つくろう、島の未来

2020年11月24日 火曜日

島旅作家として日本の海に浮かぶすべ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。第3回は、屋久島(やくしま|鹿児島県)の樹齢推定3,000年以上ともいわれる最大級の屋久杉の巨木「縄文杉」について。

縄文杉の根方で記念撮影 (1973年3月撮影)

「聖老人」と讃えられた巨樹を訪ねて

小さな子ども連れで家族とともに、東京から屋久島山中の廃村に移り住み、そこで生涯を終えた山尾三省(やまお・さんせい)という詩人がいた。1981年、山尾三省が初めて世に問うた『聖老人―百姓・詩人・信仰者として』という書の中で、聖老人(縄文杉)に触れた一節がある。

――聖老人の島の声を聴くのである。その声は、ただ深くそこに在れ、と、あるいは、ただ深くそこに働け、と告げる。

巨樹・老樹界のスーパースターである縄文杉は、日本で一番有名な樹木に違いない。その前にたたずんで、人は何を感じ、何を想うのだろう。

ぼくが、初めて縄文杉と相まみえたのは1973年の早春で、地元の岩川貞次さんによって発見され、大岩杉と命名された7年後のことだった。

当時は今のように車道が整備されていなかったので、海辺の集落・安房から安房森林軌道を歩いて登った。今でも荒川登山口から縄文杉へ向かう途中にたどる、あの軌道の手前の部分だ。ユースホステルで泊まり合わせた3人で、一緒に九州最高峰にして最南端の日本百名山・宮之浦岳を目指した。安房の渚で潮に触れ、それから5時間ほどで小杉谷に到着した。

それよりもっと昔は、営林署長名(※)で便乗諒解書(実質的な乗車券)が発行され、トロッコに乗ることも可能だったという。貴重な現物を、山好きが高じて島へ移住した宿の主人に、見せてもらったことがある。氏名、用務、便乗区間、便乗年月日などの最後に、こう記されていた。

※現 森林管理署

「上記の通り、トロッコ便乗を諒解(りょうかい)する。但し、如何なる危険負担にも応じない」

お互いに危険を承知の上で、便乗を許可し、便乗させてもらう。要するに、乗せてあげるけれど、事故があったら自己責任ね、ということ。

ちょうど60年前に発行された、トロッコの便乗諒解書(2002年8月撮影)

小杉谷にあった下屋久営林署の事業所は、すでに3年前の1970年に閉鎖され、最盛時は小中学校も擁し1,000人近い人口を誇った秘境の集落は消えていた。
だが、ありがたいことに寝具と白飯を提供してくれる山小屋はまだあった。泊めてもらった小杉谷山荘の管理人が、つい2、30年前まで鬱蒼とした屋久杉の森だった小杉谷が、瞬く間にチェーンソーで伐り尽くされたと嘆いていたのが、印象的だった。そんな森が残っていたら、何物にも代えがたい世界の宝だったのに。

早朝、山小屋をあとにして宮之浦岳へ向かった。縄文杉には、2時間40分で到着。途中のウィルソン株で30分休んでいるから、かなりのスピードだ。今は、一般的に荒川登山口から4、5時間とされているので、やはり若かったのだと思う。

山尾三省が聖老人と讃えた老杉は、恬淡としながら圧倒的な存在感を漂わせていた。人を拒むのでもなく、包み込むのでもなく、あるがままに対峙してくれた。

光はそれなりに射しこんで巨杉を照らしていたが、周辺はまだ木が繁って今ほど孤独な姿ではなかった。老いた巨樹であることは疑いないけれど、樹皮は今よりもっと赤みを帯びて、瑞々しさを感じさせた。大地を鷲づかみにしたうねるような根も、まだ剥き出しにもならず、根と根の間はしっかりと土や落ち葉や苔に満たされていた。

ゴツゴツとしていながらも滑らかな肌に触ると、乾いて見えるのにしっとりしている。静かな生命力が滲む幹にしばらく触れていると、拒否も受容せずに、ただそこに居ていいと、認めてくれているようで心地よかった。

それでも、発見された頃を知る島人によれば、もっと鬱蒼として薄暗く縄文杉にはほとんど光が射しこまず、木々や地面ももっと豊かな苔で覆われ、全体が潤っていたという。
登山道を切り拓くため鉈などを持参した登山者たちが、縄文杉の全体像をもっとよく見たいと、周りの木々を徐々に伐り払ううち、これだけスッキリしてしまったのだ。
初めて縄文杉と共に過ごした15分は、忘れられない一瞬となった。

ぼくのように、つい根を踏み樹皮に触れようとする人間がたくさんいたのだろう。

1984年になると、登山者から根を保護するため、環境庁と鹿児島県が根元に木片を撒きはじめる。その後、縄文杉を取り巻く樹を育てるため苗木の植栽も行われた。
縄文杉の保護と観光促進という相反する目的を達成するため、縄文杉のすぐそばまでロープウエーを設置しようという構想が浮かんだこともある。

1993年、日本初の世界遺産(自然遺産)に登録され、屋久島が全国的に注目されるようになる。縄文杉は、その象徴的な存在だった。
1996年には、根が傷むのを避けるために、縄文杉の北側近くと南側に展望デッキが設置され、2つのデッキはウォークボードで結ばれた。

1998年、四半世紀ぶりに縄文杉に会いに行った。すぐ上の高塚小屋に泊まり、黄昏時と夜明け前、デッキにたたずみ独りで縄文杉に語りかけた。今回も答えは返ってこなかったが、デッキにたたずんで対面しているぼくを邪魔もの扱いせず、どこか寂しげにそして静かに、認めてくれているようだった。

縄文杉の前で(1998年7月撮影)

最後に訪れたのは、21世紀になってすぐの2002年。大学生と高校生になっていた娘たちを案内した。夏休み期間の8月下旬だったので、縄文杉まで人の行列が続き、デッキは人で埋め尽くされていた。腕のいい縄文杉登山のガイドは、いかに素早く登って縄文杉を見物するのにいい場所を確保するかだと、聞いたのはこの頃のこと。

その後も、縄文杉を巡る情勢は刻々と変わり続け、2009年縄文杉登山のメインルートである荒川登山口への車両乗り入れ規制がはじまる。2017年、入山協力金が徴収されるようになり、日帰り縄文杉登山には1,000円課せられることとなった。

ただ深くそこに在り続ける縄文杉は、今も魅力的だ。しかし、人との関わりの中でどうしようもなく変わっていく姿を見るのは、少しつらい。それでも、もう一度くらいは、会いに行きたい。今度が人生最後かもしれないが、やはりまた語りかけてみたい。


【屋久島 概要】
●所在地
鹿児島県熊毛郡屋久島町
●人口
12,098人(2020年6月 住民基本台帳住基人口)
●行政区分
明治22年 町村制の施行により馭謨(ごむ)郡 「上屋久村」「下屋久村」2村発足
明治29年 廃置分合施行に伴い、馭謨郡・熊毛郡の合併で「熊毛郡」となる
昭和33年 町制施行に伴い、上屋久村が「上屋久町」に改称
昭和34年 下屋久村が改称し「屋久村」となり、即日町制施行に伴い「屋久町」となる
平成19年 上屋久町・屋久町の合併で「屋久島町」となる

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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