つくろう、島の未来

2024年12月08日 日曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

島にないものは、自分で手に入れる。
自分にしかできないことを見つけて。

松本きょうこ|雑貨店経営。東京都・八丈島で「ちいさな雑貨店ラミ」を経営する。

東京都の八丈島(はちじょうじま)で雑貨店を経営する松本さん。都会の忙しい生活から、一度も行ったことがない八丈島へ移住してきました。与えられるモノが限られる島の暮らしを楽しむ秘けつとは?お話を伺いました。

憧れの東京生活

茨城県の田舎の方で生まれました。お姉ちゃんと弟に挟まれた3人兄弟の真ん中で、気が強くて元気な姉の後ろを追いかけるような性格でした。両親は割と自由にのびのびと育ててくれました。姉が厳しくしつけられたせいで一度グレてしまったので、その反動で私のことは放任してくれたんです。ある意味ラッキーでしたね。

小学校6年生の頃から、ロックバンドのファンになりました。友達と深夜の音楽番組を見ながら「カッコいいね!」なんて騒いでる程度だったんですけど、どんどんハマっていって。ラジオとかCDをラジカセに録音して、何度も聞いてました。

中学高校時代も一番の興味は音楽で、自分でも楽器に挑戦してみたんですが、全くダメでしたね。それからは聴く方に専念して、親の目を盗んで田舎のクラブに行ったり、結構やんちゃしてました。

高校3年生になって進路を選ぶときは、東京に出ることしか考えられませんでした。地元の憧れの先輩たちがみんな東京に行ってたので、単純に憧れですね。

しかし、東京の学校に進学したいと親に言ってみたら「冗談じゃない!」と言われてしまいました。3年間遊んでばかりの娘にお金は出せません、と。軽い気持ちで言っただけなので、大して反発することもなく、じゃあ就職しようと切り替えました。

それで、高校卒業後はデパートの洋服売り場の販売員になり、東京で暮らし始めました。寮がある会社に入るというのが親からの条件で、その会社は寮があったから入社しました。

そうだ島に行こう

初めての東京生活は純粋に楽しかったです。地元から一緒に出てきた友達と一緒に、今まで行けなかったようなクラブを巡りました。でも、その子は学生で私は働いていたので、だんだんスケジュールが合わなくなって、結局、音楽からはフェードアウトしてしまいました。

嫌いになったわけではないんですが、いつでも行けると思ったら気持ちが落ち着いてしまったみたいです。それでも、東京のキラキラした街並みも気に入っていたので、都会暮らしには満足していましたね。

東京に来て1年くらい経った頃に、電話営業を行うコールセンターに転職しました。そこは、とんでもないブラック企業でした。大きいビルに入ってるし、社員さんは皆スーツを着てるし、新人研修もあったので、ちゃんとした会社だと思い込んでいたのですが、いざ働いてみると、毎日夜中の12時まで帰れなくて、この会社はヤバイと気づきました。

そのまま働き続けるか迷っていたとき、会社の同僚がバハマ旅行を企画してくれました。気分転換に行こうって誘われたんです。何の予備知識も無いまま引っ張られるように連れていかれたんですが、そこで島の魅力にやられてしまいました。

青い空とと白い砂浜、目の前にパッと広がる海。人々も陽気で、半端じゃない開放感を感じたんです。街並みもすごくカラフルで、島に色が溢れてました。海水に触ったら、海の良さを思い出しましたね。元々、地元に綺麗な海があったので海が好きでしたが、東京に来てから忙しくて、そんなことも忘れていたんです。

バハマの衝撃が大きすぎて、東京に帰ってきたときに、もうここでは暮らせないと思ってしまいました。「そうだ島へ行こう」ってなっちゃったんですよね。

島で暮らしたいと思って仕事を探すと、東京の離島、八丈島で寮付きのリゾートアルバイトの求人を見つけました。電話すると、すぐに採用が決まりました。それで、八丈島で暮らすことにしました。一度も行ったことがなかったんですが、島で暮らしたいという気持ちだけで、なんの迷いもなく移住を決めました。

島にないなら、自分で仕入れればいい

八丈島に来たのは、19歳のときでした。飛行機を降りたとき、ヤシの木が広がる景色を見て、「ここは島なんだ」という実感がわきましたね。不安はほとんどありませんでした。これといった理想や期待もほとんどなくて、ただひたすら島に住みたいという気持ちだけがありました。

まずは、飲食店のスタッフとして働き始めました。接客をしながら、郷土芸能もやるお店で、おじいちゃんとおばあちゃんに島の民謡を教えてもらいながら、太鼓を叩いたりしました。おじいちゃんがおばあちゃんが着ている、特産品の「黄八丈」という着物に憧れましたね。

仕事も含めて、島での生活が大好きでした。綺麗な海もあるし、東京よりも人との繋がりが濃くて、良い人が多い島だなと感じていました。そのまま八丈島に住み続けたいと思えたので、24歳で島の人と結婚しました。

島の暮らしが好きだった一方で、離島ならではの不便なこともありました。欲しいものが手に入らなかったんです。インターネットはもちろん、通販もほとんどないような時代だったので、例えば、ちょっとしたアクセサリーや可愛いコップ、少しいい食材など、島にないものは東京に遊びに行ったときに、まとめて大量に買ってくるしかありませんでした。

そんな生活を続けていたある日、思ったんです。「島にないなら、自分で仕入れればいいじゃん」って。大量に仕入れたら単価が安くなるので、みんなが欲しいものを売れば利益が出せると思ったんです。

それで、知り合いのお店の一部を借りて雑貨のお店をオープンしました。自分が欲しいもの、みんなが手に入らないものを提供できたらいいなという想いで、手頃な値段の雑貨を中心に仕入れるようになりました。

自分にしか出せないものを

お店の商品で1番売れたのが、ゴム製のサンダルです。小笠原島の漁師さんが履き始めたサンダルだから「漁業サンダル」、略して「ぎょさん」。ゴムだから丸洗いできるし、作りも丈夫なので、小笠原では、漁師さんだけじゃなくて、一般の人も普段履きとして愛用し始めたんです。離島名物のお土産として人気が出ました。

私も、奈良県から仕入れて八丈島で売るようになりました。どこかから仕入れられないか調べてみたら、小さい単位で卸してくれる業者さんが見つかったんです。

これはいけると思って、力を入れて販売するようになりました。ちょうど良いタイミングでテレビで取り上げられたことも重なって、観光客向けのお土産としても売れるようになりました。

ところが、売れるとわかった途端に、他のお店も大量に仕入れるようになってしまったんですね。やられたと思いましたが、しょうがないことです。代わりに、自分にしか出せないものを出そうって思いましたね。

それで始めたのが、ぎょさんのデコレーションサービスです。お客さんに、お店で用意した飾りの中から好きなものを選んでもらって、自分好みのぎょさんを作れるようにしたんです。いるかの飾りや貝殻に始まり、シンプルで大人っぽい装飾まで、色々なパーツを用意しました。

ぎょさんは元々漁師さん用にシンプルなデザインで作られていたので、飾りをつけるだけでガラッと印象が変わるんです。これを目当てに来てくれるお客さんが増えました。

手の届く心地よさと、その中の再発見

今は、子育てが落ち着いたので雑貨店の経営に力を入れています。ぎょさんがヒットしてからは、お店に来てくれるお客さんは、島の人よりも観光客の方が多くなったので、雑貨よりもお土産の方に力を入れ始めました。

ぎょさんの他に、うちのお店の目玉になっているのが「トンボ玉」を使ったアクセサリーです。トンボ玉は、色のついたガラスに模様をつけたビー玉のようなものです。普通は花のモチーフが多いのですが、うちの店では島の思い出になるように、海のモチーフにしたトンボ玉を作っています。販売だけではなく、お客様がトンボ玉を作れる体験教室も開いています。

子育てをする上では、島の環境にかなり助けられました。島民はみんな知り合いのようなものなので、島全体で子どもを育ててくれてる雰囲気があるんです。その一方で、こういう人の繋がりを息苦しく感じる人がいるのも事実です。なんでも筒抜けになってしまうことが苦痛で、島から出ていく人もいました。

でも、この筒抜け感って、今の時代は都会でも同じだと思うんです。SNSが発達して、自分の知らないところで情報が拡がってしまうので、自分の行動にある程度責任持たなきゃいけないっていうのは、島も都会も変わらないと思うんですよね。

島の暮らしの中で唯一つらかったのが、島を離れる人のお見送りです。当たり前のようにいつでも会えた人がいなくなってしまうのが寂しくて。小さい島だから、一人でもいなくなると喪失感が大きいんです。ぽっかり穴があいてしまうような感覚は今も慣れないですね。

私の場合は、八丈島を出ていきたいと感じたことは一度もありません。小さい島だからなんでもわかるっていうのが、私にとっては心地いいんです。「4畳半ぐらいの部屋にいて、コタツに入ったままでなんでも手が届くような感覚」があるんです。サイズは大きくないけど、島の中ならどこに行くにもそんなに時間がかからないし、必要なものがちゃんと手に入るから安心なんです。

あとは、私は島との相性がよかったんだと思います。離島では、与えられるモノが限られるので、色んな選択肢の中から選びたい人にとっては、あんまり楽しくないかもしれません。島の生活を楽しめる人って「無いなら自分でつくっちゃえ精神」を持ってる人が多いです。

例えば、美味しいケーキが買えないってなったときに、じゃあ自分で作っちゃおうって思えるような人。私が雑貨屋を開いたのも同じ考え方です。これを楽しいと思えるから、やっぱり島での暮らしは自分に合ってるんだと思います。

これからは、また新しいことに挑戦したいと思っています。作品としてのトンボ玉づくりです。子どもが大きくなって、自分が自由に使える時間が増えて、じゃあその時間を使って私は何をやろうと迷いました。ちょうどそのときに、八丈島でトンボ玉の展示会があったんです。トンボ玉職人として有名な先生たちが八丈島に来て、色々な作品を見せてもらったんですけど、びっくりするくらい繊細で衝撃を受けたんですよね。

それまでは、私が作るのはお土産として販売するためのものだから、長時間かけて細かいのを作っても利益が出せないって妥協してたんですよね。でも、展示会で想像を超えた綺麗な作品を見て、気合いを入れて、お土産ではない作品として、繊細なトンボ玉づくりに挑戦してみようと思えたんです。

始めてみると、やっぱり職人の世界の奥の深さを感じます。お土産として作っていたときにはわからなかった新たな発見があるんです。素人のお客さんが体験で作ったトンボ玉がすごく綺麗に見えたりして。

よく考えてみると、同じようなことは、島の暮らしでもありました。いつも通っていた場所で、ふとした時に、すごく良い雰囲気の神社を見つけたりするような新しい発見が、島にいると毎年のようにあるんです。

島もトンボ玉も、そういう新鮮な感動を与えてくれるから、好きなんだと思います。島の生活も、職人としてのトンボ玉づくりも、新しい発見を喜べる心を持ちながら、楽しんでいきたいと思います。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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