島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第45回は、広島県の呉市から愛媛県の岡村島まで、島々を飛石のように橋で結ぶ「とびしま海道」の一つ、豊島へ。
船を家代わりに、生涯を海上で過ごしていた人々の拠点の一つだった豊島には、長期出漁者の子どものために学寮が開設され、時代共に担う役割を変化させながら存続してきました。今回は、その豊浜学寮を訪ね、迷路のような島の路地を歩く旅となりました。
船上で一生を終えた「家船」の人々ゆかりの島
ある島へ「行ったことがある」という定義は、意外に難しい。未踏の有人島が多かった頃は、とりあえず上陸すればよしとしていた。それでも、我ながらちょっとズルかなと思ったのが、沖縄の大宜味村(おおぎみそん)にある宮城島だ。かつて、毎月のように沖縄に通っていた頃、国頭(くにがみ)方面から那覇へ帰る途中、宮城島で友人のクルマを数分停めてもらい、国道周辺をうろつき写真も撮った。
「何をしていたんだい」と聞かれ、「通過したことしかない島だったので、ちょっと」というと、それで1島踏破したことになるのかと呆れられた。
塩屋湾に浮かぶ島で、北側には塩屋大橋、南側には宮城橋があり、南北で沖縄本島と結ばれている。島の中を国道58号線が横切り、普通に走っていると島と気づかずに通過してしまう。橋が架かるまでは、交通の難所だったが、今は誰も意識せず通り過ぎる島。
それほどではないが、かつて家船(えぶね)の人々の根拠地の一つだったとびしま海道の豊島も、印象が希薄なままだった。斎島へ渡るため、何回も上陸しているし、橋が全通してからもバスで下車したことがある。しかし、豊島をゆっくりと歩いたことはなく、物足りなさが残っていた。
滞在したのは、20055年1月に豊浜学寮を取材した時のみ。その際も、周辺を多少し歩いただけで、豊島の集落を味わうには至らなかった。
ところで、家船について説明しておこう。
簡単に言えば、生涯を海上で過ごしていた人々の家代わりの船のことだ。家船の住人たちは船の上で生まれ育ち、漁をして暮らしを立て、船上で一生を終えた。生活形態から漂海民と呼ばれもしたが、果てしなく漂うわけではなく、豊島や因島の箱崎、尾道の吉和(よしわ)、三原の幸崎能地(さいざきのうじ)など、いくつか根拠地があり、盆や正月には戻ってきた。
世の中が変化し教育制度が整うに従い、困ったことが起きた。家船の子どもたちは、教育を受ける機会がない。豊浜町では、長期欠席を見かねた若い女性教師が、最初は個人的に子どもを預かり通学させていたが、それでは限りがある。
地域の問題と認識されるようになり、昭和30年に町立の児童養護施設豊浜学寮(以下、学寮)が設立された。長期出漁者の子どものために設けられた学寮は、尾道の尾道学寮と因島の湊学寮に次いで3番目(これで全て)だった。そして、現在も残るのは豊浜学寮だけで、残りの2つは前世紀に姿を消している。
当初は定員40名だったが、入所児童が増えた同32年に増築し、定員は倍の80となった。さらに、昭和35年に定員を100に変更。昭和52年、現在の寮を新築した。
2005年当時、すでに長期出漁者の子どもは1人だけで、残りの38人は他の施設と同じように、ネグレクトなどで家庭に居場所を失った子どもたちだった。しかし、直接話を聞かせてもらった子どもたちも、インタビューの様子をのぞきにくる子どもたちも、みな表情が明るかった。施設長の二川英二さんも、こう打ち明けてくれた。
「ここへ研修にくる学生たちは、養護施設ということで身構えるというか、緊張してやってくる。でも、ここの雰囲気に気抜けするようです」
取材時は、呉市との合併(2005年3月20日)直前で、一般財源から持ち出しとなっていた豊浜学寮は、社会福祉法人救世軍社会事業団に移管(2004年10月)された直後だった。
豊浜町の職員だった二川さんは、そのまま役場に残っていれば島では高給取りの呉市職員になれたにもかかわらず、「誰か事情に知った職員をつけて欲しい」という救世軍の要望に応え、大きな葛藤を抱えながらも転職の道を選んだ。
「前途多難だと思いますが、島の特性を活かした施設にしたい、前向きに考えていくつもりです。たとえば、みんなでシーカヤックに取り組むとか……」
豊浜学寮は、その後どうなっているのだろうか。時々、路線バスで豊浜学寮の近くを通過するたびに、案じながらも再訪できずにいた。
今年の1月、近くまで行く用ができたので、思い切って再訪することにした。ほぼ20年経ってしまったが、在職しているだろうかと電話したところ、なんと二川さんが出てきて、懐かしそうに対応してくれた。希望した日は都合が悪いがその翌日ならと、アポをとることができた。
バスから降りて数分歩き、海辺にある学寮の前に立つと、20年前とほどんど変わっていないように感じられた。受付で来意を告げると、10人ほどのスタッフが並び笑顔で迎えてくれた。ちょっと話を聞きに立ち寄っただけなのに、なんという歓待。面を食らったが、嬉しいお出迎えだった。変わらず明るいままの施設なんだ、と確信する。
「やはり、職員不足で困っているんでしょうか」
「なんでですかね、よくそう聞かれますが、特に困っていませんよ」
研修に来た学生たちが、研修中に卒業したらここで働きたいと申し出て、そのまま決まることが多いという。
「来年度も2人、新人が来る予定です」
そろそろ次の人にバトンタッチする年齢に差し掛かっている二川さんの最大の課題は、築50年近くなる建物を新しく建て直すこと。
一方、国が打ち出している方針は、児童養護施設の小規模化と家庭的養護の推進だという。すでに、学寮にも地域小規模グループケア施設が2カ所ある。
「確かに、家庭的養護は大切だと思いますが、家庭によって傷ついた子どもたちを、また家庭的な空間へというのはどうなんでしょうね」
ふと湧いた疑問を口にすると、
「そうなんですよね。家庭に恵まれなかった子どもたちですから」
人間関係が濃密になりすぎると、子どもたちもスタッフも逃げ場がなくなるのではないか。第三者ながら、余計なことを考えてしまう。
部活動としては、ブラスバンド、茶道、文化、陶芸、サイクリング、そして、シーカヤックがある。穏やかな海に面した学寮にぴったりのシーカヤックは、すっかり定着して、時には少し離れた島まで行くこともある。
二川さんが、同席していた野村誠治さんを紹介してくれた。地元を代表する大企業マツダ株式会社で要職を務めた人で、昨秋ここの職員になったばかりだという。そんな人が、どんな縁があって学寮へきたのだろう。
「カヤックで旅しながら、地元の人と交流するのが好きだったんです」
そんな特技があったので、2008年からボランティアで学寮のシーカヤック部の面倒を見るようになった。気づいてみれば、十数年。再雇用で大企業に残る道ではなく、古参の職員並みに子どもたちや職員のことを知る学寮で、第二の人生を送る道を選んだのだ。
元々、家船に興味があり個人的に聞き取り調査をしたこともあるという野村さんは、豊島に導かれて学寮にやってきたのだろう。現在は、学寮の中長期ビジョンおよび中長期計画の策定を担当していた。個人的な思いだと前置きしながら、語ってくれた。
「再び学寮と地域の連携を密にし、地域へ貢献できるようにしたい。地域の方々と一緒になって、貴重な家船文化や家船と深い関わりを持つ学寮の歴史をまとめ、地域の人たちに向け発信できれば面白いと思っています」
家船に深い興味をもっている者としては、大いに期待したいところだ。
豊浜学寮を後にして、豊浜港の桟橋に近い小野浦へ向かった。以前、斎島行きの船を見逃し、慌てて宿を探して歩き回った集落だ。いかにも漁村らしく家々が密集し、細い路地が網の目のように張り巡らされたラビリンス。こんな蠱惑(こわく)的な空間を、ゆっくりさ迷ってみたかったが、ずっと実現できずにいた。
今日こそ迷宮散策を楽しもうと意気込み、市民センターで豊島の地図を探した。そこで見つけたのが、「小野浦迷路探検マップ」。小野浦に関して何の知識がなくても、さまよいたくなるような楽しげで愛情あふれる地図。
2時間ほど時間をとっていたが、それでは足りなかった。さらに贅沢な後悔を告白すれば、楽しい地図があったがために、それに頼ってしまい十分に迷えなかったこと。新しくなった学寮を訪ねる時は、我がままにさまよいさ迷いたい。そんな魅力的な集落だった。
地図をもらった市民センターに戻りそんな感想を漏らすと、最近は重要伝統的建造物群保存地区の御手洗(大崎下島)を訪れるツアー一行が小野浦にも立ち寄るようになり、すでに300人ほどが散策を楽しんでいるという。地元の人も、ガイドと散歩する観光客を嫌がる風もなく、おしゃべりを楽しむオバアちゃんたちもいるとか。
生活遺産として残されてきた小路とひしめく家々が、御手洗と並ぶ魅力的な場所として評価されつつあるのは、よそ者としても嬉しいことだ。新しい豊浜学寮が竣工するのが、待ち遠しい。
【豊島概要】
●所在地
広島県呉市
●人口
941人(2023年9月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治22年 市町村制施行により、豊浜村となる
昭和44年 町制施行により、豊浜町となる
平成17年 呉市に編入