つくろう、島の未来

2024年11月21日 木曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

佐渡島だからこその面白い出会いを。
私が目指す「人と情報と縁をつなぐ」場所。

熊野礼美(くまの・れいみ)|地域おこし協力隊・コミュニティスペース運営。地域おこし協力隊として佐渡島の地域協力活動に従事。

地域おこし協力隊として、佐渡島(さどがしま|新潟県)のシェアスペース運営と移住者サポートに取り組む熊野さん。自ら様々なワークショップを企画し「人と情報と縁の集まる」コミュニティスペースを運営する背景には、どのような経験や思いがあるのでしょうか。お話を伺いました。

海外に憧れ、日本語教師を目指す

兵庫県姫路市で生まれました。田舎育ちで、近くの畑でトンボを取ったり、コウモリを捕まえたりして遊んでいました。

小さい頃から海外に関心がありましたね。父親が海外出張から帰ってくる度に、世界地図を広げて「お父さんはどこに行ったでしょうクイズ」が始まるんです。現地のコインをヒントに、「あそこだ!ここだ!」と兄弟たちで楽しく答えていました。そんな遊びがきっかけで、いつか自分も海外に行ってみたいと憧れるようになりましたね。

とにかく外国人と話したくて、高校に入学してから英会話学校に通い始めましたし、夏休みの2週間を利用して、オーストラリアにホームステイしました。念願の初海外でした。

現地のサマースクールでは、日本の学校との違いが印象的でした。例えば、授業中でもお菓子を食べてよかったり、生徒と先生が友達みたいな距離だったり。日本では見たことがない光景でした。ホームステイ先の子どもとも、好きな音楽やアイドルの話で盛り上がって、言葉がうまく話せなくても本当に楽しかったです。

ホームステイを終えて、海外で暮らすにはどうしたらいいか考え始めた頃、テレビで『ドク』というドラマを見ました。日本語教師とベトナム人留学生の物語なんですが、このドラマを見て「この仕事だ!」と思ったんです。日本語教師という具体的な目標ができて、それからは語学学習に一気に熱が入るようになりました。

高校卒業後は、英語以外の言語も話せるようになりたいと思い、外語大学のスペイン語学科に進みました。スペイン語ならアメリカ大陸の多くの地域で使うことができます。また、南米には日系移民が多く、日本語の需要があるので、将来日本語教師として活躍できるかもしれないと考えました。

しかし、私の大学で日本語教師の資格を取るためには、英語教師、スペイン語教師の資格が必要でした。ハードルが高すぎると思い、諦めて就職活動をすることにしました。外国語に近いところで働きたくて、最終的に英会話学校に就職しました。

ライフステージの変化と新しい生き方

英会話学校では、営業や講師のスケジュール調整を担当しました。ネイティブの英語講師のほとんどは日本語が話せないので、日々の生活の中で困ることがあると言っていました。そこで、私が日本の生活のちょっとしたアドバイスをすると、彼らはとても喜んでくれたんです。それが嬉しくて、やっぱり日本の言葉や文化を教える日本語教師の仕事をしたいと思うようになりましたね。

それで、1年で英会話学校の仕事を辞めました。定時で終わる事務の仕事に転職して、夜間学校に通い、日本語教師養成講座を受けました。

その後、台湾の国際幼稚園で日本語教師として働きましたが、1年で帰国することにしました。給与水準があまり高くなくて、一生の仕事にはできないと思ったんです。腹を据えて働けばそれなりの額をもらえる国もありましたが、そこまでの覚悟はありません。28歳という年齢もあって、日本でキャリアを積むことにしました。

日本に戻ってから、神戸で教材販売会社に就職しました。それまでは有名企業で働いたので、今度は有名じゃなくても地域に密着した会社で働きたいと思ったんです。

学習ドリルや実験で使うビーカーなど、小学校で使うあらゆる教材を学校に営業しました。商品以上に、自分の名前を覚えてもらえるよう努力しましたね。先生たちは、雑談をすることで、仕事の息抜きをしているようでした。私がいることでリラックスできて、喜んでもらえるように心がけました。

仕事とは別に、プライベートでは登山を始めました。30歳を機に、一生続く趣味を持ちたいと思ったんです。SNSで山登りに興味ある友達を作り、一緒に山に行くようになって、高山植物にも興味を持ちました。

その後、32歳で結婚しました。営業の仕事は、年度が変わる春の時期が繁忙期で、帰りは毎日終電になるくらいの激務。ライフステージが変わって、今後子どもができたら、今の働き方は続けられないだろうと思いましたね。結婚して、家庭を築いていくこのタイミングで、自分の暮らし方を考えないといけないと思い始めました。

あるとき、春の長期休暇を利用して、佐渡島へ行きました。目当ては、花の百名山に載っていた有名なアオネバ登山道でのハイキングでした。山頂から入山して、降りていきます。頂上付近は雪が残っていて、そこから降りていくと、ツクシやフキノトウが出てきました。さらに降りていくと、4月や5月に見られる花が咲いているんです。

たった3時間くらいのコースなのに、2ヶ月分くらいの花を見ることができて、とても驚きました。この山を1年通して見たいと思いましたね。

同時に、子どもの頃に住んでいた姫路での記憶が蘇ってきたんです。地元には佐渡みたいに畑のあぜ道があって、水たまりで遊んでいたなあ。ここに住めば、自分の子どもも、昔の自分のように自然の中で遊ぶことができていいかもしれない。子育てのためにも、ここに移住したいと思いました。

移住について調べるうちに、地域おこし協力隊の仕事を知りました。これなら、住むところと仕事が決められて、地域コミュニティにもうまく入っていける。まずは任期の3年間を佐渡で暮らしてみようと思いました。

夫も応援してくれ、協力隊へ応募し、ついに採用が決まりました。

画家の夫とは、離れて暮らすことになるだろうな。そんなことを考えながら私の引越しで二人で佐渡に来ると、車からちょうど綺麗な夕日が見えたんです。それを見た夫が「いやぁ、良いところに僕たちは引っ越すね」と言ったんです。あ、一緒に来るつもりなんだって、驚きましたね。それから夫はアトリエを引き上げて、3ヶ月後に移住してきました。

地域おこし協力隊での奮闘

地域おこし協力隊になる上で、よそ者としてコミュニティに入っていくつらさは想像できました。子どもの頃、家族で姫路に引っ越したときに、地域の風習に馴染めずに苦労したことがあったんです。

だから、佐渡では地域コミュニティに対して、自分が住みやすい基盤づくりから始めました。押し付けがましく働きかけるのではなく、「私は新入りなので、皆さんいろいろ教えてください!」という気持ちでした。

私の仕事は、佐渡島全体の空き家対策と移住サポートセンターの立ち上げでした。まずは、空き家の実態調査を始めました。

前年の一斉調査では、佐渡全体で廃屋が3300軒くらいあって、その内2600軒は補修すればなんとか活用できそうだということが分かっていました。ただ、他にも住人が不在で手付かずの状態の家があります。行政では詳細を把握できていないのが現状でした。

そういう情報は、きっと地元のお母さんたちが知っているはずだと思いました。そこで、婦人会の集まりに参加しました。金井地区で味噌やお漬物づくりを行うお母さんたちを手伝い、顔見知りになれるようにしたんです。

すると、思った通り、お母さんたちは空き家の情報をたくさん持っていました。空き家と言っても、家財道具がまるまる残っていたりするので、見知らぬ人に簡単に教えられる情報ではありません。「この人に教えたら何か解決につながるかもしれない」と思ってもらうことが大切でした。

それから、調査した空き家の情報を、協力隊のブログで発信するようになりました。私自身、家探しでは、暮らしをイメージできる情報が少なくて苦労しました。なので、もっとイメージしやすいように、その物件で暮らしたときに五感で感じるものや、ちょっとしたストーリーも一緒に伝えていこうと思ったんです。

たとえば、庭に咲く水仙から良い香りがするとか、家の中にあったこけしの置き物について熱く語ったりとか。そしたら、私のコラムを楽しみに読んでくれる方や、持ち家について相談にきてくれる方が現れるようになったんです。

実績ができて、だんだん市役所でも私の取り組みが認められるようになりました。ひとつずつ、できることが増えていきました。

シェアスペースの運用を始める

ある日、空き家調査をしている中で、売りに出ている小さな物件を見つけました。もともと旅行が好きで、いつか島で観光や民泊事業をやりたいと思っていたので、ぴったりの物件だと思ったんです。この物件で、ゲストハウスをやってみようと思い立ちました。

このくらい小さければ、私でもなんとか管理できそうだと思ったんですよね。家を買う勇気はなかなか出なかったんですが、やっぱり都心で買うよりも、島の方がはるかに安くて。古い家なので改修も必要ですが、自分たちで直せば費用も抑えられるので、購入を決めました。

しかし、ゲストハウスの構想を持って保健所に話を聞きに行くと、この家のサイズでは設備が足りなくて、増設が必要だと分かったんです。想定していたコストと全く合わなくなってしまいました。

代わりにここで何をしたいかを考え直したときに、人が集まって、交流と情報交換ができるシェアスペースを思いつきました。元々、ゲストハウスが好きだったのも、いろんな人が集まるリビングの空間が好きだったんですよね。いろんな人が集まって、新しいことが生まれる感覚。それは、ゲストハウスではなくとも、シェアスペースというかたちで実現できると思ったんです。

実際に家の改修を始めると、ここが人が集まる場所になると確信しました。例えば、「古民家デパート」を開催したこと。掃除中に冠婚葬祭用のお皿が40枚くらい出てきたことがあって、私は使わないけど、誰か他に欲しい人がいるかもしれないと思ってガレージセールをしたんです。多くの人が来てくれて、掃除まで手伝ってもらえて一石二鳥なんです。

また、ご近所さんたちも、一緒に家を掃除しながら、古い品物を見つけてくれました。その中で、廃材もたくさん出てきたんです。何か利用できないかなと考えて、ものづくりのワークショップを思いつきました。障子にカラー和紙を張って、ステンドグラス風にアレンジしたり、大工さんを呼んで、廃材からベンチを作ったりしました。

みんなでものづくりをする体験って、島では珍しいんですよね。しかも、ものづくりっていうと、参加者は男性が多くなりがちですが、女性の私が主催していることもあって、島の女性たちも多く参加してくれました。子どもを連れてきてくれる人も多くて、いろんな人がつながる感覚がありました。

自分の可能性を感じられる場所へ

地域おこし協力隊としての3年の任期を終え、今は移住者の相談対応の仕事をしながら、プライベートの時間でシェアスペースの運営に取り組んでいます。今まで役所の一部だった移住者のサポートセンターは中間支援の立場にして、できることをもっと増やしていければと思います。

シェアスペースは、この3年でワークショップ開催の基礎はできたと思うので、これから具体的な運営の段階に入ろうと考えています。集まる人が可能性を見つけられる場所にしたいですね。佐渡に住んでみたい人、土日だけカフェを開いてみたい人、スキルを学んで大工や農業などに挑戦したい人、自分の可能性を一つでも見つけられるような機会を提供したいです。

ワークショップをする中で感じるのは、人がつながっていく面白さです。これをしたいと話すと、他の角度からこんなことができるよとか、詳しい人を紹介するよとか、化学反応が次々に起こっていきます。みんなが一緒に走り始めて、盛り上がっていく感じがとても楽しいですね。

だんだんと私の取り組みを応援してくれる人も増えて、都会の生活では味わえなかったようなやりがいを感じるようになりました。都会ではその他大勢の一人になってしまうけど、ここではシェアスペースの運営で地域を盛り上げる人として、たくさんの人が応援してくれます。

自分が企画することで、人が興味を持って集まり、つながりの円が大きくなる。ものづくりを教えてくれる大工さんも、仕事が増えるし、自分のスキルを提供して喜ばれる。取り組みを通して、集った人たちが喜びや可能性を感じられる。その役に立てることがすごく嬉しいんです。

これからも、「人と情報と縁をつなぐ」場を提供し続けたいですね。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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