つくろう、島の未来

2024年12月22日 日曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第30回は、宮城県女川町沖の出島(いずしま|宮城県)へ。2011年3月11日に発生した東日本大震災からの復興を進め、数年後に本土との架橋を目指す島の現在を描きます。

在りし日の寺間漁港(2004年10月撮影)

震災を乗り越え、架橋へ向かう出島

空は半ば以上雲に覆われ薄ら寒かったが、女川湾はよく凪ぎ、波もほとんどなかった。これならば、飛沫(しぶき)を浴びることもないだろう。しっかりダウンジャケットを着込んで後甲板に立ち、変化に富んだ海岸線に心を奪われていると、船は徐々に舳先を北へと向け始めた。

左右から陸地が迫る両側の崖で、工事が進んでいた。あそこに「出島大橋」が架かるらしい。現在は、橋の両端を支える橋台をつくっているのだろう。橋の名前はまだ決まっていないようだが、出島および周辺地域に大きな恩恵をもたらすことを願って、本稿では出島大橋と呼ぶことにする。

船の行く手の左右に、建設中の橋台が見えてきた。右側が出島(2022年12月撮影)

当初、出島大橋は2022年度完成の予定だったが、資材や人件費高騰のために工事が大幅に遅れ、2024年度の完成となっている。復興オリンピックの工事に資材も人手も奪われ、本来の復興に悪影響が出たとしたら、今も復興税を払い続けている身としては、なにが「復興」なのかと考えてしまう。

建物はあっても人が暮らす家はない出島集落(2022年12月撮影)

遠からず架かる大橋のすぐ向こうに、出島集落が見えてきた。出島に二つある集落のうち、北側の方だ。東日本大震災(以下、震災)のはるか前、2004年10月に眺めて以来の出島集落だった。その時の集落の様子をはっきり覚えているわけではないが、何かが違う。明らかに違う。

集落に建物はあっても、家が全くないのだ。建物はどれも倉庫や漁業関係の作業小屋のようで、暮らしの気配は全く感じられない。ただ、浮桟橋のゲートには「実現させよう! 出島架橋」、待合所らしきバラックの壁には「つなげ本土に届く橋」と大書され、橋にかける島人たちの熱い想いは、嫌でも伝わってくる。

本土との架橋によって人口が増えた島はない。橋がストローとなって、島の人たちは近隣の都会へ吸い取られてしまう。現実的には、そういうことが多い。また、全国的に人口が減少する中、橋一つで人口減少に歯止めがかかるとも思われない。

しかし、今回の震災のような未曽有の事態が起きた時、本土で橋とつながっているだけでどれだけ心強いことか。せっかくつくられた命綱の橋も、災害によって使えなくなることもある。それも分かっている。

橋ができれば、クルマでこっそりやってきて、島の海の幸を盗んでいく不届き者もいるかもしれない。これまで不要だった人家の鍵が、必要になるかもしれない。それでも、橋がある安心感は何物にも代えがたい。コロナ下の出島では直接確認できなかったが、他の橋が架かった島で、多くの島人がそう口にするのを聞いてきた。

生活の気配がない出島集落の桟橋にも、何人かがクルマで乗り付け、船員から何かを受け取り何かを渡し、下船した人を収容して、どこかへ去っていった。

赤灯台の右には出島開発総合センターがあった(2004年10月撮影)

出島集落を後にした定期船は、出島の南端にあるもう一つの集落・寺間へ向かった。船の行く手には、巨大な女川原発がそびえ、はるか彼方には優美な金華山の山容が望まれた。

数多くの建物があった寺間漁港(2004年10月撮影)
海岸が妙にスッキリしていた寺間海岸(2022年12月撮影)

背の高い防波堤に包み込まれた寺間漁港の桟橋では、「民宿いずしま」の佐藤淳さん(1965年生まれ)が笑顔で迎えてくれた。頼んでいたわけでもないのに、宿へ行く前に島の主な場所を案内してくれるという。まだ、16時を少し回っただけだが、12月上旬なのでもう夕闇が迫っていた。少しでも明るいうちに、島巡りができるのはありがたい。

いつも前向きな「民宿いずしま」の主人佐藤淳さん(2022年12月撮影)

まず、さっき寄港したばかりの出島集落へ向かった。暮らしの気配が感じられなかったのは当然で、震災後二十数戸が島中央部の高台に作られた災害公営住宅に移り住んだという。昔の面影を残すのは、最奥手の高台にある永清寺だけだった。寺の境内には「女川いのちの石碑」が建てられ、その下で仁王立ちする石仏の足元には、「平成23年3月11日東日本大震災津波到達地点」と記されていた。やはり、寺や神社のある場所は、歴史的に見て安全地帯らしい。

柵越しに架橋工事の現場を遠望し、震災後の2013年に本土の学校に統合され閉校となった女川町立第四小学校・第二中学校の旧校舎をちらりと眺める。その少し先には、広大な空き地の一隅を占めるように、新しい住宅がちんまりお行儀よくたたずんでいた。

出島集落の人たちが移り住んだ、災害公営住宅だった。標高70メートルほどの山中にあるので、津波に襲われる心配はなくなったが、常に表情豊かな海をうかがいながら暮らしてきた人たちからすると、寂しくていたたまれないこともあるのではないか。それならば、海辺に住みなさいとも言えないけれど。

出島集落の災害公営住宅(2022年12月)

コロナ下にあって、直接地元の人に聞くことはできなかったが、島に残って新しい環境になじもうとしているのは、漁業を続けようとしている人たちではないか。その状況が、大橋の開通によって一変してしまう。

安全だけれど大都市郊外のような潤いの少ない自然環境の新興住宅地で暮らすよりも、女川市街の便利なところに居を構え、そこから出島漁港までクルマで通勤しようと考える人たちが出てくるだろう。瀬戸内海などでは、架橋離島でなくとも、島へ船で通勤して漁をする人たちが増えているのだから。

クルマが高台にさしかかると、災害公営住宅が立ち並ぶ彼方、森の向こうに真っ青な海が見えた。時には牙をむくが、世界でも有数の豊かな海。今回の震災による出島集落の犠牲者は、9名。一方、寺間集落では16名が犠牲になった。出島集落より犠牲者が多かったにもかかわらず、もともと山がちで高台の家が多かった寺間につくれらた災害公営住宅は、数戸だという。

出島を一巡りしてから、寺間漁港を一望する高台の宿に案内された。通された角部屋はこれまた絶景で、見飽きることがない。しばらくすると、地元産銀鮭などを中心とした海産物満載の夕食が並んだ。この季節、本来ならばアワビが採れるのだが、海が荒れ気味で全然出漁できていないのだという。

宿の部屋から一望した早朝の寺間漁港。左奥は金華山(2022年12月撮影)
寺間漁港の彼方に金華山を臨む。湾口の防波堤は1本だけ(1995年10月撮影)
「民宿いずしま」の夕食(2022年12月撮影)

「ところで、どうして出島で民宿だったんですか」
震災後、「民宿いずしま」の佐藤さんがなぜ、わざわざ島へ移住して宿を始めたのか、ぜひ知りたかった。

様々な職業を経験した後、仙台で30年近く飲食関係のマネージメントをしていた佐藤さんだが、自由になりたくて仕事を辞めた頃、元の職場の知り合いから、声がかかった。

出島にある行きつけの民宿がやめるので、片づけを手伝ってあげて欲しいと。誘われるまま、初めて出島に来た佐藤さんは、その晩夜中に部屋で目が覚め、自分を包み込むように広がる満天の星空に圧倒された。その瞬間、出島と恋に落ちたのかもしれない。

けっきょく、以前の経営者から民宿を譲り受け、翌2018年の3月11日、新たに生まれ変わった「民宿いずしま」がスタートした。
「再出発という意味を込め、あえてこの日を選んだんです」

佐藤さんの魅力は、何よりも前向きなこと。大橋架橋で訪れる人が増えるだろうから、島のすばらしさをもっと知ってもらえるよう、新しい観光ポイントを開拓したいと考えている。

現在は、船からしか楽しむことができない島の東海岸は、三陸海岸でも特筆すべき見事な景観が続くという。類稀なる海岸美を、陸上からも眺められないか。そんな絶景ポイントを、探索中だ。

ついつい架橋に関して後ろ向きな話も書いてしまったが、出島が観光地として認知される絶好の機会であることは間違いない。大橋が開通したら、ウニやホヤがおいしいという初夏を狙い、笑顔がすてきな佐藤さんと再会しに行かなくては。


【出島概要】
●所在地
宮城県 牡鹿郡女川町
●人口
90人(2022年9月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治22年 町村制施行に伴い女川村となる
大正15年 町制へ移行し、女川町となる

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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