「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。
ゆったり、何もしないことも許される島が好き。
次の世代のためにできることを。
下甑島の青瀬地区のコミュニティ協議会会長として、地域おこし活動に取り組む東さん。15歳で島を出た後、島に定住を決めたきっかけとは。お話を伺いました。(編集:another life.編集部)
東 実(あずま・みのる)。下甑島在住。青瀬地区コミュニティ協議会会長を務める。
社会に飛び込んだ島育ちの少年
鹿児島県の下甑島で生まれました。どちらかというと大人しい性格でしたが、よその家のみかんを取りに行って追い掛け回されたりもしました。食べるものがない時代、いつも腹を空かせていたので、目の前に食べられる物があったらすぐに手が伸びてしまったんです。罪の意識はありませんでしたね。白いご飯が食べられることなんてめったになくて、サツマイモで育ったようなものです。
僕が小さな頃は、甑全体の人口は2万近くいて、同級生も70人くらいいたと思います。小学校は300人、中学校も150人くらいの規模でした。
中学校を卒業してからは、集団就職で大阪に行きました。商売人など、裕福な家の子どもは高校に進学していましたが、半分以上の同級生は、僕と同じように中卒で就職しました。うちは漁師だったんですが、家業を継ぐ気はありませんでした。漁師の生活は不安定ですし、1日中船の上にいる生活は嫌だったんです。
それまで数回しか島から出たことがなかった僕にとって、大阪は全然違う世界のようでした。到着したのが夜だったのですが、電気が付いている街を見て「明るいな」と思ったのが第一印象です。
また、言葉の違いに戸惑いました。島の言葉は関西弁とも鹿児島弁とも違くて、全然通じないんです。相手の言葉は、それまでテレビで見たことがあったので理解できるんですけど、話せない。恥ずかしくて、何も話せませんでしたね。
それでも、すぐに都会生活の楽しさ味わうようになりました。スナックに行ったり、ビールを飲んだり、タバコを吸ったり、先輩たちに遊び方を教えてもらいました。規制が緩かったので、いろいろやりましたね。
仕事に疲れ島に戻ることを決意
タイヤの会社は5年半くらいで辞めてしまいました。僕は中卒なので、3年後、同い年の高卒の人が後輩として入ってきます。最初は指導する立場ですし、給料も僕の方が高いんですが、数年したらその立場がひっくり返ると思うと、耐えられなかったんです。つまらないプライドがあって辞めてしまったんですね。
一旦、島に戻りました。働いていたときはほとんど帰っていなかったんですけど、島に帰れば、楽しいことが待っているっていう思いがありました。島に帰ってからは、建設会社で働きつつ、毎晩遊びまわっていました。島で暮らしている同級生も結構いたので、楽しかったですね。
ただ、そんな生活を2年も続けると、将来を真剣に考えるようになりました。焦ったわけではないんですが、「島にずっといてもしょうがない、また都会に行きたい」という気持ちが湧いてきたんです。
それで、島を出て、尼崎に住む母親と暮らすことにしました。尼崎では、運送会社に勤めたり、解体屋で働いたり、いろいろしました。結婚してからは、妻が働いていた会社の関連会社で働きました。ただ、私より妻の方が稼ぎが多いことに我慢できず、夜はアルバイトをしました。プライドが許さなかったんですね、また。とにかくずっと働いて、やっと妻と同じくらいの給料になりました。
そんなとき、親戚から、窓のサッシをスチールからアルミに付け替える仕事を紹介されました。給料が倍近くもらえることを知って、すぐに仕事を受けることにしました。全国的にアルミのサッシに切り替えられている時期だったので、仕事はたくさんあったんです。手慣れた頃には独立して、人も雇うようになりました。
ただ、5,6年も続けていると、スチールのサッシは取り替え尽くしてしまうんですよね。それで、潮時だと思って、家族と一緒に島に戻ることにしました。
それまで働き詰めだったので、少し休みたいという気持ちもあったんです。官公庁からの仕事も多くて、学校での取り替えは地獄でした。夏休み期間中に終わらせないといけないので、盆休みもなくやるわけです。そのときはとにかく、「もう金はいらんから休みをくれ」と思っていましたね。子どもの運動会や授業参観にも行けなかった。それがつらかったです。
しばらく島でゆっくり過ごして、リセットしたらまた島を出ればいいかなと思っていました。34歳でした。
故郷の下甑島で地域活動に勤しむ
島に帰ってきてからの最初の何ヶ月かは、仕事をせず遊んでいました。みんなで集まって将棋をしたり、世間話をしたり。夜は同級生と飲んだり、魚釣りをしたりして、半年があっという間に過ぎました。さすがに蓄えも尽きてきたので、島内でサッシの取替えの仕事をはじめました。
次第に、都会で忙しい生活をするより、島のゆったりとした生活の方が自分に合っていると思い始めました。生活費もそんなにかかりませんから。
そのまま島で暮らし続けると決めたのは、家を建てたことが大きいですね。最初は家を建てる気はなく、土地を整地してただけなんですけど、まわりの人に「家を建てるんだ」って勘違いされてしまって、その流れに乗ってしまった感じです。家を建ててから、島から出る気がなくなりました。
島に腰を据えてからは、地域の活動に引っ張り出されるようになりました。基本的には周りから促されることが多かったんですが、地区の評議員に立候補する時は、自ら手を挙げました。かずらを使った綱引きを復活させたいと思ったのがきっかけです。
いつも、十五夜に行う綱引きではロープを使っていたんですが、昔はかずらを編んでいたと聞いて、復活させたいと審議委員会で話したんです。でも、審議委員からは「だれがそんなことするの」って反対されてしまって。60歳を超えるような年寄りが多かったので、若い人間がいないんですよね。せっかく若い人がアイディアを出しても通らなかったら、新しいことは始まりません。それで、僕が変えたると思って、評議員に立候補しました。
他にも、区の評議員や村議会議員をやった時期もありましたね。しばらくの間は、地域活動をしながら、建設会社で働いていました。サッシの仕事は飽和してきましたし、子どもを島外の高校に行かせるためには、安定した仕事が必要だったんですね。
ただ、仕事は62歳の時に辞めて、自分の住む青瀬地区のコミュニティ協議会の仕事に専念することにしました。コミュニティ協議会は、自治会のひとつ上の階層にある組織で、市民や行政と調整しながら、地域おこし活動などをする団体です。年金がもらえる65歳までは仕事を続けようと思っていたんですけど、前会長が辞めることになって。周りからの薦めもありましたし、僕自身も地域を変えていきたいと思っていたので、やってみることにしたんです。
世知辛い世の中でも温かい島の生活
コミュニティ協議会では、自分の住む地域をいかに盛り上げていくかを考えています。ただ、夢みたいなことを掲げても実現は難しいとわかったので、まずはできることから着実にやっています。そんなに大勢じゃなくても、5人集まれば実現できると考えています。
ひとつは、今あるツーリズムの整備ですね。案内板やトイレなど、来てくれた人が快適に過ごせるように整備していく。宿泊施設を充実させることも大切ですね。昔は、宿泊施設では工事関係者の人ばかりを受け入れていたので、変な話、寝る場所と食事がありさえすればよかったんですが、観光客に対してはそれではだめなんです。1泊とかで島を判断されるので、お風呂や部屋の清潔感はとても重要。今ある場所をお金かけて綺麗にするのは難しいかもしれませんが、新しく宿を始めようとする人が出てきたらいいですね。
また、地区同士を繋げる取り組みにも力を入れています。ふたつの地区で合同のイベントをやることなんて、今までどこの地域でもなかったんですけど、一緒にやるとお互い元気になるんですよね。それまでは、顔は知っていてもそこまで親しくない人たちだったんですけど、一緒にやると話し合いの機会は増えますし、お互いの地域で反省会という名の飲み会も開かれたりして。そういう流れが生まれるのはいいことだと思います。
あとは、若者がお金を稼ぐための仕事を作っていきたいですね。僕みたいに年金をもらっている人はいいんですけど、若い人はやっぱり経済的に苦しいんです。仕事は建築、支所、漁業関係、もしくは自営業くらいしかない。子どもが高校生になり下宿代や仕送りが必要になった時、苦労するんです。僕も同じことをしてきたわけですけど、やっぱり大変そうで。どうにかして活気を取り戻したいんです。
今、青瀬地区では補助金を利用して、椿油と椿油のバスエッセンスを作ったり、ポン酢を作ったり、ジャムを作ったりと、いろいろと試行錯誤しています。若い人たちは仕事をしているからできませんが、時間を持て余していた高齢者が集まって、少しずつ収益が出るようになってきました。これを継続的な事業にすることで、若者の雇用をつくれたらと思います。
根底にあるのは、島ののんびりとした暮らしが好きだという思いだと思います。島では、遊んでいてもいいし、何もしてなくても許される雰囲気があります。ここにおったら、長生きできますよ。そういう暮らしが続いていくためには、島に活気がなければいけない。子育ても終わり、時間に余裕のある自分みたいな人間だからこそ、少しでも島のために動けたらと思います。
【転載元】
https://an-life.jp/article/881