つくろう、島の未来

2024年10月14日 月曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

小さな集落の小さな活動が、大きな輪となる。
故郷に捧げる、元警察官のセカンドライフ。

深田和幸(ふかだ・かずゆき)|種子島鉄砲隊・中種子火縄銃保存会会員。元・警察官という経歴を持ち、現在は鹿児島県の保健所に務める傍ら、土日を中心に種子島鉄砲隊・中種子火縄銃保存会会員として精を出す。

東京での警察官生活を早期にリタイアし、生まれ故郷の種子島(たねがしま|鹿児島県)に戻った深田さん。故郷を離れ、東京で見つけたやりがいを捨て、地元に戻ったきっかけとは。地元で見つけた、次なる目標とは。お話を伺いました。

種子島に育まれた幼少期

鉄砲伝来の地として知られる鹿児島県の種子島に生まれ、高校卒業までを中種子町で過ごしました。まず車もないですし、バスも朝昼晩の3本しか走っていないような場所なので、遊び場は海か山。竹藪に入って探検ごっこをしたり、ヒヨドリを捕る罠を作ったり。やんちゃな子どもでしたね。

実家が農家だったので、小さい頃から農作業をよく手伝わされていました。でも、実はそれがイヤで仕方なくて、学校から道草して帰っていたんです(笑)

高校卒業後の進路を考えたときも、やっぱり農業はやりたくないと思っていました。でも、みんな雇用先がないので、島を出ざるを得ない状況で。鹿児島・大阪・東京の3箇所に、それぞれ散らばっていきました。なかでも、大阪を選んだのは交通の便が良く、程よく遠いという理由でした。3人兄弟の長男ですから、いずれ戻ってこようという気持ちで、種子島をあとにしました。

大阪に行って約3年間、警備会社で働きました。テーマパークとか行きたいところにすぐに行けたり、なんでも近くで買えたり、いろんなものも見られたり。最初は、都会での暮らしもいいなと思いました。でも、田舎に行くと落ち着くんですよ。休みの日には、バードウォッチングに行き、眠たくなったら車の中で昼寝して、鳥の鳴き声で目を覚ます。結局、そんな田舎暮らしが好きなんだと気がつかされました。

大阪での生活にもすっかり慣れたある日、親父から一通の封書が送られてきました。開けて見ると、警視庁の受験申込書でした。「なにこれは?」と思って親父に電話すると、「受けてみろ、一回。落ちようが何しようが、それで俺の気が済むから」と言われました。

農業の行く末を案じてのことだと思います。365日焼酎を呑んでばかりで、好きになれない親父でしたが、反発心はありませんでした。別に目標があるわけでもなかったので、素直に受けてみようかなと思えました。あとは、高校時代から付き合っていた彼女が東京に住んでいたこと。彼女の存在は大きかったかもしれません。

その時ばかりは、一生懸命に勉強しました。公務員の試験問題集を買ってきて。真剣に勉強した結果、警視庁への採用が決まり、東京に出ました。

「やりがい」のある仕事との出会い

警視庁では、警備・公安にかかわる部署にいました。詳しくは話せませんが、面白いと思える仕事でしたね。捜査しても、最終的に検挙するときは一瞬。でも、それまでの過程がその瞬間に報われるんです。事件や事故の裏側には、被害者がいます。その人たちに報告できるという、「やりがい」を感じることができました。

プライベートでは、その後もずっと付き合っていた彼女と結婚。お互いの両親が先々心配なので、種子島にいずれ戻ろうとは話していました。

そんな公私ともに充実した生活を送るなか、47歳の時にお袋が突然亡くなったんです。その日は非番で、やっと新潟に着いたというときに電話が来ました。入院してとか経過があれば考える余地もあったんでしょうが、まさに寝耳に水の状態で。それでも、「人生の転機」だと女房とも相談して、親父に島に戻ることを告げると、「俺はまだ大丈夫」という言葉が返ってきました。もちろん親父を心配する気持ちはありましたが、正直もう少し仕事をしたいという想いもあったので、しばらく東京に残ることにしました。

結局、その5年後、ちょうど勤労30年の節目で退職することになりました。上司の口癖が「Next one!(次行くぞ!)」で、送別会を開いてもらったときにかけられた、その言葉は一生忘れません。「種子島に帰っても、また一旗揚げろよ」「辞めても同じ仲間だからな」とか、ともに頑張ってきた仲間たちの言葉は涙が出るぐらい、本当にうれしかったです。

故郷でセカンドライフをスタート

義両親の認知症もあり、定年を迎える前に、種子島へ戻ることを決心しました。51歳なら戻っても、いろいろなことに挑戦できると思ったんです。具体的にやりたいことがあったわけではありません。昔可愛がってもらったおばさんやおじさんを病院に連れて行くとか、戻ってくれば、なにかできることがあるんじゃないかと思ったからです。

でも相変わらず、農業を継ぐ意志はありませんでした。ただ、先祖代々受け継いだ土地を荒らしてはいけないという想いはあったんです。人に貸すにしても、近くにいなくちゃならない。そういう感覚で戻ってきました。

ひさしぶりに戻ってきた種子島は、ほとんど変わっていませんでした。人間が優し過ぎるくらいに優しい。仕事から帰ると、ドアに「お裾分け」の入ったビニール袋がかけてあったりして。都会だったら不審物騒ぎになるところですけど、親戚や集落の人たちがパッと持ってきてくれる。子どもの頃に見た、変わらない文化がまだ残っていました。

変わったところと言えば、人が少なくなったことと、介護施設の類が増えていることで。この集落には「向井力士会」として、祭りの場で相撲を奉納するという習慣が受け継がれていたんですが、人口の減少と少子化によって、名ばかりで相撲をとることもなくなっていました。そこで、なにか地域興しになることをやろうと、私もまもなく力士会に加わったんです。

「JAXAの増田宇宙通信所のところに桜を植えたい」と以前から話していたので、まずは具現化して。そこの地名をとって「牛之原桜同志会」と改め、ひなまつりを開くようになりました。活動の一環として、男女が太鼓や鐘、扇子を持って踊る、郷土芸能の「ヤートセー」も35年振りに復活させることができました。

中種子町にも鉄砲隊を

地域活動をしている中に、イベントでの火縄銃試射などを行う「鉄砲隊」の活動にも興味を持つようになりました。種子島は、島の中で3つの町に分かれています。私の住んでいた中種子町には鉄砲隊がなかったのですが、西之表市には60年、南種子町にも20年の歴史ある鉄砲隊があって、入れてもらえないかと願い出ました。でも、メンバー全員が賛同しなければ入れないという決まりもあり、次の総会まで待つことになって。半年後、待ちきれずに自分から電話すると、「ああ、そうだったね」の一言で、実現には至りませんでした。

やっぱり中種子町にも鉄砲隊を作らなきゃいけないと感じて一念発起。「種子島の中に鉄砲隊3つも要らないんじゃないの?」という意見もありました。でも、1市2町、いずれも「伝統を絶やしたくない」という志は同じだと思うんです。そこからは早かったですね。 6月から始動し、夏休みには大阪の澤田平先生から砲術を教えてもらって。射撃にも行き、鉄砲も買い、9月24日には総勢10名で種子島鉄砲隊を立ち上げました。

鉄砲隊装束を身にまとって、チャーター機で来られる観光客の歓迎や、町民体育祭といった慣例行事の際に試射をするのが、具体的な活動内容です。「ロケットマラソン」のスタートを知らせる号砲試射もしています。

そのほかにも、甲冑を試着できたり、鉄砲に因んだ諸道具を見れたり、手作り弓矢の的当てや竹とんぼを楽しめたりする、「もののふ祭り」を開催して。いろんな人が集まって、出店してくれたりもして、すごく盛り上がりました。

こうした活動を積み上げてきたことで、ある程度ベースができたと思います。いろんなイベントでの試射はもちろん、「牛之原桜同志会」として2~3月にかけて雛祭り、6月には「もののふ祭り」、12月には餅つき大会。この3本をこなしていこうと話しているんです。

小さな集落からはじめる地域興し

今年2017年は、種子島初となる女性メンバーも加入し、11名体制での活動がますます楽しみになりました。一日一善じゃないけど、一年一善みたいな感じで新しいプロジェクトをやろうと、個人的には考えています。毎年なにかひとつ新しいことをするということで、これまでも実行してきたつもりです。

最近だと、増田戦跡について理解を深めてもらうために案内板を立てました。この辺りは、九州海軍航空隊種子島基地の関係者の宿舎があったところなんですよ。防空壕や指令室、弾薬庫、掩体壕、レンガ製の煙突が残る風呂場や炊事場もある、大事な遺構です。

基地建設により強制移転させられた経緯もあり、今でこそ18世帯ぐらいですが、かつて増田校区では最大の集落とも言われていました。終戦とともに再入植を認める御触れが出て、私の先祖は戻ってきたわけですが、戻らなかったという人もやっぱりいるんです。すでに違う地区で、定住の地を構えちゃったもんだから。

しかも、その子どもが私たちと同じ年代で、一緒に活動しているメンバーだったりするんですよ。だから、これからも共に活動を続けていくと同時に、その歴史も伝えていきたいなと思っています。

正直、私たちが毎年こういう活動をするだけでは、あまり状況は変わらないかもしれません。ただ、「あいつらの人数であんなことできてるんだから、俺たち何倍いる?」と、別の集落・地区の人たちが思うことで、あちこちでいろんな活動が出てくる。そうなって、初めて地域興しがはじまるんじゃないかなと思います。だから、こんなに小さな集落でやっている活動ですけど、「あんなことできてるよね」「よくやってるよね」と感じてもらうことができればと。

そんなに大層なものじゃなくてもいいと思うんですよ。例えば、集落で除草作業しようというときも、みんながバッと集まる。たまには仕事だけじゃなくて息抜きもしようと、潮の良いときには磯遊びに行く。そういう機会を増えれば、気がつくと地域活性化になっていたってこともあると思うんですよね。

最終目標としては、やっぱり種子島全体が盛り上がらないとダメなんですよ。切磋琢磨しているという側面もあるんでしょうけど、1市2町がそれぞれ頑張っているという感じで、種子島としてひとつになれていない。それが東京から戻ってきた私の感じることでもありました。

種子島がひとつになるためにも、若い人たちが先頭に立つ必要があるんじゃないかって。昔ながらの考えがすべて悪いわけじゃないんですけど、まだ古参の人たちが幅をきかせている気がします。増田校区では種子島出身以外の人たちが増えてきているので、そういう人たちとも一緒になって活動できればいいですよね。

観光協会を見ても、今の若い人たちは情報発信の仕方をよくわかっている。種子島にも、そんな得意分野を持っている人たちがいるわけで。大ベテランだけで組織をつくってもなかなか上手くいかないなら、若い人たちの知恵をどんどん借りて、新しいアイデアも発掘していけたらと思いますね。

そうすることで、火縄銃をはじめ、種子島に伝わる数々の財産を後世にも残したい。そう願っています。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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