「島々仕事人」は島々に携わる仕事人の想いを紹介する企画。今回は、東京都・南青山で日本料理店「てのしま」を営みながら、瀬戸内海に浮かぶ島・手島(てしま|香川県)の再興を目指す林さん夫婦が登場。長年温め、ついに動き出したプロジェクトについて聞きました。
※この記事は『季刊ritokei』43号(2023年8月発行号)掲載記事です。フリーペーパー版は全国の設置ポイントにてご覧いただけます。
取材・小野民 写真・神ノ川智早(メイン)
東京はもはや海外のよう 戦略的に基地を据えて
東京・南青山に店を構える「てのしま」は、現代の民藝をテーマにした人気日本料理店。料理人の林亮平さんは、京都に本店を構える懐石料理の料亭「菊乃井」で修行を積んだ正統派だ。とはいえ、20カ国以上で和食普及イベントに携わりながら培った幅広い経験も持ち味。日本料理の新しい形を模索している。
店名は、香川県丸亀港から旅客船で約1時間の距離にある「手島」から名付けた。ここは、亮平さんの父の故郷であり、自身も子ども時代から通ってきた大切な場所。店に立つときに声高に主張することはないが、元を辿れば手島再興のためにてのしまは生まれた。
「社会的な認知を得てから島の話をしようと決め、東京に出店しました。僕は、東京は海外だと思って仕事しています。ここにくるお客さんは、言語も世代も民族も超えて、地球規模で『いいね』と言ってくれる人。将来、瀬戸内に来てもらいたいのも、そんな人たちです」(亮平さん)
現在、手島の人口は約20人。最盛期には700〜800人程の人が暮らし、亮平さんの子ども時代にも200〜300人が暮らしていたことを思えば、減少の度合いは激しい。
盆と正月に親戚大集合の原風景
「毎年お盆には親戚が大集合して、酒盛りをしていました。簡単な調理でも新鮮な魚はおいしいし、島の文化や自然について教えてくれるかっこいい大人がたくさんいた。手島には小さなコミュニティだからこその純粋な日本の文化が残っていて、その灯は絶対に繋いでいきたいんです」(亮平さん)
その想いは、妻であり仕事のパートナーでもある紗里さんにもしっかり共有され、なんと紗里さんの実父は手島に移住したという。一家で手島に行く際には、お互いの親が島に集合。夫婦が島での事業に勤しむ間は、両祖父母が子どもたちを見守っている。
いつか誰かが継いでいく 遠いロマンに本気で取り組む
「手島再興」の第一歩として、まず目指すのが雇用を生むこと。そのため、島周辺で賄う食材を中心とした料理が魅力の宿泊施設「てのしまの家(仮)」の建設を計画している。
また、同施設の建設に際し、計画の概要、手島の歴史や見どころ、亮平さんと紗里さんそれぞれの想いなどを『つなぐ手島の未来』という冊子に盛り込んだ。
大きさや材質の異なる紙を組み合わせた40ページの誌面に、多彩な執筆陣の寄稿と2人のカメラマンが手島に滞在して撮影した美しい写真が織り込まれた豪華版。
読み応えのある仕上がりに「本気だって伝わるでしょう」と亮平さん。1冊の本にまとめたことで、目的も明確になり、いよいよ島に注力するフェーズにきていると実感したという。
宿泊施設の建設にあたり、まずは土地の取得に着手するも、想像以上に難航中。1,000坪の地権者が100人以上に分かれているのだ。
「人が立ち入らない山の中まできっちり分けてある。手続きは大変だけど、島の乱開発を防ぐ先人の知恵というのは納得できるんです。道のりは長そうですが、地元の人を含め、協力したいと言ってくれる人たちを巻き込みながら、やっていきたいですね」(紗里さん)
いつまでに目標を達成したいか聞くと、返ってきたのは「生きている間」の答え。東京でてのしまを営みながら、手島と行き来する日々はしばらく続きそうだ。
「島に宿を開いても、“儲かる”ことはない。でも、循環する暮らしや経済を取り戻すことに賭けるのは、ロマンがある。いいことをしていれば、いつか誰かが私たちの意思を継いでくれるだろうと希望も持っています」(紗里さん)
林亮平(はやし・りょうへい)さん
1976年香川県丸亀市生まれ、岡山県玉野市育ち。大学卒業後、老舗料亭「菊乃井」の主人・村田吉弘氏に師事し、国内外でさまざまな和食普及のイベントにも携わる
林紗里(はやし・さり)さん
1978年東京生まれ京都育ち。グラフィックデザインやネットコミュニティの企画運営の仕事を経て、フィンランドに移住。修行後、日本食レストランの経営も行った
【関連サイト】
株式会社てしま企画
手島再興を目指し、2018年に夫婦で東京・南青山に『てのしま』を開業。「現代の民藝」をテーマにした日本料理を供すと同時に、寄付や協賛を募りながら手島に通い、宿泊施設建設に向けて活動。協力者も随時募集中。