つくろう、島の未来

2020年12月03日 木曜日

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。第5回は、大海原に浮かぶ伊豆諸島最南端の島・青ヶ島(あおがしま|東京都青ヶ島村)へ。「絶海の孤島」とも呼ばれるこの島の玄関口、青ヶ島港(通称・三宝港)と定期船の変遷を振り返ります。

集落に続く崖上の道から三宝港を見下ろす(1982年8月撮影)

人と大自然が日々せめぎあう場所

このサイトを訪れる人は、島や旅に少なからず興味を持っているに違いない。
それなら「絶海の孤島」という響きに、旅心をいたくそそられるのではないか。

文字通りの絶海の孤島は稀で、国内で敢えて探せば沖ノ鳥島や南鳥島になるが、一般人は行くこともできないし、あまりにも遠い。そんな中、比較的身近な絶海の孤島といえば、伊豆諸島最南端の青ヶ島が挙げられる。
ただ行くだけなら、運賃は高くついても一番楽なのは、羽田から飛行機で八丈島まで飛び、ヘリコミューターでもう一飛びすれば青ヶ島だ。

もっとも、飛行機はともかく、八丈島―青ヶ島間のヘリコプターを予約するのは、至難の業。1日わずか9席を、よーいドンの予約合戦で奪い合わなくてはならないからだ。役場の業務でヘリを使う時も、同じように参戦しているという。キャンセル待ちが多いと、臨時便が出ることもしばしば。
運良く予約できた場合は、朝7時半頃羽田空港を発ち、八丈島経由で午前10時前には着いてしまう。青ヶ島に足跡を記したというアリバイづくりや、スタンプラリー的に島巡りをするならば、それで満足だろう。

しかし、あえて言いたい。ヘリで空から降り立つ青ヶ島は、絶海の孤島ではない。なによりも、海を渡っていく過程が大切なのだ。ピョンとお気楽に空から飛び降りては、絶海を体験したことにはならない。
真摯に絶海の孤島と向き合いたければ、少なくとも往路はぜひとも船で行って欲しい。ヘリコプターでたった20分一飛びと、黒潮を横切り揺られにゆられて3時間では、到達感は雲泥の差だ。

ちなみに、日々絶海のただ中で生きている島人たちは、ほとんど船は使わない。ヘリコプターの席が確保できないなど、止むに止まれぬ状況の時に渋々利用するていどだ。理由は、言うまでもない。今さら、絶海体験をしたくないから。

八丈島を出航して青ヶ島の姿が見えてくるのは、かなり近づいてからだ。最初はいよいよ青ヶ島か、ぐらいに思っているが、島影が迫ってくると息を呑む。絶対的な拒絶感を漂わせる脆そうな断崖絶壁に囲まれ、まるで取り付く島もない。本当に上陸できるのかと、不安に駆られる。ヘリでは、こんな感覚は味わいようもない。

漁船は架空索道で三宝港の上に運び上げられる(1982年8月撮影)

初めて青ヶ島へ渡った1982年の夏、八丈島で村営連絡船あおがしま丸(48トン、定員12名)(※)に乗船して船室に入ると、出航前からぐったり横たわる人たちに占領され、すでに満室に近い状態だった。それでも、なんとか片隅に潜り込んで居場所を確保できた。
だが、最後に飛び乗った礼服の男性は船室に入ることができず、ずっと甲板に立ち尽くすはめに。穏やかな天候の日だったのに、世界最大規模の海流黒潮を横切るので、揺れにゆれた。

(※)現在就航する伊豆諸島開発株式会社の「あおがしま丸」ではなく、1972年(昭和47年)就航の村営連絡船「あおがしま丸」

青ヶ島が間近になり甲板に出ると、ゆらぎたつ崖に囲まれた三宝港が目の前にあった。これまで、自然環境の厳しい港をたくさん見てきたが、ここは別格でただ圧倒された。どうにか無事にたどり着いたと胸をなでおろしながら、甲板にいた礼服の男性を見ると、頭から靴まで全身潮でびっしょ濡れ。

それが、当たり前の時代だった。いや、あおがしま丸は当時としてはきわめて高性能にして画期的な船で、その就航によって島社会は一気に近代化したと言われるほどだった。それ以前の渡海は、想像するだけでも恐ろしい。
今考えると運命的な巡り合わせだったかもしれないが、初めて上陸した38年前の8月17日は、村営連絡船あおがしま丸就航10周年記念祝賀会の日だった。

三宝港で行われた、あおがしま丸就航10周年記念祝賀会(1982年8月撮影)

港は海抜ゼロメートルだが、集落が広がるのは標高300mほどの台地だ。港の背後に刻まれた九十九折の急坂を一挙に100mほど登り、その後はほとんど崖のような急斜面に無理矢理拓かれた道を集落まで行った。よくぞこんなところに道をつけたと思うような崖の連続で、道も港周辺の擁壁も、始終崖崩れを起こしては通行止めになっていた。

初めて訪ねた翌々月、最大瞬間風速64.5メートルを記録した台風21号により、集落へ行く道も港周辺の三宝三叉路も大崩壊して、島内の交通は分断。これを機に、二重式火山カルデラの外輪山にトンネルを掘削して、火口原の池之沢を経由して集落まで行く道を整備することになった。生きている火山の脇腹に穴を開けてしまうというのだから、何とも凄まじい話だ。島人の願いが託された青宝トンネルは1985年に開通し、島の交通事情に大きな変化をもたらした。

三宝港を出航する還住丸(119トン)(2008年11月撮影)

それから4半世紀ぶりに出かけた青ヶ島は、崖上の都道236号は大規模崩落で一部が跡形もなく消え去っていたが、500トンクラスの船が接岸できる立派な桟橋ができるなど、三宝港の要塞化は着実に進んでいた。三宝港を取り巻くゆらぎたつ海食崖は、人間と自然が日々せめぎあう戦場のよう。島が存在する限り、賽の河原の石積のような戦いは、永遠に終わることがないのだろう。そう思うと、気が遠くなりそうだった。

2017年11月、新造船のあおがしま丸(460トン)に乗って青ヶ島を目指した。初めて青ヶ島へ渡った時に比べると、連絡船の大きさ(トン数)は10倍近い。それでも大海原に出れば、一片の木の葉のようなもの。黒潮を横切る航路でたっぷり揺られると、大船に乗っていてもふと心細く感じてしまう。大昔、ボートのような小舟で八丈島と往来していた人たちの切なさは、いかばかりだったのだろうか。

三宝港の新桟橋に停泊中の、あおがしま丸(460トン)(2017年11月撮影)

大洋のただ中に、二重式火山カルデラの山頂部が顔をのぞかせただけの青ヶ島が、周囲の荒海に削られ果てしなく崩壊し続けるのは、自然の理として受け入れるしかない。非力な人間としてその現実に向き合いながら暮らしている島人たちは、自助の精神に富んで実に逞しい。まさに、絶海の民といっていいのではないか。

訪れてみたい、青ヶ島を体験したいと願うならば、行きはぜひ船を選んで欲しい。もちろん、それなりに揺れるけれど、この40年で安定感は格段に向上した。

ちなみに、アメリカの環境保護団体ワン・グリーン・プラネットが2014年に発表した「死ぬまでに見たい世界の絶景13選」中、日本からは唯一青ヶ島だけが選出されている。

左:港待合室に掲示されていた1955年の三宝港。これでも港の最適地(提供:青ヶ島村)/青ヶ島三宝港と大崩落の痕(2017年11月撮影)


【青ヶ島 概要】
●所在地
東京都青ヶ島村
●人口
163人(2020年10月 住民基本台帳住基人口)
●行政区分
昭和15年 普通町村制施行
昭和63年 東京都青ヶ島村へ村名表示統一
●青ヶ島連絡船の変遷
1972年(昭和47年)村営連絡船「あおがしま丸」(48トン/12名)就航
1987年(昭和62年)村営連絡船「あおがしま」(75トン/12名)就航
1992年(平成4年) 伊豆諸島開発株式会社 旅客船「還住丸」(119トン/45名)就航
2014年(平成26年)伊豆諸島開発株式会社 貨客船「あおがしま丸」(460トン/50名)就航

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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