つくろう、島の未来

2024年12月08日 日曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

牛を守り、故郷を守る。
島の牛飼いを絶やさないためのシステムを作る。

西尾光隆|牛飼い。長崎県佐世保市の宇久島にて、畜産業を行う。

五島列島の最北端にある宇久島(うくじま)で、牛の繁殖農家を営む西尾さん。幼いころ、牛飼いには絶対ならないと思っていた西尾さんが、今の職業に就くことになったきっかけとは。お話を伺いました。

牛飼いの家に生まれる

長崎県佐世保市の離島、宇久島に生まれました。実家は島内で牛飼い農家をしていて、親父が全体の管理や餌やりを、母親が子牛にミルクをやっていました。繁殖農家で、生まれた子牛がある程度大きくなったら、競りにかけて売る商売です。

僕も小学生のときは、祖父や祖母と一緒に両親の手伝いをしに牛舎へ遊びに行っていました。でも、小学校高学年くらいから、手伝いをするのが嫌になってきました。

機械があまり使われていなくて、労働力は人間の力のみって感じで。普通ならパワーショベルとかを使うような重労働を、ひたすらスコップでやらされていました。

体力的にきついし、親から厳しく指示されることも多かったです。牛が食べるための飼料米も植えていたので、稲刈りのときは全身が痒くなったりして、それが嫌で嫌で。中学生くらいになると、何かにつけて部活だ勉強だと言って家の手伝いから逃げていました。牛飼いなんて、絶対にやりたくないって思ってましたね。

自分は長男ですが、親から実家を継げとか言われることはなかったので、牛飼いにはならないと考えていました。ただ、牛は結構好きだったので、将来は獣医になりたいと思っていました。島内は牛だらけでしたし、何となくなりたいなという、ぼんやりしたイメージです。他になりたいと思うものはなかったですね。

獣医になって、いつか島に戻って開業したいと思っていました。島で獣医として食べていくのは難しいんですけど、もしできるのであれば開業して、親が引退する頃には家の仕事もできたらと。

獣医になりたい高校生時代

獣医学部は基本的にどこも偏差値も倍率もすごく高いんですよね。島には同じくらいの年の人が少なくて競争もそこまでないから、進路に対する危機感は持っていませんでした。

それが、模試を受けたとき、初めて自分の成績が希望する獣医学部に全然届いていないと知りました。焦りましたね。それから、真剣に勉強するようになりました。

しかし、現役では志望校に受かりませんでした。一年間と期限つきで、長崎の予備校で浪人することに決めました。もしダメだったら、農業大学校で畜産を学ぶと決めていましたね。

浪人生活中は、寮に缶詰状態でしたが、勉強した分成績が上がるので楽しかったです。ただ、獣医学部には合格できませんでした。

落ちたときは本当にショックでしたね。でも、落ち込んでずっと塞ぎ込むような性格でもないし、ダメだったら農業大学校行くって決めてたので、切り替えは早かったです。牛飼いになるのは嫌でしたが、農家以外の畜産関係の仕事や県庁の職員になる人もいたので、行ったらどうにかなるかなと思っていました。

親からは、もう1年浪人しても良いと言われましたが、これ以上親に迷惑をかけられないですし、元々じっとしているのが性に合わないので、勉強だけするのは嫌だって思いました。それで、20歳になる年に農業大学校に入りました。

牛に魅せられた農業大学校時代

畜産学科では、同級生11人のうち3分の2くらいは実家が畜産をやっていました。僕の家は、そのとき20〜30頭くらいの牛がいて、ある程度大きい牛舎でしたが、同級生の中には1頭しか飼ってない家もあり、比較的小規模の畜産農家ばかりでした。それでも、その子たちは牛のことがめっちゃ好きだったんです。

例えば、牛には馬みたいに血統があるのですが、その血統に詳しかったり、良い牛になりそうとか分かるんです。他にも、牛に関する知識をすごくたくさん持っていて、僕のほうが年上でしたが、逆に尊敬していました。

それから、牛について勉強するようになりましたし、友達とも牛について色んな話をするようになりました。一緒に新しい牛の血統を調べてみて、あの牛はやっぱり良いねって話したり。血統によって特徴が出るので、それを見てどの血統か当てたりしていました。

1年生のとき、畜産農家に研修に行くんですけど、その研修で行った先の農家は牛を100頭くらい飼っていました。そんな規模の牛舎は初めてで、家で手伝っていたことはほとんど役に立たなくて、怒られてばかりでしたね。

でも、そこから、どうしたら良いかを自分で考えられるようになりました。農家の人たちに、うまく導いてもらったんです。研修が終わってからも、土日で学校が休みのときは遊びに行って、仕事を手伝うようになりました。

農業大学校に入学した当初は、楽しいとかはあまりなくて、なんとなく授業を受けていましたが2年間牛漬けの生活をするなかで、自分が牛飼いをするとしたらどんなことをしたいか、イメージが広がりました。だんだんと、牛飼いの魅力に染まっていったというか。牛飼いって良いな。自分もやろうかなって思い始めたんです。

でも、2年で終えて島に帰っても、果たしてちゃんとできるか不安がありました。農業大学校は2年間に加えてもう2年、大学院みたいな進学ができます。進学すると、畜産試験場という研究機関での研修も受けられます。せっかくなら、研究機関に入って、長崎県の畜産の取り組みを知ってからでも遅くないと思って、進学することに決めました。

牛飼いになろうと決めてから、学びの日々

農業大学校を卒業して、宇久島に戻りました。ただ、すぐに実家に戻ったわけではありません。新規就農制度を利用して、補助金をもらいつつ、島内で先進的な取り組みをしていた畜産農家で働かせてもらいました。いきなり実家に帰っても、すぐに給料を出せる働きができるわけではありませんから。

その農家は宇久島で一番飼育頭数が多く、競りに出す牛の状態もすごく良いと評判でした。最先端の技術や機械を、どこよりも先に導入していたんです。頭数が増えると管理が大変になるので、いかに効率化するか、その仕組みを学びましたね。

その農家では、2年間働かせてもらいました。2年目は空いている時間も増えたので、空いた時間で実家の手伝いをしました。

実家に戻ってから、牛舎の管理が父親から僕に変わりました。帰ってきた当初は自家の経営状態は全然わからなかったのですが、まずは島内で一番頭数の多い畜産農家にしたいと、漠然と思いました。

繁殖農家には繁殖成績というのがあって、多くの畜産農家は、親牛が50頭いたら年間50頭の子牛が産まれる「年一産」を目標にしています。自分の家はそれすらできていないことがわかったんです。競りに出す牛の状態もあまり良くなくて、まずはそういう所を変えていこうと決めました。

餌のやり方や飼育方法を工夫しましたが、なかなか上手くいきませんでした。人工授精も行っていましたが、上手く着床しなかったり、調子の悪い時期が続きました。

牛も人間と同じように十人十色というか、1頭1頭違うので、同じやり方でもダメな牛もいます。やっぱり個体ごとに工夫する必要があって、マニュアルが絶対に作れない仕事だからこその苦労がたくさんありました。

牛を守ることで故郷を守る

現在は、宇久島で家業の畜産を行っています。自分の家には、常時80頭くらいの牛がいます。僕は、家畜人工授精師の資格もあるので、自分の家だけでなく他の家の牛の種付けもしています。

子牛は、年に5回行われる競りに出すのですが、その時に良い状態の子牛を出せたときは、やっぱり達成感がありますね。産まれた時に出荷時の目標体重を決めるのですが、その目標に到達できていたり、病気にならずに育ってくれると嬉しいです。

年一産を目標にしているので、人工授精のときに調子よく妊娠してくれると、良かったなって安心します。そういう時にこの仕事のやりがいを感じることは多いです。

ここ数年、宇久島の牛飼いの数はどんどん少なくなっています。飼う人がいなくなれば、当然牛の数も減りますよね。島の人が牛飼いをやめる主な理由は、労働力の不足です。管理者の方が高齢になると、体力的にきついから管理ができなくなるんですね。かと言って後継者もいません。

牛飼いをやめるときに、牛舎も壊して更地にしてしまうこともあります。島に畜産の基盤はあるので、牛舎を使わずにただ腐らせていくのはもったいない。何とか活用していけないかと考えているんですが、なかなか難しいですね。

今考えているのは、経営と運営を分けること。持ち主が管理できなくなった牛舎を、名義はそのままにして、餌やりとか畑仕事は、他から人を雇ってやるということをしたいんですよね。人材はひとつの会社が従業員として雇っていて、そこから各牛舎へ人を派遣していくというスタイルで運営していけないかなと考えています。

人さえいれば、まだ牛は飼えるので。僕も、家の仕事の合間の時間は知り合いの牛舎を手伝いに行っていて、それをもっと大きな規模でやっていきたいんです。そういう会社があれば、島に帰ってきた人に仕事を提供することもできますしね。

宇久島の産業を支えているのは間違いなく畜産で、牛がいなくなればこの島は無人島になるかもしれません。自分が育った故郷が無人島になってしまうのはやっぱり寂しいですよね。

ただ、畜産が残っている限り、少なくとも年5回の競りのときには島外から何十人もの人が来るんですよね。自分の故郷を守るためにも、牛飼いは絶やしたくないですし、増やしていきたいと思っています。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

関連する記事

ritokei特集