つくろう、島の未来

2024年11月23日 土曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第22回は、瀬戸内海中央に浮かぶ魚島(うおしま|愛媛県)へ。島の暮らしに密着し、住民の足として親しまれていたトーカイ(渡海船)の思い出を振り返ります。

今治内港渡海船専用繋留地区(2000年5月撮影)

魚島最後の渡海船・天狗丸

瀬戸内海の多くの島々で、お年寄りと話をしていてトーカイという言葉が出ると、なぜかホッコリと場が和む。敗戦から立ち直りつつあり、日本社会全体に右肩上がりの勢いが感じられた、古き良き時代の記憶を呼び起こしてくれるからだろう。
辛いことや苦しいこともたくさんあったに違いないが、過ぎてみればすべて懐かしい思い出と化している。今から考えると、不便極まりなかった島の生活を支えてくれていたのが、トーカイだった。

漢字で書くと、渡海船。しかし、改まってトカイセンと発音されることはまずなく、トーカイと愛称される。実際に発音してみると、「と~かい」はどこか優しげだ。
島々の特定の港(集落)と最寄りの本土を結ぶ小型の定期船で、物だけでなく人も運ぶことが多かった。手ごろな運賃で、島からはミカンなどの農作物を送り出し、島人の注文に応じて本土で必要なものを買い入れ、島まで運んでくれたので重宝されたのだ。

時には、本土で亡くなった人の亡骸(土葬の習慣が残っていた)や棺桶の材料を運ぶこともあったという。そんな時は、必ず渡海船にもお清めがふるまわれたので、酒に不自由することはなかったと聞いたこともある。

船会社が定期船を走らせるようになる前は、島と本土を結ぶ命綱であったし、一部の個人事業主が会社化していくなかでも、島人の暮らしに密着し融通の利く渡海船は生き延びていた。

渡海船天狗丸(左)と伯方丸。今治内港にて(2000年5月撮影)

渡海船の歴史は古い。データベース『えひめの記憶』には、こう記されている。

その起源は明確ではないが、伯方島の山岡岩吉が今治渡海を天保年間に開設したのが最初とされる。大正時代までは、二丁櫓もしくは四丁櫓の帆船であったが、大正一〇年頃、伯方島木浦の稲本大吉が、馬越熊太郎援助のもと焼玉エンジンを搭載した動力船「第一木浦丸」を就航させた。(『愛媛県史・地誌Ⅱ・東予西部』)

公共交通機関が未発達だった時代、渡海船はまさに島と本土をつなぐ命綱だった。太平洋戦争前は、越智諸島(おちしょとう|愛媛県)全域で35隻あったといわれるが、戦争が激化するにつれ船員も船舶も不足し、1940年には15隻になり、敗戦時には数隻が残るのみだったという。

1949年になり、敗戦の痛手を何とか克服しようと12隻の渡海船によって、今治渡海船協同組合が結成された。全盛期は、1954年からフェリーの就航がはじまる前の1962年まで。最盛時には、50隻を数えた。当時、島の各集落ごとに1隻は渡海船があったという。

フェリーの増加が渡海船の仕事を圧迫したものの、島内の道路整備はあまり進まなかったので、両者の共存状態が続いた。しかし、昭和40年代後半(1965〜1970年頃)、島内道路の整備が進んで自動車の移動販売が盛んになり、さらにオイルショックによる油代の高騰が、渡海船の存続に追い討ちをかけた。

今治へ入港する渡海船の数は、1962年45隻、1969年47隻とほぼ横ばいだったが、1973年25隻となり、1985年には16隻(他に尾道に5隻)、20世紀最後の年である2000年には、6隻にまで減少した。

そして、2010年最後まで運航していた大下島(おおげしま|愛媛県)の金毘羅丸(こんぴらまる)が引退して、今治港に入る渡海船は姿を消した。

芸予諸島(げいよしょとう|広島県・愛媛県)を控えた今治港と並ぶ二大拠点が、忽那諸島(くつなしょとう|愛媛県)や周防大島(屋代島・やしろじま|山口県)の玄関である三津浜港(松山市)だった。最盛時両港には数十隻のトーカイが居並び、そのさまは壮観そのものだったという。島の老人たちは、三津浜の繁栄を支えたのは自分たち島人だったと、豪語する。三津浜港には、まだわずかに渡海船が残っているが、それについてはまた別の機会に触れたい。

今治内港に停泊中の天狗丸(2000年5月撮影)

残念ながら、筆者は一番賑やかだった今治も三津浜も知らないが、それでも何隻かの渡海船を利用する機会があった。今となっては、幸せな体験だったといえるだろう。

中でも、印象に残っているのが、瀬戸内海中央の空白海域である燧灘(ひうちなだ)に浮かぶ魚島と今治を結んでいた天狗丸だ。20世紀最後の年、2000年5月に一度だけ利用した時のことを紹介しよう。

初回は、一般的な定期航路で因島(いんのしま|広島県)の土生(はぶ)から島伝いに渡ったので、今回は茫々たる燧灘の中心に向け、真っすぐに乗り出したい。2度目に魚島村を訪ねるにあたって、そう考えた。できたらポンポン船でのったりのたりと漕ぎ出せれば理想的。はたして、そんな手段があるのだろうか。

今治と魚島を結ぶ渡海船があると聞いたことがあり、それが一縷の望みだった。情報を手繰ってみると、月火木金と週4往復している渡海船天狗丸の存在に行き当たった。1975年までは、八幡丸という渡海船もあったらしいが、生き延びているのは天狗丸だけらしい。

朝6時半に魚島を出航し、今治へは8時半頃に到着する。帰りは今治を正午にでて、魚島には午後2時頃入港という。四国側から渡るつもりだったのでちょうどいい。

天狗丸の乗船場は、フェリーや高速船と異なる今治内港。場所はすぐに分かった。天狗丸の前方甲板部にはすでにかなりの段ボール箱が積み上げられ、マドロス帽をかぶり忙しく立ち働いている人がおしゃれな船長の植田光治さんだった。

「天狗丸で働きはじめて50年以上になる。最初は、親父とそれから兄貴を手伝った」
船に乗っていて半世紀がアッというまに過ぎてしまったと、船長ははにかみながら語ってくれた。

魚島〜高井神島〜今治を結んでいた渡海船天狗丸。たぶん、植田光治さん(2000年5月撮影)

最初のころは朝の3時に焼玉エンジンのぽんぽん船で魚島を出航、今治に9時頃の入港だった。潮がいいとその日のうちに戻れたが、あまり潮が合わずに翌朝戻ることが多かった。

最盛時は今治だけで50隻ほどが犇(ひし)めいた渡海船だが、今年になってからも1隻引退したので、現在運航されているのは6隻だけになったという。魚島の天狗丸以外に、伯方島(はかたじま|愛媛県)が3隻、大島(おおしま|愛媛県今治市)の友浦が1隻、大下島が1隻という内訳。

天狗丸はほぼ正午に出航した。同乗者は島のオバさんとオジさんが1名ずつ。楽しそうに大声で話をしている。病院帰りらしい。海が荒れるとつらいが、渡海船は早目につくので病院の順番取りに向いているとのこと。

小雨が降りはじめ、船のまわりは白一色となった。いつしかうたた寝をしていたらしい。右舷に突然大きな島影があらわれた。もう魚島なのだろうか。時計は1時を回ったばかりだから、いくらなんでも早すぎる。島の上に大きな煙突が現われた。もしかしたらと、操舵室の船長にたずねると、四阪島(※)だという。

※四阪島(しさかじま)……愛媛県北部の瀬戸内海沖に位置する家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島の総称

四阪島の大煙突は老朽化のため2013年解体された(2000年5月撮影)

2時10分近くなって、天狗丸は魚島港の浮き桟橋に接舷した。2年前、ニューうおしまで上陸したときより、はるかに旅をした気分に浸ることができた。待ち構えていた人々が、わらわらと寄ってくる。何パックも詰まった牛乳の箱を受け取ったのは、学校の先生風の若い女性だった。明日の給食用なのだろうか、などと想像してしまった。

今回この記事を書くにあたり、天狗丸のことが妙に気になってその後を調べてみた。今治市港湾課で電話対応してくれた人は、すでに天狗丸の存在自体知らなかった。時の流れで、それも仕方ないだろう。

駄目元で昔の連絡先に電話してみたところ、奥さんに少し話を聞くことができた。天狗丸の運航をやめた年を聞いたら、即答だった。
「平成12(2000)年です!」

なんと一度だけ乗せてもらった20世紀最後の年が、天狗丸が引退した年だったとは。しまなみ海道が開通して、運ぶ荷物も人も減り、また運航する側の高齢化や島の人口減少もあって、やめたのだという。

魚島から今治へ出ていった人も多かったので、いろいろ便利に利用していた人も少なからずいたのにと、今も残念そう。
「ちょっと魚を送ってあげるにも、便利だったんです。直行だったから」

早朝、魚島で揚がった魚を天狗丸に託せば、その日の午前中に今治の俎板(まないた)の上にのせることも可能だったのだ。そんな昔話をする声は、なんだか弾んでいるように感じられたのは、こちらの欲目欲耳だろうか。

機会があれば島で思い出話をたっぷり聞かせてもらいたいところだが、コロナ下にあっていつ訪れることができるか、まだ分らない。


【魚島概要】
●所在地
愛媛県越智郡上島町
●人口
128人(2021年12月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治22年 越智郡魚島村・上弓削村・下弓削村・佐島村の合併により弓削村となる
明治28年 魚島村として分立
平成16年 弓削町・生名村・岩城村との合併により上島町となる

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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