つくろう、島の未来

2024年10月03日 木曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

大自然に囲まれた島、知夫里島。
子育てをするのに最高な環境。

島根県の知夫里島に移住し、子育てをしながら夫の行う渡船業を手伝う福山さん。初めての島ぐらし。夫の故郷に移住する前に持っていた不安は、移住後どのように解消されたのでしょうか。お話を伺いました。(編集:another life.編集部)

福山友希|渡船業・民宿手伝い。知夫里島で暮らす。夫の経営する「福山渡船」の運営をサポートする。

都会への憧れを持つ女の子

島根県松江市で生まれました。長女で、弟がひとりいます。小さい頃は、やんちゃで活発な性格だったと思います。家でゲームやおままごとをすることもありましたが、川遊びなど、外で遊ぶことが多かったですね。

私が通っていた学校は、1クラス30人もいない程度の規模で、中学は一学年4クラスで同級生は100人くらいの規模でした。中学生の頃は料理が好きで、将来はケーキ屋さんになりたいと思っていました。両親が共働きで家に帰るのが遅かったので、米とぎや味噌汁づくりなど、食事のお手伝いをするようになったんです。また、父が料理関係の仕事をしていたことがあると聞いていた影響もありました。

ただ、高校生になる頃には、料理関係の仕事をしたいとは思わなくなっていました。それよりも、タレントや女優など、テレビに出る仕事をやりたいと思い始めていたんです。それで、高校では演劇部に入りました。

ところが、演劇は私がイメージしていた世界とは全く別物でした。「戦争をなくしたい」とか何かのメッセージがあって、それを伝えるための脚本や演技があると知ったんです。最初は面食らいましたが、メッセージを伝える演劇の世界にハマっていきましたね。

演劇の他に、高校ではプログラミングや簿記などを学びました。マルチメディア科だったので、ホームページやイラストの作成などの勉強がメインでした。

都会に出なくてもできる憧れの仕事

高校卒業後は、都会に出たいと考えていました。単純に憧れがありましたし。

しかし、親からは反対。夢とか目標とかがあったわけではなく、憧れ程度だったので当然です。勉強したいとは思わなかったので、大学や専門学校の選択肢はなく、ただ都会に行きたいと言ってましたから。都会に出られないなら仕方ないと思い、地元に残って就職することにしました。

最初は渋々だった地元の生活も、すぐに、都会には住まなくてもいいと思い始めました。自分で稼いだお金で、簡単に都会に遊びに行けたんです。アイドルが好きで、コンサートなどに足を運びました。

高校時代は、都会に出たいと思っても自由に行けなかったので、憧れだけが強くなっていましたが、意外と楽に行ける。行きたい時に行けるなら、住まなくてもいいと思ったんです。

仕事は、最初は家電の販売をして、その後、松江城開封400年祭のPRをしました。「まつえ舞姫隊」に所属して、歌ったり踊ったりしながら、県外で松江城のことをアピールしました。

また、憧れていたモデルの仕事をするようにもなりました。知り合いから『美少女図鑑』に出ないかと誘われたのをきっかけに、ショップの専属モデルや、旅行雑誌でのモデルなどもしました。

それまでは都会に出なければできない仕事だと思っていましたが、島根でもチャンスはあるんだと気づきましたね。

夫の夢のため、島に移住

22歳の時に、夫と出会いました。彼は島根県の離島、知夫里島出身で、いつか地元に戻って渡船業をやりたいと話していました。

知夫里島は隠岐諸島にある島で、人口は600人程度。彼がやろうとしていることなので応援はしていましたが、私は隠岐諸島には一度も行ったことがなかったので、具体的なイメージは持てませんでしたね。

次第に、彼に連れられて、知夫里島に行くようになりました。最初の印象は、「田舎の中でも田舎だな」ということ。観光していると、たぬきが道から出てきたり、放牧されている牛がそこら中にいたり、びっくりすることばかり起きるんです。私も島根育ちで、自然に触れている方だとは思っていたんですけど、全然違いましたね。

彼と知り合って数年経つと、移住して起業するという話が、どんどん具体的になってきました。私は仕事をしている彼の姿が好きでしたし、応援したい気持ちはあったんですが、正直、起業とか安定しない仕事って大丈夫なのかだろうかと、不安もありました。応援したいけど、起業に対してはあまりいいイメージがないというか。

彼と知り合って数年経つと、移住して起業するという話が、どんどん具体的になってきました。私は仕事をしている彼の姿が好きでしたし、応援したい気持ちはあったんですが、正直、起業とか安定しない仕事って大丈夫なのかだろうかと、不安もありました。応援したいけど、起業に対してはあまりいいイメージがないというか。

また、島で暮らすことも、すごく前向きなわけではありませんでした。映画とかカラオケとか、娯楽がないのが不安でしたね。ただ、子育てをするにはいい場所なんだろうなとは感じていました。釣りなどをしながら、大自然の中で子どもが遊べる環境はいいなと。

不安はありましたが、この人と結婚したいと思いましたし、結婚したら島に行くんだろうなと徐々に自覚しました。それで、2015年、26歳で結婚して知夫里島に移住しました。

暮らし始めて最初に感じたのは、物価が高いこと。野菜や乳製品が高いんですね。また、子どもの食べ物の種類もあまり多くはありません。

ただ、ないものは通販を使えばいいので、不便さは感じなかったですね。本土にも月に1回位はいきます。主に子どものための買い物ですね。特に、子ども服のサイズが分からないので、実際のサイズを見ながら買ってきます。

住む前に持っていた不安は、すぐになくなりました。幼稚園とか学校もしっかりありますし、若い人も想像よりいました。子どもの同級生も7人。意外に子どもがいるんですよね。

娯楽はありませんが、大抵のことはインターネットで事足ります。知夫里島は暮らしやすい場所だと、住んでみて実感しています。

子どもには自然を遊び尽くしてほしい

今は、子育てを中心に、夫の渡船業の手伝いをしたり、養母の運営する民宿の手伝いをしたりしています。渡船では、島根の七類港から知夫里までのチャーター便や、海釣りをするための船を出します。隣の海士町(中之島)や西ノ島にはチャーターの渡船屋があるのですが知夫里にはなかったので、夫は渡船屋をやると決めたんですね。

私は船を操縦できるわけではないので、ホームページを作ったり、ブログの更新をしたり、事務関係のサポートをしています。まさか、高校時代に学んだホームページの作り方がいかせるとは思いませんでしたね。

知夫里島は、子育てをするのには本当にいい場所だと感じます。子どもが生まれると、みんなが声をかけてくれますし、知らない人も子どもを見てくれます。幼稚園の発表なんかも、島中の人みんなが見に来ます。本当に、島のみんなが育ててくれるような感覚です。

子どもにはこの自然を十分に遊び尽くしてほしいですし、なるべく一緒にいる時間を増やしたいですね。

あとは、私自身もママ友を増やしたいですね。月に1回の乳幼児健診で友達を作ったり、地区でのイベントに顔を出す毎に知り合いを増やしています。

知夫里島の良いところは、人の温かさだなと思います。私が好きなイベントで、「子ども歌舞伎」という2年に1回開かれるお祭りがあります。みんな知っている子どもたちがステージ上で一生懸命セリフを喋っていて、応援したい気持ちになります。島中の人が知っているお祭りなので合いの手が入ったりもして、本当に良い祭りです。

あとは、自然の豊かさですね。牛が道を歩いていたりするのって、なかなか見られるものではないと思うんです。島の人が普通だと思っているような面白いことを、島外の人に知ってもらいたいですね。友達にもたくさん来てほしいです。

知夫里島には、自分の時間をしっかりと持てる暮らしがあります。都会で時間に追われている人や、家族の時間を持てずに悩んでいる人には、とてもおすすめです。子育ても本当にし易いですし。この知夫里島の魅力を島外の人にも知ってもらうための情報発信も、今後はしていけたらなと思います。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

関連する記事

ritokei特集