つくろう、島の未来

2024年11月21日 木曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

なんにもない場所でゼロからのスタート。
種子島をそのまま感じる、手作りの宿。

鹿児島の種子島で、夫婦で民宿を営む坂尾さん。夜は真っ暗、街まで車で15分かかる「なんにもない場所」にある民宿で、訪れた人に感じてもらいたいこととは?憧れの田舎暮らしに踏み出した坂尾さんにお話を伺いました。(編集:another life.編集部)

坂尾安彦(さかお・やすひこ)。種子島の最南端、門倉岬の近くで、民宿「はぴすま」を経営する。

ホテルの仕事ってかっこよさそう

大阪府で生まれました。大阪にいたのは赤ちゃんの頃だけで、すぐに神奈川県の横浜に引っ越しました。

小さな頃は野球やサッカーなど、外で遊ぶのが好きな子どもでしたね。また、岡山県に母方の祖父母の家があり、たまに里帰りをして大自然の中で過ごしました。自然が大好きというわけではありませんでしたが、のんびりとした田舎の雰囲気が好きでした。

高校生の頃、卒業後は大学に行くものだと漠然と考えていたのですが、勉強は全然しませんでした。2つ上の兄が大学に行くために浪人している姿を見て、1年間勉強だけをするなんて、自分にはちょっと厳しいと感じたんです。

兄が目指す大学よりも、ランクが下の私立大学に行く道もありました。ただ、学費が高いし、特別にやりたいことがあるわけでもなかったので、そこまでした大学に行きたいとは思いませんでした。

受験勉強からの逃げ道を探すため就職雑誌を読み始め、「ホテルマン」という職業を知りました。「なんだ、ホテルマンって?格好よさそうだな」と思ったのが第一印象です。ビシっとした服を着て働くイメージが湧きました。それが心にビビっと来て、東京にあるホテルの専門学校へ進学することに決めました。

高校時代と比べて、ホテルの専門学校ではそれなりに頑張りました。様々な分野の授業の中で私が興味を持ったのは、宿泊系の分野よりも飲食サービスの分野でした。宿泊系のフロントサービスだと、お客様とカウンター越しに話すことになります。それだと、お客さんとの接点をあまり持つことができません。レストランのウェイターであれば、食事をしているお客様と会話をしたり、深いコミュニケーションを取れると思ったんです。

人と密に関わる仕事がしたい

2年で専門学校を卒業した後は、地元の横浜のホテルに就職しました。東京で就職をしなかった理由は、満員電車です。専門学生時代、横浜から東京まで満員電車で通学してみて、人混みに揉まれる生活を続けるのは無理だと分かったんです。早い段階から、満員電車に乗らずに住む地元で仕事をすると決めていたんです。

ホテルに入って最初に配属されたのは、総務部でした。配属先を選べなかったんです。社員の給料計算など、ひとつの答えがあるものを間違いなくこなす仕事でした。

事務作業がメインだったので、お客様と接することがなく、面白くなかったですね。その後、人事の仕事で採用面接を手伝うになりましたが、事務よりは面白かったものの、接客と比べるとあまり魅力を感じませんでした。

レストランで接客をやりたいと人事の担当に主張すると「しばらくは総務の仕事をやらないと駄目だ」と言われてしまいました。それでも、どうしてもやりたいと言い続け、2年後にレストランの接客に移してもらえました。

それから5年ほど、ホテルのレストランで働きました。夜遅くまで仕事をして、翌朝の朝食に備えてホテルの仮眠室で寝て朝また出勤する、という勤務形態でした。同僚は同年代の体育会系の人が多くて、そういうがむしゃらに働く雰囲気は嫌いじゃないし、面白かったですね。しかし、体力的にはきつい仕事なので、将来もそのままずっとやっていくのか、疑問を感じるようになりました。

人不足で仕事が大変になり、仕事がうまくできない時期が続いた時は、ホテルを辞めようかと考え始めました。すると、結婚式などの仕切りをするバンケットサービスへ異動しないかと言われました。部署が変わるならと、もう少し続けることにしました。

移動先での仕事は、結婚式当日、スタッフをマネジメントして式を成功に導くことでした。結婚式の前日に指示書をもらい、新郎新婦が望む通りに当日の運営を行います。お客様である新郎新婦は、会った瞬間からハッピーな気持ちになっているので、こちらも幸せを感じられます。また、式が終わるとすごく喜んでもらえるので、いい仕事をしているなと感じましたね。

憧れの田舎暮らしを実現するために

ホテルで働き始めて、15年以上経ちました。仕事にやりがいはある一方で、ホテルの仕事をずっと続けるかどうかは悩んでいました。田舎暮らしに憧れがあったんですよね。小さい頃から自然は身近でしたし、20代になってサーフィンを始めてからは、田舎に遊びに行く機会も増えていたんです。

海の近くでサーフィンをしながら過ごす人を見て、憧れていたんですが、田舎の人たちはどうやって生計を立てているのか不安もありました。田舎といったら農業や漁業しかないようなイメージがあって、それで食べていくのは難しいと思っていたんですね。

そんなことを考えている時、自転車で怪我をして、1ヶ月ほど自宅療養することになりました。仕事を休んで一人でずっと寝ていると、将来のことを色々考えてしまうんですよね。何となく、40歳までにはどうやって生きていくかを決めたいと思っていました。

このまま都会で暮らすのか。それとも田舎で暮らすのか。考えれば考えるほど、田舎暮らしへの期待が高まりました。それなら、いつかとか先延ばしにしてないで、今やらなきゃダメだ。そう覚悟が決まりました。

暮らすなら、サーフィンができるところがいいと思いました。それまで、沖縄、奄美諸島、ハワイ、バリ、宮崎など色々な地域に行きましたが、何となく、住むなら陸続きではない離島がいいなと思っていました。沖縄や奄美諸島まで行ってしまうと、琉球文化が濃くなるので、それよりは日本の田舎っぽいところがいいと思って、観光地化もあまりされていない、鹿児島の離島、種子島を移住の候補地にしました。

暮らしという観点で種子島を見ようと思い、移住サポートセンターに足を運びました。担当者は、島のいいところも悪いところも、全部教えてくれました。移住することを前提に話を聞いていたので、全部ひっくるめてワクワクしちゃったんですよね。未知の世界で、新しいことにチャレンジできるワクワクです。

島に来たら、農業とサーフィンをやろうと思いました。船酔いするので漁業の選択肢はなくて、それなら農業だろうなって思ったんです。移住の本を読んだり、種子島に下見に来たりして、テンションは最高潮に高まりましたね。

また、一緒に移住したいという人が見つかりました。横浜のホテルで働いている時に親しくなったフォトグラファーの女性がいて、移住する2週間ほど前に「種子島にちょっと行ってみようと思うけど、行く?」と聞いたら「あー、行く」と二つ返事が返ってきたんです。それで、ふたりで種子島にくることにしました。

お客様に直接サービスを提供したい

軽のワンボックスカーに積めるだけの荷物を積んで、横浜から出発。途中で親戚、友人の家に寄ったりしながら、フェリーで種子島に上陸しました。すごくワクワクしていたんですが、上陸した瞬間、「そういえば住むとこが決まってないし、やばい。どうしよう」と焦りましたね。家は島に来てから決めようと思っていたんです。島に着いた瞬間、現実が押し寄せてきました。

その後、役所の方に家を紹介してもらい、土地を借りて農業を始めました。農業といっても庭程度の大きさです。米と安納芋を作って、ネットでも少し売ってみたんですけど、すぐに、農業で食べていくことに違和感を持ちました。農業機械を買って、規模を大きくしていく未来を想像した時、なんか違うと。

やっぱり、僕は接客業が好きだったので、作った野菜や米をお客様に直接食べてもらいたいと思ったんです。それなら、レストランか民宿でもやりたい。ただ、レストランをやると、将来子どもができた時に運営が難しいかなと思いました。一緒に移住したフォトグラファーの女性と結婚することになり、種子島で子どもを育てたいと思っていたので。それで、民宿を始めることに決めました。

ただ、民宿を作りたい場所には、いい物件がありませんでした。新築するにも、建設業者に頼むお金もありません。それで、自分たちで建てることにしました。

僕が作りたかったのは、家族連れでのんびりできるような宿。だから、場所も島の南の方の静かな場所を選びました。島の人たちからは、宇宙センターの近くでビジネス系の宿をやった方が良いとか、ここじゃお客様が来ないんじゃないかとアドバイスをもらいましたが、決意はゆるぎませんでした。

その後、アルバイトなどをして生活しながら、たくさんの人の手を借りて、基礎から内装までコツコツと建物を手作りしました。1年かけて完成した建物は、少し不恰好ですが、愛情がこもった民宿です。

日常に感動する心を忘れず

現在は、民宿「はぴます」を運営しています。はぴますは、種子島の最南端、雄大な屋久島を眺めることができる門倉岬のそばにあります。街から車で15分かかる場所にあり、夜は真っ暗になりますし、部屋にはテレビも置いてありません。なんにもない場所で、のんびりと島の自然を感じてもらいたいというのがコンセプトです。

民宿の仕事は、昼から夕方くらいまで時間があくことが多いので、その間に買い出しに出かけたり、田んぼや畑の世話をします。夏は、大好きなサーフィンをする時間も取れます。

民宿を訪れるお客さんたちにも、サーフィンやシーカヤック、農業体験をしてもらい、種子島の青い海と空、緑の大地を楽しんでほしいですね。お腹がすいたら新鮮な野菜を食べて、夜は満天の星空を見てもらいたいです。

正直なことを言うと、種子島の景色は見慣れてしまい、来たばかりの頃に比べると感動は薄れつつあります。お客さんたちが感動している姿を見ていると「ああ、確かに綺麗だよな」と気付かされます。僕も、種子島に来て感動した時の気持ち、初心を忘れないようにしたいですね。

島の暮らしは不便だと承知していたつもりですが、子どもの病院まで車で1時間くらいかかったり、ネットの回線が遅かったり、苦労は感じています。島の人たちとの人間関係もめちゃめちゃ濃いです。でも、そういう面も好んで移住をしたので、後悔はありません。

今後のことを考えたら、不安はいっぱいあります。一番の心配事はお金ですね。現在は、民宿を運営しながら、宇宙センターなどでアルバイトもして生計を立てています。自分の体を使った仕事が多いので、いつまで体が持つか心配もありますし、他の仕事も作らなきゃと感じることはあります。

でも、別の島に移住したり、横浜に戻ることは今のところ考えていません。これからもずっと種子島で暮らしていくつもりです。やっぱり、種子島の生活が好きなんですね。時間に追われることもなく、自分のペースで暮らせることや、ストレスが少ないのがいいんです。色々やることが多いですが、それが楽しいんです。

今後は、民宿やランチ営業などの待ちのスタイルだけでなく、イベントや観光地などへ移動販売をしてこちらから積極的に働きかけるのも良いかなと。自分たち自身もお祭りとか楽しいことが好きですし、この際自分たちの楽しいことを追求して家族四人の島ライフをもっと充実していきたいなと思っています。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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