便(それも日曜は休航)しか通わなくなっていた鳩間島へ、2隻の高速船が全力で駆け込んでくる。

1隻は、2018年に就航した高速双胴船「あやぱに」。噂に聞いていたが、デカイ。旅客定員217だというから、全鳩間島住人の4倍の人を乗せることができる大きさ。この天候なら、広々としたデッキ席を使えそうだ。

あやぱにのデッキ席から豪華浮桟橋で見送る人たちに手をふる(2021年10月撮影)

全国各地で離島航路の高速船化が進む。それは悪いことではないが、甲板でのんびり風に吹かれ、太陽を浴びながら、ゆっくりと流れていく風景を楽しむことは、禁じられてしまった。航行中は、船室に封じ込められるからだ。

あやぱにに乗船し目の前の上原で下船するまでの十数分、かつて第三住吉丸で鳩間島と往来した、古き良き時代の想いに浸っていた。

あの頃は、上原港は影も形もなく、西表西部の石垣寄りの玄関は船浦港だった。それ以外は、西端の白浜まで行かねばならなかった。上原の民宿のトラックで白浜まで行き、そこから鳩間に渡った。

前出の『竹富町史第六巻・鳩間島』には、こう記されている。

1960年代初頭の鳩間島には突堤ができていたようであるが、船舶が接岸できるような整備はなされていなかった。

第三住吉丸も、鳩間島最大の観光ポイントである美しく広々としたサンゴ礁に阻まれ、現在の鳩間港に入ることは不可能だった。当時としては当たり前だが、大きな船は水深のある沖合に投錨(とうびょう)して、人や物は艀で運んだ。

初めての鳩間島上陸も、もちろん艀。手を伸ばせば、鳩間ブルーの海をすくいとることができそうだった。天気に恵まれれば、楽園の上を滑っているようでもあった。

頼りなげに突き出した小さなコンクリートの桟橋に、上陸。先端に立って見渡した風景の果てしなかったこと。どこまでも澄みわたったサンゴ礁の海。その沖に、毅然とした真っ青な外海があり、彼方には緑深い西表島が240度のびのびと横たわっていた。

昨今鳩間島を訪れる人にも見せてあげたいが、ないものねだり。現在の島の暮らしを維持するには、高速船は欠かせぬものになっている。

それでも、あえて自問してみる。
得たものが大きかったのか、失われたものの方が多かったのか。


【鳩間島概要】
●所在地
沖縄県八重山郡竹富町
●人口
55人(2023年3月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治41年 町村制施行に伴い八重山郡八重山村となる
大正03年 八重山村が4村(石垣・大浜・竹富・与那国)に分村され、竹富村として分立
昭和21年 南西諸島の行政分離により米国施政権下に入る
昭和23年 南部琉球(米軍)郡政府の許可により竹富村から竹富町に昇格
昭和47年 日本復帰

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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