つくろう、島の未来

2024年12月09日 月曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

旅の延長線上を生きる。
一人と一匹で朝焼けの海を眺める日々の幸せ。

米澤江理子(よねざわ・えりこ)|ジャマイカ料理店経営。種子島でジャマイカ料理店「STEPPIN’ LION(ステッピンライオン)」を運営する。

鹿児島県の種子島(たねがしま)で、夫婦でジャマイカ料理店を営む米澤江理子さん。30歳で種子島へ移住し、島の人々に手伝ってもらい完成した料理店は、様々な人々が訪れ、楽しい交流の場になっているそうです。福岡の都会で育った米澤さんが種子島に移り住んだ理由とは?お話を伺いました。

動物園で働く夢を諦め

福岡県北九州市で、3人きょうだいの末っ子として生まれました。末っ子だったからか、人目を気にする性格でした。人並みにならなければいけないって、小さい頃から思っていましたね。

住んでいた場所は新興住宅地で、友達とは空き地に基地を作ったりして遊びました。動物が大好きで、野良猫を基地の中で飼っていたこともあります。本当は家で犬を飼いたかったのですが、母の反対により飼うことができませんでした。

動物への愛着はどんどん強まり、学校に野良猫を連れて行って教室で飼ったこともあります。通学路にネズミの死体が落ちているのを見つけた時は「かわいい〜」と思い学校に持って行き、引き出しの中に入れて眺めたり触っていたこともありました。(笑)それくらい動物が大好きだったんですね。

中学3年生になって進路を決める時、将来は動物園で働きたいと宣言しました。ところが、なぜか先生に止められてしまったんです。やめた方がいいと言われて、打ち砕かれたような気持ちでした。

それからは、将来のことは考えられませんでした。高校卒業後は、情報秘書科の専門学校でパソコンや秘書の勉強をしていたのですが、惰性でした。専門学校卒業後は福岡の会社で受付事務の仕事に就きました。

景気が良かったため、それなりにお給料をもらって、ほしいものを手に入れる生活を送りました。ただ、都会の生活も好きでしたが、将来はスーツを着ているような人とは結婚しないと思いましたし、田舎の方に住みたいなとは思っていました。ただ、田舎暮らしはひとりではできないと思っていました。

社会人になっても動物好きは変わらず、乗馬を始めました。小中学生の時、友達が乗馬を習っていたのが羨ましくて、私も乗馬を習いたかったんですが、当時はお金がなくて諦めました。仕事を始めてから、自分で稼いだお金を使い、念願だった乗馬を習い始めたんです。

乗馬は楽しかったですね。馬を触れるだけで嬉しいんです。だけど、乗馬のレッスンでは、引っ張られている馬に乗るだけで、自由に走れるわけではありません。もっと自由に馬を走らせてみたいという思いが芽生えました。

心臓がぎゅうっと掴まれる感覚

社会人になってからは、海外旅行も頻繁に行くようになり、24歳の頃にはちょっとマニアックなツアーに参加しました。行き先はモンゴルです。モンゴルなら、草原の中で自由に馬に乗れると思ったんです。

首都のウランバートルからボロボロのバスに乗り、10時間近く揺られて、「ゲル」と呼ばれる遊牧民のテントが並ぶ草原に降ろされました。そこで1週間、遊牧民の人々と共に寝泊まりをしたのです。

草原では遊牧民の馬を借りて、自由に乗って走ることが叶いました。日本での乗馬レッスンとは違い、モンゴルでは安全面のことなどは一切お構い無しです。遊牧民と一緒に馬に乗り、とても楽しく過ごしました。

生活は、一見すると過酷そうな環境です。ゲルには水道も電気もトイレもありません。ヤクという動物の後ろに桶をつけて、川まで水を汲みにいくんです。綺麗な水ではありませんが、それが飲み水になり、顔を洗ったり歯を磨いたりする時に使います。トイレは土の穴を掘っただけのもので、後ろを振り向くと馬に乗った少年が走っていたこともありました。(笑)

ハエも体中にまとわりつくような環境でしたが、私は全然平気だったんです。人間ってこんなところでも生きていけるんだなと思いました。

一緒にツアーに行った人の中には、お腹を下してしまったり、環境に馴染めない人もいましたが、私は平気でした。それどころか、不思議と懐かしい気持ちにすらなりました。私の祖先はモンゴル人だったんじゃないかと思ったほどです。心臓をぎゅうっと掴まれるような感覚でした。

遊牧民に嫁いだ日本人ていないのか、本当に探すほどでしたよ。帰国してからもモンゴルへの思いは消えず、2年後にまた行くことにしました。以前泊めてもらった家族に会いたいと思いましたが、遊牧民は常に異動しているので、ツアー会社の人にも居場所は分からないと言われてしまいました。

それを承知でモンゴルに行ってみると、偶然、以前お世話になった家族の子どもたちを見つけて再会することができたんです。驚きましたね。ツアーでは別の家族のゲルに泊まることになっていたのですが、家族たちに「おいでおいで」と言ってもらい、またそこに泊めてもらうことになりました。

この時、やっぱりモンゴルで暮らしたいと思いましたね。モンゴルは無理でも、田舎に住みたい。ただ、それは将来的な話で、目の前の現実的な選択ではありませんでしたね。

意気投合した彼と種子島に移住

モンゴルで暮らしたいという気持ちを抑えつつ日本で暮らしたある時、家族で鹿児島の離島、屋久島(やくしま)の山を登りました。大雨の中、整備されていない道を歩き、縄文杉を目指しました。ほぼ山の中にいましたし、かなり過酷な道中だったのですが、島の魅力を感じました。

田舎の雰囲気や、緑の中にいる空気感がすごく落ち着いたんです。モンゴルに嫁ぐのは難しくても、日本の島だったら本当に住めるかもしれないとも思いました。

その後、福岡でお付き合いを始めた人は、サーフィンが好きで、ゆくゆくは田舎に住みたいと考えていました。すぐに意気投合して、田舎に移住しようと決めました。

場所は、サーファーの聖地、鹿児島の離島、種子島に決めました。ふたりとも行ったことがなかったので、まずは下見に行きました。レンタカーに乗って、畑に出ているおじいちゃんやおばあちゃんに「この辺に空き家はありませんか?」と聞きながら島を一周したんです。

すると、一軒だけ空き家を紹介してもらうことができました。入ってみると、盆提灯が倒れているような古いボロ家でした。こんなところに住めるのかと思いましたが、片付けたら何とかなるだろうと思って、入居を決めました。

その時、私はOL9年目でした。10年は会社で働きたいと思っていたため、彼が私より1年早く種子島へ渡り、移住することにしました。その1年後に私も種子島へ渡り、海辺で結婚式を挙げました。

島に来てからは、サトウキビ畑や牛小屋の手伝いなど、いろんなアルバイトをして生計を立てました。2年目には、自分たちでお店を開くことにしました。

私がモンゴルに思いを寄せるように、夫はジャマイカにルーツを感じる人でした。ジャマイカで勉強した料理を生かして、夫婦でジャマイカ料理店を構えることにしたんです。ふたりとも企業に勤めていたので飲食店経験はありませんでしたが、ものづくりは好きですし、とにかくやってみようと思いました。

店を建てる時には、地域の人たちが色々と手伝ってくれました。余ったビニール素材をくれたり、トラックで運搬をしてくれたり。自分たちで外装を塗装したり、水道管を引っ張ったりして1年がかりでお店が完成しました。

開店当初は人がなかなか集まらず悩みました。地元の人からしたら、怪しい奴らが移住してきたって思われていたのかもしれません。夏場はサーフィンのお客さんで賑わうこともあるのですが、オフシーズンである冬場は客足が途絶えましたね。

店をやりつつ、アルバイトをしながら生活しました。それでも、続けていると地元の人が「よその人が来て何を作ったんだろう?」と訪ねて来てくれたりして、徐々にお客さんも増えてきました。

夫婦で営むジャマイカ料理店

現在は、夫婦で「STEPPIN’ LION(ステッピンライオン)」というジャマイカ料理屋を運営しています。看板メニューは「種子島バーガー」です。

お客さんは、地元の方が多いですね。色々な価格帯のメニューを出しているので、お客さんの年齢層が幅広いのです。小学生が一人で来ることもあれば、娘さんが80歳のおばあちゃんを連れてくることもあります。生まれて初めてハンバーガーを食べたという方もいて、喜んでもらえるのが嬉しいですね。

また、種子島にはロケットの基地があるので、NASAの精鋭たちがたくさんやってくることもあります。ある時、我が家の子どもと同い年の子がいるアメリカ人の人が来て、以後、文通やクリスマス交換を何度か行いました。他にも、「移住したいんだけど、どうしたら良い?」と相談しに来る方もいます。色々な人との出会いがあることも、店をやる楽しみの一つになっています。

お店をやりつつ、今も月の半分はアルバイトに出ています。でも、種子島で生活するのには、そんなにお金はかかりません。家賃はびっくりするほど安いですし、近所のおばちゃんが野菜や魚など色々なものをくれるので、OL時代のようにお金を稼がなくても、生活の豊かさは満たされています。

島に来て、欲が少なくなったように感じます。昔は、いい車に乗って可愛い服をたくさん買いたいとか思っていましたが、島では誰かと比べる必要もないので、見栄を張る必要がないんです。人目を気にしなく鳴って、身が軽くなったような感覚です。

種子島に来てからは、念願の犬を飼い始めました。犬を連れてビーチを歩き、朝焼けの赤い海を見ている瞬間や、夜の星空を見てボーっとしている時がいちばん幸せです。犬も15歳のおじいちゃんですが、空気が良いのでとても元気です。

将来的には自分の親も種子島に呼ぶことができたらと考えていますが、大きな病院が島の中にないことが悩みどころです。それ以外には、島独特の人との距離感やルールがあるので、人々と距離を置かずに仲良くなることは大切だと思います。私は一人が好きですが、集落活動もあるので、「住まわせてもらっている」という意識を忘れないようにしています。

将来のことは、私も主人もあまり深く考えていません。人はいつ死ぬか分かりません。それなら、毎日を心から楽しめればいいじゃないかという心持ちでいます。

種子島の生活は、毎日が新鮮で、まるで旅をしながら生きてるみたいです。例えば、昨日まで生い茂っていた草むらが刈られるだけで、目の前に広がる景色は一気に変わって、それだけでも楽しいというか。その新鮮な気持ちを持ち続けられるこの生活は、まるで旅の延長線みたいです。

これからも、悔いなく毎日を楽しみながら生きたいです。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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