つくろう、島の未来

2024年12月11日 水曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

頂いた命をきちんと生かしたい。
屋久島の人と自然が共生し続けるために。

鹿児島県の屋久島にて、駆除された鹿肉の有効活用を行う「ヤクニク屋」の運営に携わる田川さん。屋久島に来た植物研究者が考える島への恩返しとは、どのようなものなのか。お話を伺いました。(編集:another life.編集部)

田川 哲(たがわ・さとし)。屋久島にて鹿肉の製造・加工・販売を行う「ヤクニク屋」の運営に携わる。

生き物が好きな子ども

福岡県広川町で生まれました。小さい頃から生き物が好きでした。祖父がお米やお茶の農家をやっていて、遊びに行ったり、手伝ったりする中で、自然と触れることが多かったんです。

飽きっぽい性格で、何でもちょっと手を出したらすぐに興味がなくなってしまう子どもでしたね。ゲームも運動も、興味をもつのに、できるようになると飽きるというか。何かを突き詰めるのは苦手で、これといって夢中になったものはありませんでした。

9歳の頃、父の仕事の都合でアルゼンチンに引っ越しました。最初の印象は、とにかく臭い。排水の処理が甘かったのと、みんなそこら辺に平気でものを捨てる影響です。臭さには驚きましたけど、生活自体は楽しかったです。アサードという大きな牛肉を2,3時間かけて焼く料理が美味しかったですね。

アルゼンチンはサッカーが盛んなので、自ずとサッカーにのめり込みました。リズム感とバランス感がなくてうまくはならなかったんですけど、1年後に日本に戻ってからも、中学・高校とサッカーを続けました。

高校卒業後は、環境に関わる勉強をしたいと考えていました。きっかけは、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読んだことです。地球がやばいとか、身近な環境が悪くなっていきゆくゆくは自分たちの生活に影響があると分かり、危機感を覚えたんです。それで、高知の大学に進学し、自然環境について学び始めました。

屋久島の植物の生態系を探る

大学では草原について研究しました。草原にしか生えない植物の生態を観察するために、毎月現場に行き、葉っぱの枚数を数えたり、背丈を測ったりするんです。植物が生えている周りの環境も調べます。特に、ヒメユリやヒメヒゴタイという絶滅危惧種を専門的に調べました。

研究者になりたいと考えていたので、卒業後は大学院に進学。父も大学の先生だったので、研究を続けることに理解はありました。博士課程にも進みました。その時はさすがに就職も考えたんですけど、研究者になりたいのは変わらなかったので、父に頭を下げて進学させてもらいました。

博士課程では、植物保全の第一人者の先生がいた九州の大学院に進みました。その先生の研究テーマが、鹿児島の離島、屋久島の植物分布だったので、僕もそのテーマで研究することになりました。

屋久島の森の調査は大変でしたね。普通、山に入る時は、遭難したら上を目指せと言われるんですけど、植物の調査は違って、沢を目指してどんどん下って行くんです。道なき道を。しかも、沢の近くなので道は湿っていて、滑りやすいんです。さらに、沢についたと思えば大きな岩がゴロゴロしていいて、岩をぐるっと回っているうちに、方角が分からなくなります。GPSを持っているメンバーがいるので、大丈夫なんですが、やっぱり不安です。大自然の中の調査は、本当に大変でした。

僕たちは、屋久島の希少種な植物が、どのような環境の影響を受けて分布しているかを調べました。標高、降水量、日照時間など、様々な要因があるのですが、ある植物は増えすぎた鹿によって、分布が制限されていると分かりました。屋久島に生息するヤクシカが増えすぎたことによって、屋久島の生態系が急激に変化していっていることを感じました。

お世話になった恩返しをしたい

博士課程の期間中、何度も屋久島に来て調査をさせてもらいました。しかし、博士課程を卒業することなく、4年目で中退することにしました。僕は英語が苦手で、論文を読めはするんですけど、書く時は細かいニュアンスに不安があって、なかなか書き始められなかったんです。それで、ずるずる4年目に突入していました。

また、研究者になる人は変態とも言えるほど研究に没頭するのですが、僕にはそれができなかったんです。教授は、寝食を忘れて研究しているような人でした。結構いい年なんですけど、ちょっと時間が空いていれば、フィールドワークに出た時のためにといって筋トレをしていましたし、新種を見つけるために真冬の山に入って、凍傷になりながら植物を採取するような人なんです。僕にはできませんでした。

研究者を目指すのか悩んでいる時に、屋久島自然保護官事務所の人に、屋久島で働かないかと誘われました。屋久島に貢献することがしたいと思っていた僕にとって、それはいい仕事だと思ったんですね。また、僕の通っていた大学院では、中退しても8年以内に論文を書けば、博士号をもらえる制度があったので、働きながら論文を書こうと思いました。

屋久島を出ていくことは考えられませんでした。屋久島に何も恩返しをできていないので。僕たちは、研究のために屋久島のデータを使わせてもらっていましたけど、個人的には、データは本来その地域の人のために使われるべきだと考えていました。外から来て、データを使うだけ使って地元に何も貢献しない人も多いという話を聞いていて、僕はそうはなりたくなかったんです。データも資産ですから。

それで、屋久島自然保護官事務所の、アクティブレンジャーになりました。屋久島の一部は国立公園なので、管理するための環境省の職員がいて、その補佐をするのが仕事です。具体的には、登山道の巡視や、動植物のモニタリングなどをしました。

僕は研究で関わっていたこともあり、鹿の担当になりました。増えすぎた鹿を減らすために、鹿の捕獲を担当したり、猟師向けの講習会をするんです。自分でも狩猟免許を取り、増えすぎて環境の破壊につながっている鹿をどうするか考えていました。

頂いた命を無駄にしてはいけない

屋久島では、森の植生を守る上で、鹿がかなり問題視されていました。屋久島世界遺産地域科学委員会の提言を受けて、鹿児島県がヤクシカの管理計画を策定し、積極的にヤクシカの捕獲が行われるようになりました。ここ数年は、年間5000頭ほどの鹿を捕獲しています。ところが、捕獲した後の鹿の使い道は、誰も考えていませんでした。結局、ゴミとして処分され、命が無駄にされていたんです。

すると、猟友会の中で、その問題に対してなんとかしたいという話が立ち上がりました。頂いた命は、きちんと食べるなり、有効活用しないとダメだろうと。それで、捕獲した鹿を活用するための会社を立ち上げることになり、僕も誘われました。

ちょうど、アクティブレンジャーの4年の任期が終わるタイミングでした。僕自身、屋久島に対してまだ貢献できていないと感じていましたし、活動の意義を感じました。また、会社にしてビジネスを行うことに共感しました。以前より、自然保護活動はビジネスにしないと続かないと感じていたんです。行政からの交付金だけでは継続しません。鹿肉の販売などで収益を上げて、そのお金を保護活動に回せばいい。そういう考えもあって、ヤクシカの解体と精肉を行う「ヤクニク屋」を一緒に立ち上げることにしました。

それまで鹿肉の販売なんてしたことはないので、まず肉の品質が分かりません。研修などに行って学ぶだけではわからないので、とにかく食べるしかありませんよ。一つずつ自分たちで食べてみて、どんな色だったら美味しくて、どんな色はまずいのか、確認しました。

販売の方は、意外とすんなり受け入れてもらえました。ジビエブームでしたし、それまで屋久島には魚しか特産品がなかったので、特産品として喜ばれました。ただ、加工は失敗続きでした。鹿肉の特徴を活かした加工品ができなかったんです。それでも、鹿肉の販売は少しずつ増やすことができました。

人と自然が共生するために

現在は、屋久島で「ヤクニク屋」の運営に携わっています。商品開発担当という肩書きですが、実際はなんでもやります。解体も、販路の拡大も、加工品の開発も、なんでもです。

解体した鹿肉の7割ほどは屋久島内で消費していただき、残りは鹿児島と東京で食べていただいています。肉以外の部分もきちんと活かすために、革製品のキットや衣服づくりも実験中ですし、角はアクセサリーにしています。頭蓋骨がインテリアとして買われることもあります。

今年度は、今まで利用できていなかった内臓などの利用を進め、自社から出るゴミをゼロにする取り組み、「ヤクシカのゼロ・エミッション」に取り組んでいます。また、解体と精肉だけでは収益が安定しないので、自社での加工商品の開発も進めています。

屋久島の自然は、昔から人間が自然を利用する中で保たれてきました。薪や木炭を作るために木々を切ったり、ヤクシカを捕獲してヤクシカの肉や皮など、その命を生きる糧として頂いたり、利用することで絶妙な距離感とバランスを保っていたんです。それが、人間の生活環境の変化から壊れかけ、林内が暗くなったり、ヤクシカが増えすぎて人里に降りてきたり、自然環境にも影響を及ぼしたりしています。

人間の都合で捕獲され、奪われたヤクシカの命を、無駄にすることなく使わせてもらうのが、私たちがするべきことだと考えています。

また、人がちゃんと住み続けることも、環境を守る上では大事だと考えています。屋久島でも、人口が減ってきているので、移住者を増やすことは大切なんです。離島は仕事がないことがネックです。屋久島に来る移住者の人は、飲食店やガイドなどを仕事とする人が多いのですが、サービスは提供するその瞬間で終わってしまうので、なかなか資産として残りづらいものです。

一方で、製造業だと、作ったものが派生していろんな仕事になるので、僕たちの事業をもっと拡大して、人を雇えるようにしたいですね。現在は猟師の捕獲した鹿肉を解体していますが、今後は自分たちで捕獲もできるようにしていきたいと考えています。

屋久島にお世話になった分、ちゃんと屋久島に貢献して、継続して自然環境を守っていける基盤を作りたいです。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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