つくろう、島の未来

2024年03月19日 火曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

子育てのため、島に移住。
願うのは、大きな心を持ち育つことだけ。

島根県の西ノ島にて、漁師として生きる武藤さん。大好きな地元を離れ、離島で暮らし始めるには、どのような経緯があったのでしょうか。お話を伺いました。(編集:another life.編集部)

武藤康弘|漁師 隠岐諸島の西ノ島にて、まき網船に乗る。

地元の逗子が好き

神奈川県逗子市で生まれました。兄が二人いる末っ子です。実家が海の家をやっていたので、夏はずっと海に入り浸っていましたね。シーズンオフは、友達と山で駆け回り、自然で遊ぶのが好きでしたね。活発な性格だったと思います。

中学では剣道部、高校ではラグビー部に入りましたが、中途半端に終ってしまい、後悔が少し残りました。もっと打ち込めばよかったと思いましたね。

高校生の頃は、将来のことを全く考えていませんでした。とりあえず、専門学校に進学して仕事に就こう、という程度でした。地元が好きなので、出ていこうとは思いませんでした。

それで、2年間電気関係の専門学校に通い、電気工事の仕事を始めました。仕事は面白かったですね。建物の内側の配線を工事したりするんですが、自分で作業した箇所がきれいにできていると、達成感ややりがいを感じました。

ただ、バブルが崩壊してから、建設業界は一気に不況になりました。給料もちゃんと支払われないことが増えました。それまで身を粉にして働いてきたのに、そんな仕打ちは無いだろう。さすがにこのまま働き続けることはできない。そう思い、3年で辞めることにしました。

その後、建設業界は避けて、24時間稼働している工場で警備員をしました。契約社員だったので、正社員になれる仕事は探さなきゃと思いつつ、4年ほど働きました。

島で暮らしたいという妻の希望

25歳で結婚して、翌年、翌々年と子どもが生まれました。子どもが2歳と3歳になる頃、妻が島で暮らしたいと話しました。

妻は元々、東京都の離島、式根島でリゾートアルバイトをしていた経験があって、子育てのことを考えて島への移住を切り出したんです。子どもはいい環境で育てたい。自然に囲まれた島は子育てに最高だと言うわけです。

深刻に相談されたというよりも、ちょっと暮らしてみたいなという、軽い感じでした。それで、東京で開催されている離島の物産展などに足を運んでみることにしました。

私も式根島には行ったことがあったので、島自体はいいところだなと思っていましたが、島で暮らすことを現実的にイメージしていたわけでもなかったですね。それでも、妻が行きたいと言うならいいかなと。

島で暮らすとしても、仕事がなければ話にはなりません。沖縄の島での仕事など探しましたが、給料が安くて生活するのは厳しそうだと思いましたね。それからも、島に限らず、田舎暮らしのフェアなどがあれば行くようになりました。

色々見た中で、島根県に住みたいという気持ちが強くなりました。島根県の人のブースでの対応が丁寧で、人柄も良くて、この人たちと一緒に暮らしたいと思ったんですね。もはや島ではなく、島根に暮らしたいと思い始めました。

ちょうど、島根県の離島、隠岐の島で移住体験ツアーが開催されていたので、行ってみることにしました。初めて訪れた隠岐の島は「だいぶ都会だな」という印象でした。人口は1万5千人くらいいて、道路も舗装されているし、式根島とは全然違いましたね。

隠岐の島で暮らすなら林業をやりたいと思いましたが、仕事は見つかりませんでした。もし仕事が見つかったら引っ越そうと思いましたね。

移住先、西ノ島での暮らし

1年ほど島での仕事を探している時、隠岐諸島の西ノ島で漁師を募集しているのを知りました。漁業フェアに行った時、欠員が出ていると聞いたんです。

元々体を動かす仕事をしていたので、農業か漁業か林業ならぜひやりたいと思っていました。実際に漁業を体験させてもらい、何とかなりそうだと分かりましたし、新規漁業者の就業制度を使えば数年は交付金も出ます。

思い切って西ノ島に移住して、漁師になることに決めました。島で暮らすことに不安はありましたよ。不便さは覚悟していましたが、それよりも住民に溶け込めるかどうかです。3,000人程度の島なので、うまくやっていけるか不安でしたね。

移住したのは29歳の時。とにかく、島の環境に慣れることに集中しました。最初は、物価が高いことやお店が少ないことに不便さを感じましたし、病院も心配でしたね。診療所ではなくて病院があるので、他の島よりは設備が整っていますが、子どもの病気は不安でした。

生活は、わりとすぐに周りに溶け込めたと思います。子どもがいたので、島の人に受け入れてもらいやすかったんだと思います。島に子どもが来ると、みんな喜ぶんですよね。私たちが知らない間に名前を覚えてもらっていたりと、ウェルカムされている感じはしました。しかも、周りの人はいきなり距離を詰めてくるわけでもなくて、非常に心地いい距離感でした。

漁師の仕事は、最初は地獄でしたね。私は、まき網漁を行う船の一人として雇われました。揺れる船の上で網を手繰るのが、本当にきつかったです。全然できなくて、父親くらいの年齢の船乗りたちに毎日怒られました。工事現場で何かを言われるのには慣れていましたが、それでも精神的なダメージはありましたね。

でも、ここでやめたら負け。それじゃ島に来た意味がない。そう思って、何とか耐えましたね。

仕事中は鬼のように厳しい先輩たちも、船を降りるとすごく優しいんですよね。3ヶ月くらいすると大分慣れてきて、後輩ができてからはかなり楽になりました。3年もすれば、仕事も覚えて大分簡単な仕事だと思うようになりましたね。

ただ、来た時からずっと不漁が続いていて、生活はかなり大変でした。貯金を取り崩して生活しました。やめようとは思いませんでしたよ。漁はいい時期と悪い時期があるものなので、とにかく耐えようと思いましたね。

子どもが小学校に入る時や卒業する時は一つの区切りなので、島を出るかどうか話すこともありました。でも、島を出たいほど嫌になることはありませんし、子育てにはやっぱりいい環境なので、島に住み続けました。

子どもたちの故郷を盛り上げたい

現在、西ノ島に来て12年が経ちました。私が乗るまき網船には12人の乗り組み員がいます。沖まで船を出し、何百メートルもあるまき網を海に刺し、鯵や鯖、鰯などを取ります。仕事は慣れてしまえば楽なものですね。

島での生活は、何もないので退屈さを感じることはありますが不満はありません。毎年、お盆休みと正月に実家に帰省しているので、その時に都会の成分を充電しているような感じですね。都会に行く機会がなかったら、退屈しているかもしれませんね。

それでも、子どもたちを見ていると、島に来てよかったと心から思いますね。4人の娘は、みんな素直で純粋に育ってくれたと思います。大自然の中で遊ぶ環境がありますし、回りの人もまるで自分の子どものように暖かく接してくれます。漁に出るのが夜なので、日中は家にいて、子どもと触れ合う時間も圧倒的に多いです。学校行事などは全部出られるので、子育てをするには本当にいい環境だと思います。

子育てが終わった後もこの島に住み続けるかは、まだ決めていません。僕の故郷は逗子なので、やっぱり人生の最後は地元で迎えたいという気持ちが強いですね。この島は好きですが、自分の故郷というのは変わらないんだと思います。

ただ、子どもたちにとっては、この島が故郷です。都会で暮らしたいというか、島で暮らしたいというかはそれぞれだと思いますが、自由に選んでほしいなと思います。子どもたちに願うのは、色々な人と接して、大きな心を持ってほしいということくらいです。

娘たちの故郷だということを考えると、島がもっと元気になってほしいという気持ちはあります。Iターンで来た人は、島の中で少し元気がないような印象があります。私もそうでしたが、自分の生活で精一杯で、地域活動にあまり積極的に取り組めないんですよね。

島を盛り上げるような団体もできて、島起こしはこれから活発化していくと思います。地元の人に元気がないと島に来た人も楽しめないと思うので、島の人と一緒に取り組むことで、地域が盛り上がるようなことができればと思いますね。

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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