つくろう、島の未来

2024年11月21日 木曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

夢を与えることぐらいなら、俺にもできる。
パンだけではないプラスアルファを追い続けて。

大久保卓哉(おおくぼ・たくや)|パン屋経営。

長崎県の壱岐島(いきのしま)でパン屋を経営する大久保さん。野球一筋の青春時代を送り、一度はプロ入りを考えるもケガで断念。企業野球に惹かれて入った会社から独立する場所として壱岐を選んだ理由とは。お話を伺いました。

野球に夢中だった少年時代

福岡県春日市に生まれました。親父が高校のソフトボールの監督だったので、赤ちゃんの頃から野球場に連れて行かれてましたね。僕自身、小学2年生で野球を始めました。

背が小さく力もなかったのでホームランは打てない代わりに、足の速さで勝負するプレースタイルでした。6年生の時には、全国こそ逃したものの、年間で24大会優勝する好成績を収めることができました。

中学ではプロ選手を輩出するようなクラブチームに入り、ピッチャーでした。クラブチームの練習は真面目にやっていたんですけど、学校では先生も手を付けられないようなワルガキでした。PTAから色々言われたり、親に迷惑をかけたりしたけど、そういうのがかっこいいと思ってた時期でしたね。中学の時は警察にお世話になるような環境でしたから。

中学卒業後は、野球推薦で地元の強豪校に入りました。中学のチームメイトと一緒に、野球部が新設される他県の高校へ行く話もあったんですけど、地元の友達と離れたくなくて自分だけ地元に残りました。進学した高校も甲子園に出場するような高校だったので、練習はきつかったですね。クラブチームと違って学校にも行かなきゃいけないし、最初はしんどかったです。

そんな時に、中学の友達はみんな遊んでるわけじゃないですか。それを耳にすると、やっぱり気持ちも楽な方に流れるんですよね。ある時、中学の友達に「俺、野球やめようかな」とぼやいたんです。

そしたら、返ってきた言葉が「野球があるなら絶対やめん方がいい」って。「そうやって何かに打ち込めるのは本当に羨ましい」って言われたんです。まさか、そんな言葉があいつらから出てくると思ってなかったから、僕の中ですごく響いたんですね。そこから会話が続かなかったんですよ。それぐらいハッとして。そこから本気で甲子園に行きたいと思い始めましたね。

結局、野球を続けて、高1の夏は甲子園に行きました。

プロへの挑戦と新しい道

高校卒業後は山口県の大学に推薦で入りました。しかし、入部1年目から監督に辞めると伝え、必死に説得されて止まるということを2度繰り返しました。時には、説得する病弱な母親に「死ね」と罵声を浴びさせたことさえありました。

先輩にも反発して、お山の大将気分でしたね。連帯責任の環境の中、同期にも迷惑をかけてしまって。それでも、同期のみんなにたくさんのメッセージをもらったり、彼女からも「あんたから野球をとったら何があるとよ」と言ってもらったり、たくさんの人に支えられていることを実感しました。

それから、本気でプロ野球選手を目指すようになりました。筋肉がつき体重も増えて、球速も上がり、それまで漠然と抱いていたプロという夢が一気に現実味を帯びましたね。リーグ戦を見に来たスカウトと話すようにもなって、プロ野球入りへの意識がどんどん強くなりました。

ところが、4年の春の選抜チームに紹集された時に、肩を壊してしまったんです。今後についてかなり迷いました。治る見込みもありましたけど、全国で勝ち上がってないし、今の能力を自分なりに冷静に考えて、野球の道は諦めました。最後の大会を終えた後、口数少ない父親に「長い間楽しませてもらった。ありがとう」と言われた時、嬉しい気持ちと、野球に対して名残惜しい気持ちとが重なって、複雑な気持ちでした。

大学4年の春から就職活動を始めました。周りのみんなは内定をもらってる時期です。野球以外やりたいことが何もないから、いざ就活を始めても決まりません。周りは50社、100社受けてるのに自分は4社受けて断念しました。しかし内定が出ないことに対する悔しさはなく、野球以外何もやってこなかったんだからこうなるのは当たり前だと開き直っていました。

露頭に迷っていたとき、高校の同級生が先に九州の大手製パン会社に内定していました。その友人が会社の野球部の監督に僕を紹介してくれました。野球部の監督が大学まで足を運んでくれ入社することになりました。

パン屋で見出したもの

入社した当初は、パンを売るのが楽しいとは思えませんでした。野球部のために入社したようなものですから。だからといって、手を抜こうとは思いませんでしたね。1年目は仕事も野球も必死にこなしました。パン作りを覚えながら練習もがむしゃらにやって、1年が過ぎました。ちょうどそんなとき、転勤してきた上司がいきなりチャンスをくれたんです。「お前店長やってみんか?」って。

あくまで僕の印象ですけど、それまでは、野球部は繁忙日に毎週いないから店長になれないという暗黙の了解があったんですよ。だから、思わず「野球部ですけど、土日出られないけどいいんですか?」と返しました。すると、「大変かもしれんけど、その中でやり方を考えろ、それがお前の仕事だろ」と言われました。

1年目で、パン作りも一人ではままならないような僕にチャンスをくれたんです。期待に応えたい気持ちで、必死でしたね。

売上の良い店舗にいれば、何も試行錯誤せずに現状維持するだけ。マイナスからどうやって上げていくかを考える方が、性に合ってたんです。また、せっかくもらったチャンスに対して「やっぱり野球部には店長を任せられない」と言われたくなくて頑張っていたのもありますね。

パン屋にとって、美味しいパンを作るっていうのは、絶対条件。常に消費者の目線に立ち物事を考えていました。

どの店長もパン職人だから、考え方も職人目線になってしまうんですけど、そんな付加価値は作り手側にしかわからないことが多いんです。売り上げを上げるのは、パンだけじゃないんですよね。どうお客様に付加価値、エキサイティング、購売欲向上を伝え、生み出すのか、そこが大事。そう考えて仕事に打ち込みました。

最終的に、他の店舗の売り上げ改善もするようになったんですけど、数字を上げられないと悩んでいる店長って、従業員満足度の重要さをわかってないんですよね。指導しないし、ダメなものをだめって言えない。一見すると、スタッフにすごく優しいように見えるんですけど、実はただ無関心なだけ。無関心だから何も言わない。それが優しく見えてしまう。何も言われないとスタッフの士気は下がるんですよ。

スタッフにとって、忙しさとやりがいって紙一重なんです。忙しすぎると不満につながるけど、良い意味で忙しく楽しく働ければ、それがやりがいになる。僕の店舗のスタッフは、最初はしんどいと言いますけど、僕が移動したら「物足りない」って言ってくれるんです。「楽になったけど楽しくない」って。そういうバランスをうまくとれるようにやっていました。

壱岐に夢を与えたい

会社での毎日は、ものすごく勉強になりました。色んな出会いとチャンスをもらって、必死にトライして、結果を残せた実感がありましたね。上司にも「どうしたら売上を伸ばせるか、確信に変わってきたやないか」と言ってもらって。全ての店舗で実績が出たから自信になったし、新しいチャレンジをしたいという気持ちも芽生えました。

ところが、壱岐で店を出したいと言ったら、周りから全否定されました。人口が少なすぎて、売れるわけないという理由です。でも、うまく行く方法が自分の引出しの中にあるという予感がして、島内の市場調査に乗り出したんです。

壱岐に調査に来たとき、親戚の紹介で島の子どものソフトボールのコーチをする機会がありました。そこでチームの子どもたちと話していて、壱岐の子どもたちって夢が無い子が多いと気づきました。お前らプロ野球選手なりたいんかって聞くと、小学生が「僕、壱岐なんで無理です。」って言う。

それを聞いて、この発想ってこの子たちだけのものじゃないなって思ったんですよ。小学生が、安定してるから公務員になりたいとか言うんです。今風といえば今風なんでしょうけど、私が小学生の時は、公務員という言葉すら知らなかったと思います。私はただ漠然とプロ野球選手になるんだ、という夢を抱いていました。

そんな夢の無いこと言うなよって思いましたよ。公務員が悪いとかじゃなくて、子どもたちの将来の選択肢がすごく限られていることにショックを受けたんです。その時、ここにいる子どもたちに、パンだけじゃなくて色んな夢を与えることぐらいなら俺でもできるって思ったんです。

壱岐から新しい店を出して島外に進出できるとか、女性だって活躍できるとか、無限の可能性があるってことを、自分の会社で伝えようと。そういう想いで、壱岐で「パンプラス」という店を開くことを決めました。

パンだけじゃないプラスアルファ

新しく店舗を建てて、ローン抱えて、立地も悪くて、かなりリスクを背負った開業だったんですけど、島内のみなさんのおかげで順調に1年を迎えることができました。島内に2店舗、島外に1店舗、首都圏にも販路を作ることができましたし、壱岐で起業して正解だったと思います。壱岐でやっているからこそメディアに取り上げてもらえますし、島内の方の応援に支えられてると感じた1年間でした。

壱岐は、あたたかい人たちが多い島だと思います。僕みたいに外からやってきて島を盛り上げようとしてる人を沢山の方が受け入れてくれる。もちろん、新しいことを受け入れようとしない人もいるみたいです。けどね、新しいのが嫌なのは、忙しくなるのが嫌だからと聞きます。

「壱岐でもできる」ではなく、「壱岐だからできる」という新しい風を入れられたらと思ってます。

「パンプラス」という店名には「パンだけじゃないプラスアルファを感じてもらう」という想いがあります。美味しいパンは絶対条件なので、それで経営が成り立つとは思っていないんです。

プラスは小さい心遣いから、大きいことまで、無限にあります。プラスアルファの具体的な取り組みとして、パンづくり体験をやったり、季節ごとに島内のお店をテナントに呼んで「パンプラスマルシェ」というイベントをやったり、毎月必ず10種類の新商品を出したりしています。

特に、店内の活気作り、雰囲気作りは徹底してます。島外では当たり前のことも、壱岐の人にとってはフレッシュで「島にはない雰囲気だよね」という言葉を頂いているので、そこだけは間違いなく評価してもらってるところだからブラさないでいこうと考えています。

スタッフに対しては、「頑張る人が損をする会社にしてはならない」っていつも言ってるんです。年功序列で努力しても意味が無い環境だと、向上心とかハングリー精神が育たないので、そんな会社にはしたくないんです。そういう想いを僕が公言することによって、自分で自分にプレッシャーをかけてます。

今の目標は、壱岐というブランドを島外に進出させることですね。そして島外事業を立ち上げることで島内の産業流通につなげて、雇用を創出したいと考えています。

壱岐って食の素材がすごくいいんですよ。なのに、外の人にアピールできていない。お酒だと壱岐焼酎っていう特産品があるんですけど、グルメだと壱岐の名産っていうのはまだ浸透していません。きっかけづくりとして、一日に1600個売れた壱岐牛カレーパンを島外に露出させて、この事業をもっと太くしていきたいですね。

結局、「パンプラス」のプラスはなんでもいいんです。僕が決めるものじゃなくて、お客さんに感じていただくもの、スタッフが考えるもの、感じるもの。ある意味、このプラスは僕自身への投げかけのようなものなんです。

「パン作りだけじゃだめなんだぞ」っていう。うちのパン屋に来てくれた方が、パンと幸せを持って帰ってくれるような会社を作るために、この「プラス」は僕が永遠に追い続けなければいけない課題ですね。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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