つくろう、島の未来

2021年04月17日 土曜日

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第9回は、西表島(いりおもてじま|沖縄県)へ。エコツーリズムなどの観光客で賑わう上原(うえはら)集落の浜辺でビールを傾けながら、そこに見渡す限りのサンゴ礁が広がっていた、かつての情景を回想します。

カンピラ荘裏の浜辺。防波堤の向こうに鳩離島が見えている(2020年11月撮影)

上原の浜を望む丘に立ち、在りし日を想う

昨年の11月、西表島西部上原にある定宿のカンピラ荘で、久しぶりにゆったりとした時を過ごした。西表島へ行く時は、大体上原に1泊はするのだが、その前後に舟浮(ふなうき)や祖納(そない)に泊まってみたり、鳩間島(はとまじま)に滞在したりと、2泊以上することは少なくなっていた。

上原から自宅へ戻る当日の昼、裏の浜辺でしばらくぼーっとしようと、ビールと弁当を買い込み、小さな丘の上のベンチに陣取った。
まず、喉を潤そう。沖縄で飲むと格別にうまいオリオンビールの缶をプシュッ。11月とは思えない陽気に火照った体の中を、さわやかな涼気とほのかな苦みが駆け抜ける。至福のひと時だ。

左手に広がる港には小型船が並び、ガッシリしたコンクリートの護岸の陸側には、建物が連なっている。マリンスポーツなどのショップが多い。経営しているのは、大半が本土からの移住者だ。
かつては、白砂の浜と黒っぽく変色した琉球石灰岩の岩場と海岸を覆う緑しかなかった場所が、こんな風になってしまうとは。昔を知っていても、にわかには想像しがたい。それほど、著しい変化だった。

右手は大きく成長した木立に遮られて見通しがきかないが、その向こうにできた護岸の上に立てば、上原港のデンサターミナルと立派な浮き桟橋、一文字防波堤のかなたには、かすかに鳩離島(はとぱなりじま)が見えている。

まだ上原港が影も形もなかった時代、ここに立つと目の前に鳩離島が横たわり、はるか彼方には石垣島(いしがきじま)北部の山々が連なって見えた。旧暦3月3日の大潮に鳩離島まで歩いて行ったことがあったが、今でも可能なのだろうか。それとも、海底地形が変化して徒渉困難になっているのか。そんなことを思いながら、ビールをもう一口。しみじみうまい。

カンピラ荘裏の浜辺。中央は鳩離島、奥は石垣北部の島影。右は、西表島(1974年10月撮影)

40数年前初めて滞在したカンピラ荘では、連日連夜宴会が続いた。楽しくはあったが少し飲み疲れ、息抜きするためにカンピラ荘を抜け出して、すぐ裏の月光に青白く浮かび上がった砂浜に出た。はるか沖に、大型船が停泊している。

また、一週間が過ぎてしまったのか。

ほんの少しの後悔と抑えきれない浮揚感が、心に満ちてくる。暗闇に閉ざされた海上で妖しい光をそっと放っている大型船は、本土から石垣などを経由して台湾の基隆まで通っている定期船で、時間調整のため金曜日の夜に西表島沖でしばらく停泊するのだと、島人から聞いていた。

西表島に来てから、この船影を見るのは何回目だろう。

いつかはあの船に乗って、台湾へ渡ってみたい。その先船を乗り継いで、どこまで行けるだろうか。香港、サイゴン、シンガポール、コロンボ。アラビアやアフリカ、ヨーロッパまで行けるに違いない。サンゴ礁の沖合に浮かぶ船影を眺めているだけで、想像の羽は果てしなく広がっていった。

上原の丘からカンピラ荘裏の海岸を一望する(1974年10月撮影)

沖縄が本土復帰を果たした2年後の1974年、初めて西表島を訪ねた。カンピラ荘の裏には、見渡す限りサンゴ礁が広がり、数メートルも泳げば枝サンゴやテーブルサンゴが重なり合うイノー(礁池)があった。

西表西部の玄関は、上原から少し東へ行った船浦港で、石垣から西部最西端の白浜へ行く別の航路もあったが、上原には港のかけらもなかった。
初めて目にした時、宿のすぐ裏でこんな光景を目にできるなんてと感動していたサンゴ礁の海は、滞在が長引くにつれて当たり前の風景になっていった。それに気づいた時、心が揺らめくような感慨を覚えた。西表と上原という土地と、わずかながらも一体化できたのではないか。

穢れなきサンゴ礁の海を称賛しても、海ってこんなものさ、という表情しかみせない島人の感覚の片鱗に触れたようでもあった。今にして思えば、背伸びして島人ぶりたかったのかもしれない。

3枚目と同じ上原の丘から、カンピラ荘裏の海岸を望む(2020年11月)

西表初訪問の2年後、1976年に宿の裏が整備されて小さな公園となった。上原を代表する民謡「デンサー節」を記念した「でんさ之碑」が立てられ、屋外に屋根付きのコンクリート製舞台も設けられた。碑の裏側には、以下のように記されていた。

――上原部落は西表島西部に在り、重要な地として宝暦七年(一七五七年)頃、人口五百七十余で創立し、明治四十三年七月、風土病マラリアの暴威に克てずついに廃村になる。大東亜戦争終結後(昭和二十三年)一九四十七年[西暦と和暦の入植年は記念碑の原文ママ]、自由移民によって部落を再建し戸数三十五戸余り。人口百五十人余りで恵まれざる環境の中、凡ゆる苦難を乗り越えて部落民和協一致の精神の下、現在の発展を見たり。(以下、略)

カンピラ荘裏の公園に立てられた「でんさ之碑」(2020年11月撮影)

すっかり変わってしまったな、改めてそう思いつつまた冷たいビールを傾ける。当時、こんなに贅沢な芸当ができるなんて想像もできなかった。すでに民宿はたくさんあったが、店も食堂もなかった。だから、当然のごとくどこの宿も3食付き。遠出する時は、簡単な握り飯の弁当を作ってくれた、と思うが記憶は曖昧だ。

昼食のメニューの定番は、ラーメンライス。大鍋にたっぷりのインスタントラーメンとご飯と簡単な総菜が用意され、それだけで満足だった。冬の猟期になると、イノシシカレーが出ることもあった。肉も入っているが、肺臓などのなじみのない内臓もたっぷり入った、今考えるとイノシシの恵みに満ち溢れた贅沢極まりないカレーだった。

それが今では食堂はもちろん、定宿の前に小さいながらスーパーマーケットまで出現して、何年経つだろう。キリリと冷えたビールからアイスクリーム、できたてのお弁当や総菜、土産物から新聞、雑誌、書籍まで、お金さえあれば簡単に手に入る。まるで夢の世界が実現したよう。

そして、かつて夢のように輝いていたサンゴ礁の光景は、記憶の中だけに閉ざされてしまった。それでも。世界遺産登録を目指す西表島は、十二分に魅力的な島ではあり、今後も体が動く限り通い続け、変化を見つめていくだろう。


【西表島概要】
●所在地
沖縄県八重山郡竹富町
●人口
2,416人(2020年12月 住民基本台帳住基人口)
●行政区分
明治41年 沖縄県及島嶼町村制の施行により八重山郡八重山村の一部となる
大正3年 八重山村が4村(石垣・大浜・竹富・与那国)に分村され、竹富村として分立
昭和21年 南西諸島の行政分離により米国施政権下に入る
昭和23年 南部琉球(米軍)郡政府の許可により竹富村から竹富町に昇格
昭和47年 日本復帰

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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