つくろう、島の未来

2024年11月21日 木曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

「食」の道を歩み続けた、栄養士。
地域おこし協力隊として、壱岐に嫁ぐ。

栄養士になり、「食」の道を歩み続けてきた豊永さん。壱岐出身のご主人と知り合ったことをきっかけに、地域おこし協力隊員として壱岐へ移住することを決めました。都会から島への移住、島での子育てなどを経験した豊永さんに、これまでの半生をうかがいました。(編集:another life.編集部)

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豊永レイコ(とよなが・れいこ)。壱岐の地域おこし協力隊として活動後「最後かもしれない商店」を運営する。2児の母。

おいしいものに囲まれ、食の道へ

福岡県の糟屋郡で生まれました。福岡空港の近くです。小さいときから楽天的で行き当たりばったりな性格でした。漫画を読んだり、料理本を読んだりするのがすきな、インドアな子どもでした。

父は魚市場で働いていて、母の実家が天ぷら屋さんだったので、いつもおいしいものに囲まれていました。その後、父が独立して、お魚と総菜、お寿司をやっているお店をはじめました。福岡の産地直産スーパーのなかにテナントとして入っているお総菜屋さんみたいなお店です。

そういう家系だったので、自然と「食」に興味を持つようになりました。自分にとっては食に関する仕事をするのが当然、という気持ちでしたね。

高校生になってから少し太ってしまって、ダイエットをはじめました。電車通学で歩くことも減ったし、おいしいものがたくさんありましたから。それがきっかけで、食事だけでなく、健康のオタクにもなりました。

進路を決めるとき、食に携わる仕事というのは決めていたんですけど、そのなかから栄養士になることを決めました。人間は食べ物によって作られていて、食事で病気が治ったり、命が助かることもあると思っていたので、病院や、海外青年協力隊などの栄養士になりたいと考えたんです。

それで、高校卒業後、栄養士の短大に進学しました。でも、栄養学の勉強をしたり、保育所などで実習をしていくうちに、健康にとっては食べ物がそこまで重要だとは感じられなくなってしまったんです。

病院では、糖尿病や肝臓の悪い人のための食事って、すごく細かいんです。命にかかわるので当たり前ですよね。結局、患者さんにとって、食事よりもお医者さんの治療の方が有効なんですよね。それで、小難しく健康のことを考えるよりも「おいしく楽しく食べられるのが一番だな」って思うようになったんです。

それで、おいしいものを提供できる、企業の商品開発の仕事に興味を持ち始め、卒業後は福岡の食品会社で働き始めました。

3つの職場で「食」に携わる

わたしが働いていた工場は、給食の冷凍デザートと冷凍パイシート、冷凍春巻きを作っているところで、主にその3つのジャンルの商品を担当しました。

新商品の開発もあるんですけど、既存商品の量が多いので、既存商品のマイナーリニューアルなどもやりました。たとえば、同じ果物を原料としていても、年度ごとに果汁の味がちょっと違うので、分量を変えなくても大丈夫かっていうテストをしたり。同じ品質を常に出すって、結構大変なんです。あとはクレームの原因を追究したり、取引相手に送るアレルギーや原材料についての仕様書・栄養計算の書類の作成などもしました。

食の現場で作る側を経験できて、すごく楽しかったです。原料が搬入されるところから検査する人がいたり、金属チェックを何回もしたり、「こんなところにもこだわるんだ!」という驚きが、たくさんありました。

でも3年目になって、ずっとこの仕事を続けていくのかなと思うと、ワクワクしなくなってしまったんです。前に友達と、「入社して3年経ったら一緒にハワイとアメリカに行こう」という約束をしていたこともあり、ちょうどいいタイミングなので、仕事を変えてみることにしました。

工場だとお客様の顔が見えないので、今度は、食べ物を提供して、お客様に喜んでもらうところを見たり、一緒においしさを共有したりできる仕事をしたいと思いました。

ちょうど、とある輸入食品を扱うスーパーが福岡に進出するタイミングで、店長候補を募集していたんです。それで転職して、アルバイトさんたちの指導や店舗の売り上げを伸ばす工夫をする仕事をはじめました。

輸入食品を扱うスーパーなので、新しい食品が続々と入荷されてきました。見たこともないような食べ物がいっぱいあって、買っては試してっていう生活をして、すごく楽しかったです。同僚も食品好きな人が多くて、情報交換できるのも良かったです。

でも、この職場も2年で辞めることにしました。集客のため、試食サービスを入り口でやっていたんですけど、タダで試食品を配っても、お店で何も買ってくれない人がいて。ケチでまじめな性格の私には、なんだか割り切れなかったんです。

また、立場が上になると、お客様と関わるよりもお店の売り上げを上げるための施策を考える仕事が多くなっていて、現場感がなくなってしまったんです。それも、辞めた理由のひとつです。

父のお店が人手不足だったこともあって、実家のお惣菜屋さんを手伝うことにしました。それまで調理の経験はあまりなかったので、調理の修行も兼ねてでしたね。

料理人になった弟と両親、雇っている食のプロの方たちと一緒に働いていました。余ったマグロの頭やトロの骨の部分などをみんなで食べたりして、贅沢三昧でしたね。

壱岐へ移住し、結婚・出産を経験

30代になって、長崎県の離島、壱岐島の人とお付き合いするようになりまりました。彼は壱岐で働いていたので、福岡と壱岐の遠距離恋愛です。そういう生活が1年くらい続いて、将来どうするかを考えるようになりました。結婚を意識していたのですが、単身で壱岐に行くのは勇気がいるので、迷っていたんです。

福岡がすごく好きだし、地元を離れるのもさみしい。両親と離れるのも心細かったです。また、それまで沖縄の島に行ったことがあるくらいで、特に島暮らしに憧れていたわけでもありません。

でも、主人も壱岐を出たくないということでしたし、このまま遠距離恋愛していても先が見えない。そんなことを思っていたときに、壱岐に住む人のブログを通じて、地域おこし協力隊の募集があるのを見つけました。

募集されていた協力隊の仕事内容は食品開発や情報発信で、わたしにぴったりでした。協力隊として行けば、仕事がありますし、仕事内容も楽しそう。友達も作りやすいかなっていう気持ちもありました。

それで、地域おこし協力隊に応募して、採用されることになって、壱岐に移住しました。33歳のときです。それまで壱岐には何度も行っていましたし、「いやになったら帰ればいい」という気楽な気持ちでした。

遊びに来てたときは、「壱岐は海がきれい」という、ベタな印象でした。実際住んでみると、島内でほぼ自給自足できる食の環境に感激しましたね。壱岐は、種をまけばたいがいのものが育つと言われるほど肥沃な土地なんです。離島なのに水も豊富で、お米の自給率は100%超えなんです。土がいいのか、根菜系もおいしいです。

1年目は、壱岐の食資源の調査や壱岐のことを知る作業をしました。農家の方と協力してドレッシングを作ったりもしました。

それと並行して、主人と結婚する運びになりました。移住したときはまだ結婚するつもりはなかったんですけど、両家顔合わせをしたらトントン拍子で話しが進みました。

その後、すぐに妊娠しました。協力隊として働き始めて間もない頃で正直、辞める方向になると思いました。そしたら面談してくれた副市長が、「人口増えることが一番だよ!」って言ってくれ、休職扱いにしてくれたんです。わたしも上司も、びっくりしました。

1年更新の契約なら難しかったと思うんですけど、協力隊の期間が3年ということもあって、手続き上も大丈夫だったみたいです。そこから、7か月お休みをいただきました。申し訳なかったんですけど、ご厚意に甘えました。

協力隊の任期が終わり定住へ

出産後は、それまで感じた壱岐の食の魅力を発信しようと思い、情報冊子を作りはじめました。壱岐牛と壱岐焼酎と寒ブリがメインです。観光連盟主体で、壱岐のブランディングをする事業があって、それのお手伝いをしたりもしました。

協力隊として最後の3年目になって、定住に向けて何をしようか考えるようになりました。自分で新しい商品を作るには、加工場が必要になりますし、衛生管理のことなど考えると、現実的ではありません。それで、島に既にある魅力的な商品のプロデュースをすることにしたんです。

注目したのは、ゆずを使った商品でした。わたしが福岡から壱岐に遊びに来ていたときは、壱岐のゆずが名産品だっていうことを知らなかったんですが、移住してからゆずの商品を食べてみて、「こんなにおいしいものがあるんだ!」って感動しました。

ゆず胡椒なんてどれでも大差ないと思っていたんですけど、壱岐のゆず胡椒を食べたらすごくおいしくて。壱岐では昔からどの家庭にもゆずの木が一本はあると言われるほど、身近な柑橘類のようです。

また、ゆず商品と同じくらい印象的だったのが、作っている島の人の魅力です。加工場に行ったとき、とても優しい人ばかりで、この人たちと一緒になにかをしたいと思ったんです。

商品は島内ではある程度売れてはいたんですけど、もっと違うお客さんにも販売していきたいと思っているところで、思惑が合致した感じですね。それで、一緒に柚子の加工品を売っていくことにしました。

都会から島へ移住して思うこと

現在は、「最後かもしれない商店」というブランド名で、ゆずの加工品をプロデュースしています。柚子ごしょうと、日本全国で壱岐にしかない「ゆべし」という調味料と、ゆずシロップを販売しています。壱岐島内だけでなく、長崎や福岡のお店でも販売していて、通販もやっています。

元々あった商品のパッケージを可愛くデザインし直しています。観光客や旅行者の人にとって、パッケージって大事じゃないですか。旅行する人は30代や40代のお金がある女性が多いと思うので、そういう人に向けのコンセプトで作っています。

「最後かもしれない商店」という名前にしたのは、生産者の高齢化や人口減少の影響で、いつまで手に入るか分からない商品だからです。私の仕事は、壱岐島の「これが最後かもしれない商品」の魅力と、生産者の方々の知恵や営みを伝えること。その営みが続くように応援し、ゆくゆくは後継者となる人との出会いを作れたらと考えています。それで、「最後にならなかった商品」が壱岐島に生まれることを目指しています。

壱岐に住み始めて4年目になります。ほとんどのことが島内ですみますし、もし何かあっても、高速船だったら1時間で福岡に行けるので、不便さは感じていないですね。

いいところは、やっぱり食の豊かさです。主人のおばあちゃんが作った野菜を持ってきてくれたり、漁師の親戚がお魚をくれたりするので、本当に新鮮なものを食べられます。

釣り好きの人には、壱岐はぴったりだと思います。主人も釣りをしているんですけど、ブリやスズキ、アジやキスなど、新鮮な魚がたくさん釣れるんです。

昔から食が大好きだった私にとって、子育てをしながら壱岐の食に携われる島での生活は、本当に充実しています。2人目の子どもが小さいこともあって、しばらくは子育てを優先しようと思いますが、仕事でやりたいことが、まだまだたくさんあります。扱う商品を増やしていくのもいいし、料理教室をやったり、農家さんの体験メニューを作ったりするのもいいと思います。試行錯誤中、という感じですね。

これからも壱岐に住み続けて、いろんなことをしていきたいです。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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