「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。
八丈島の大自然と、作り手の顔が見える乳業を。
離島で酪農ができると証明するために。
東京都の八丈島(はちじょうじま)で自然放牧にて乳牛を育てる魚谷さん。牛の感情を大切にするための自然放牧という選択や、離島での酪農のモデルケースになりたいと考える背景には、どのような想いがあるのでしょうか。お話を伺いました。(編集:another life.編集部)
魚谷孝之(うおたに・たかゆき)|チーズ職人 八丈乳業株式会社にて、チーズやプリンなど、乳製品の加工品を作る。
美味しいものを食べて健康に暮らす
生まれは山口県ですが、育ちはずっと横浜でした。活発で、サッカーが大好きな子どもでした。小学3年生からは、Jリーグ開幕と共にできたクラブチームに所属しました。
中学時代には地区の選抜にも選ばれ、本気でJリーガーを目指すようになったのですが、高校入学と同時にその夢は諦めました。地域外から来たうまい選手を見て、上には上がいると分かり、自分の限界を感じてしまったんです。サッカーを辞めようとは思いませんでしたが、プロ志向ではなく、自分のレベルをどこまで上げられるかという方向にシフトしました。
大学は農学部に進みました。生物に興味があったのと、巷で話題になっていた環境問題に貢献できる学問だと思ったのが決め手です。
メインで研究したのは、ラクトフェリンというたんぱく質のはたらきです。すごく面白い成分で、人間にとって有害な菌やがん細胞を殺す一方、ビフィズス菌や乳酸菌のような有用菌を増やすんですよ。その不思議なメカニズムに興味を持ったんです。
そのまま大学院に進み、研究を続けました。もう少し研究を続けたら、何か発見できるんじゃないかという予感があったんです。実際、大学院ではラクトフェリン存在下における有用菌の増殖促進メカニズムの一部を解明することに成功しました。
ただ、卒業する頃にはこれ以上研究を続けようとは思えませんでした。研究はやりきったという実感がありましたし、人の生活にダイレクトに影響を与えられる仕事をしたいと思ったんです。研究を続けても、成果を人々の生活に届けるまでには、数年単位の長い時間が必要になりますから。
もっとタイムリーに人の暮らしの役に立つ仕事をしたいと考えたとき、より根本的な「美味しいものを食べて健康に暮らす」という人間の生活の基本に関わりたいと思いました。それで、千葉県の乳業の会社に就職を決めました。
自分の力を活かした復興支援
会社では、主にチーズの製造を担当しました。どうすれば美味しいチーズができるのか、最初は全然わかりませんでした。
僕のイメージだと、チーズ作りには2種類のスタイルがあるんです。混ぜたり冷やしたりするタイミングの見極めを、数値ベースでする人と感覚でする人です。どちらかというと僕は感覚タイプで、数値に頼りたくない気持ちがありました。
研究みたいに正確な数値を測ることが、美味しさに繋がるとは思えなかったんです。感覚を掴むまではなかなか大変でしたが、その分やりがいはあって、仕事は大好きでした。
就職して5年ほど経つ頃、東日本大震災が起きました。その時、現場で何かしなきゃと思いました。この震災を自分自身の体験にしなきゃいけないという気持ちが強かったんです。
将来、震災について自分の子どもに話すときが来たら、自分が震災で何を感じたか、何があったのか、体験とともに伝えたい。実際に行かないとわからない匂いや、そこに住んでいる人の気持ちをしっかり自分の中に入れたい。そう思ったんです。
そのためには、仕事を続けながら片手間で被災地に行くのではなく、終わりを決めずに行く必要があると思い、会社を辞めて被災地に向かいました。2011年5月の連休明けからボランティア作業を手伝いました。
その後、被災地には二週間だけ滞在して、すぐに帰ってきました。というのも、僕なら別の形で支援できることに気付いたからです。
現地の方から、放射能汚染の風評被害のせいで、せっかく作った米や野菜の買い手が見つからないという声を聞いたんです。それなら、被災地でできた農作物の放射能濃度を測定して、安全を証明することが復興支援になると思ったんです。
現場の力仕事で支援するのも大事だけど、理系の自分の力は放射能の測定で活かせると思い、横浜にある放射能を測定する研究所に入りました。
島の味がする牛乳を作りたい
研究所では、日本各地の農作物の「放射性同位体」の測定をしました。ようは、どれくらい放射能汚染されているかを調べるんです。
職場は、本当に過酷な労働環境でした。1日も休みが取れないほど忙しいんです。でも、自分たちが休んでしまったら、被災地の作物の測定が停滞して、被災地の農家が苦しむ期間が伸びてしまいます。そう思うと休む気も起きないような状況でした。
頑張らなければいけないと思うほど、自分たちの首を絞めていました。忙しさと使命感の板挟みで、精神を病む同僚もいました。そういう状態を、放射能の三次被害と呼んでいました。このままだと三次被害で自分たちがおかしくなってしまうと思いつつも、被災地を想うと辞められず、葛藤する日々が続きました。
2年ほどそんな状態が続いたとき、そのままでは自分が倒れてしまうと思って、思い切って4日間の休みを取りました。行ったことがない場所に、使ったことがない手段で行ってみようと決めました。飛行機も電車も乗ったことがあるので、使ったことがないといえば船くらい。横浜から船で行ける場所ということで、東京の離島、八丈島に行くことにしました。
癒されたいという一心で、リセットしてもう一度放射能の仕事を頑張ろうと思っていました。ところが、船の上から八丈島がパッと見えたときに、自分の中で何かのスイッチが入ってしまったんです。
ひょうたんの形をした島が見えた瞬間、すごくワクワクして。八丈島が、まるで日本ではない、どこか新しい世界のように見えたんです。ここで何かしたいと、直感的に思いました。
島に上陸して、レンタカーで島を回るうちに牧場を見つけました。八丈島で酪農ができるとわかった瞬間に、船の上で感じた「何かやりたい」が「チーズをやろう」に繋がりました。
ところが、島で売られていた牛乳とアイスとプリンを食べてみたら、「島の味」がまったくしなかったんですよ。こんな大自然があるのに、なんでその味がしないんだろうってびっくりしました。
あとから調べたら、乳牛が島の草を食べてないとわかりました。だからこんなに島らしさが感じられないんだと納得できました。自然の草が沢山ある最高の環境なのに、なんてもったいないんだろうと思いましたね。だったら、島の味がする牛乳を自分が作ろう。そう決心しました。
放射能の研究所をやめる決意はすぐに固まりました。封印していた乳製品への想いが、島に来たことで解放されたんだと思います。震災が起こらなかったらずっと続けたと思うくらい、大好きな仕事だったので。
色々調べると、八丈島の酪農のスタイルが、山地酪農と呼ばれる、まさに自分のやりたかった酪農だったことがわかりました。それで、八丈島の乳業会社の社長と直接話して「これからの八丈島を酪農で盛り上げていこう」という話で意気投合し、一緒に働くことになりました。
動物の心を尊重したい
2013年の4月に八丈島に移住しました。最初に取り組んだのは、牧場づくりでした。島の牧場は後継者がいなかったこともあって、自分たちで酪農からやることにしたんです。
乳牛には主に2種類、白と黒のまだら柄のホルスタイン種と、茶色一色のジャージー種というのがいるのですが、日本の酪農では99%がホルスタインです。島で唯一の牧場にいたのもホルスタイン牛だったんですが、自社牧場では、ジャージー牛を島外から連れてきて、育て始めました。
八丈島の地形に合ってるのはジャージーだったからです。ジャージーは足が短いので、足が長いホルスタインよりも斜面をしっかりと登ることができますし、人間に名前を呼ばれると意味を理解して動いてくれるくらい賢いので、放牧にぴったりなんですよ。
ただ、ずっと慣れ親しんだホルスタイン牛乳とは味が違うので、島の人にはなかなか受け入れてもらえませんでした。値段もホルスタインの牛乳と比べるとかなり上がってしまい、新しい牛乳を応援したいと言って買ってくださる方はいたものの、長期的な売り上げには繋がりませんでした。
結局、移住から1年半で会社が潰れてしまいました。ほとんどの従業員は抜けてしまいましたが、僕は、帰ろうとは全く考えませんでした。
八丈島の乳業をかき回しただけでやめるなんてできません。それに、自分たちの都合で連れてきた牛たちに対して「経営がうまくいかないから、もうさよなら」なんてことはできなかったんです。そんな自分勝手な理由で牛を手放すのであれば、二度と乳業に関わってはいけないと思ったんです。続けていくことしか頭にありませんでした。
その想いの根本にあったのが、「アニマルウェルフェア」という考え方です。動物にも感情があるから、それを大事にしましょうという思想です。日光や草を重要視する酪農スタイルの根底にある考えですね。
牛の感情を尊重することで、牛乳の味は変わるんです。そう考えるようになったきっかけは、東日本大震災でした。地震が起きた日の夜に搾った牛乳って、味が全くしなかったんですよね。牛たちも怯えていたから、成分がガラっと変わってしまったんだと思いました。本当に白い水を飲んでいるような感じだったんですよ。そのときから、味も感情によって左右されるんだと思うようになったんです。
できるだけ牛を手放さないためにはどうしたらいいか、社長と試行錯誤を続けていたところに、八丈島でホテルの経営や観光協会の仕事をしている方が、資本を入れて会社を立て直してくれることになりました。
酪農という大きな観光資源が消えてしまうのは観光産業全体にとっても大きな痛手だから、一緒に経営して守っていきましょうと言ってくれたんです。会社の名前は変わりましたが、引き続き事業を続けられることになりました。
ストーリーが見える牛乳
現在は、八丈乳業株式会社にて、八丈島の乳業に携わっています。利益率が低い牛乳の販売からは一度撤退して、プリン・ジェラート・チーズ・ヨーグルトなどの加工品に注力しています。
八丈島の酒蔵とコラボして、焼酎ジェラートや焼酎チーズも作ってます。特に焼酎チーズは好評で、生産が追いついてないほどです。こうやって八丈でしか食べれない商品を増やしていって、観光にも繋がればいいなと思います。
また、今は販売を止めてしまっていますが、牛乳にはこだわり続けたいと思っています。そもそも、この会社が生まれたのは、島の給食の牛乳を守るためだったんです。
以前は農協が牛乳を作っていたんですが、利益が出ずに撤退することになりました。でも、島から牛乳がなくなるのは哀しい。農協がだめなら民間でやろうという有志の声から立ち上がったのが、この会社だったんです。
島の人たちは八丈島の牛乳を飲んで育ってきたから、守りたい気持ちが強いんですよね。僕も、その気持ちに応えていきたいと思ってます。だから牛乳は復活させたいですし、学校給食として週に一度でも出せるようにするのが目標です。
この島で牛乳が立ち行かなくなってしまったのは、島外から持ってくるえさ代が高すぎること、牛飼いに後継者がいないこと、島外から入ってくる安い牛乳の存在、この3つの原因があると考えています。
えさ代に関しては、島の草でまかなえるように整備しているところなので、あと2年もすればかなり楽になると思います。
牛飼いの後継者については、ありがたいことに応募が沢山あるんです。日本のほとんどの牧場は牛舎で牛を飼っているので、放牧をやりたい人が八丈島に集まってきてくれてるんだと思います。
牛舎は効率的で管理もしやすいですが、牛の寿命は放牧で育てた方が2倍くらい長いと言われています。長い目で見れば絶対に放牧の方がいいと思うんです。そういう情報も、もっと発信していきたいですね。
普段飲んでいる牛乳を提供してくれた牛がどうやって育ったのか。寿命がどれくらいなのか。そういうところまで伝えていくのが大事だと思いますし、そういうストーリーまで含めて買う風潮が消費者の間でも強まっていると思うんです。
その点、島の牛乳って、作り手がすごく見えやすいんですよ。この草はあそこのおじさんが持ってきてくれた草だとか、関わってくれたすべての人の顔が見えるから、愛着が湧くんです。
都内から来た人に「この草はトシオさんって人が刈ってきてくれたんです」って言って「トシオさんにすごい会ってみたいです」なんて話が膨らんだりすると、本当に嬉しいですよ。そういうストーリーの価値が、島外から来る安い牛乳との差別化にも繋がるとも思ってます。
自分たちの事業を軌道に乗せることで、離島でも酪農ができるっていうモデルケースになるのが一番の目標です。個人的には、八丈島に限らず、離島では酪農が必要だと思っているんです。
離島って聞くと、魚や野菜がたくさん採れるイメージがあると思うんですけど、漁業と農業って天候が崩れると大きなダメージを受けてしまうんですよね。その点、牛は大雨でミルクが絞れないとかはまずないですから。だから離島には酪農が必要だと思うんです。
酪農や畜産はミルクやお肉という恩恵を与えてくれます。離島で問題になっている耕作放棄地の有効活用にも一役買って出れるかと。草さえあれば放牧はできますし、八丈島くらい南の地域だと通年で青い草が手に入るので本当に理想的ですよ。
そういう意味で、離島での酪農ってすごく可能性があると思うんです。僕たちを見て、離島でもできるんだと思ってもらえたら嬉しいですね。別のところでどんどんやってもらいたいので、ノウハウはいくらでも提供します。
そういう風に、酪農の輪が繋がっていけば嬉しいですし、八丈島のひとつのブランドとして、色んな人に来てもらえたらいいですね。